四十一歳の一花は、星を見る会で、四十五歳の陣内と知り合った。
公民館の掲示板にあった案内を見つけ、仕事帰りに申し込んだ。天文について詳しかったわけではない。子どものころ、父親に連れられて見た夜空が印象に残っていて、もう一度、街の灯りから少し離れた場所へ行ってみたかった。
その日は雲が多かった。参加者たちは望遠鏡のそばで空を見上げ、時々見える明るい点に声を上げた。一花には何が何だか分からなかった。
隣にいた陣内が、今見えたのはこの辺りだと、配られた紙を指さした。一花は彼の指先と空を見比べたが、すでに雲が流れ込んでいた。
「見えませんでした」
彼女が言うと、陣内は残念そうにしながらも、また見えると思いますと答えた。知らないことを恥ずかしがらなくてよい声だった。
会の終わりに、お茶を飲みながら話した。陣内はずっと一人で星を見ていて、最近こういう会にも来るようになったという。一花が好きな場所を尋ねると、地図を広げていくつも教えてくれた。
詳しい人の隣にいると、安心した。自分が知らなくても、その人についていけば何かよいものが見られる気がした。
二人は次の会でも会った。雲が出て何も見えない夜も、陣内は空を指して、そこに何があるか話した。一花は彼の話を聞くのが好きだった。知っていることを人に分けるとき、陣内の声は少し早くなった。
会の帰りに食事へ行くようになり、やがて二人だけで会うようになった。陣内は一花の好みをよく聞いた。食べたいもの、行きたい場所、苦手なこと。
一花はたいてい、何でも大丈夫と答えた。本当に嫌なことはなかった。陣内が選ぶ店は落ち着いていて、道順も調べてくれた。彼女はその気遣いをうれしく思った。
だが、そのうち、自分が何を見たいか尋ねられても、すぐに答えられなくなった。陣内ならもっとよい場所を知っている。自分が言うより、彼に決めてもらうほうが楽しい。その考えが先に出た。
一花は職場では、毎日のように判断をしていた。イベントの展示を組み立てる仕事で、限られた時間と場所の中で何を見せるか決める。帰りに会う人の前でまで判断したくないと思っていた。
一花には以前、同じ職場の人と長く付き合ったことがあった。仕事の相談も休日の計画も、同じ調子で話した。自分の希望を出すと議論が始まり、最後にはどちらの案が合理的かを決めることになった。
その時間が嫌で、彼女は私生活では何でもよいと答えるようになった。陣内はその人とは違う。分かっているのに、先に相手の答えを待つ癖は残っていた。
彼が店の候補を送ってくれたとき、行きたいところが一つあっても、一花は三つともよさそうと返した。陣内がその中から選び直すのを見て、自分の遠慮が彼の作業を増やしていることには、まだ気づいていなかった。
陣内は、その任せ方を信頼だと受け取っていた。彼女がうなずくと、よかったと笑った。一花も笑い返した。まだ、困っているとまでは思わなかった。
付き合って三か月、陣内が遠出の計画を全部組んだ。街から車で二時間ほどの場所に、空を広く見られる高台があるという。途中で早い夕飯を食べ、暗くなるころ着く予定だった。
彼は地図と時刻を、一枚の紙へまとめていた。持ち物も短く書いてあった。上着、歩きやすい靴、温かい飲み物。一花は準備の細かさに感心した。
だが、地図を見ているうちに、高台の近くに海があることに気づいた。少し迂回すれば、海沿いの道へ出られる。
「海にも寄りたい」
一花は言った。声に出したあとで、子どものようなお願いに聞こえなかったか気になった。
陣内は一瞬黙った。予定どおりに海へ寄ると、星を見る時間が減る。彼は紙の端に新しい時刻を書き、出発を早めれば間に合うか考えた。
一花はすぐに、無理ならいいと言いかけた。だが、それでは自分が行きたいと言ったことまで、なかったことになる。
「長くいなくてもいいの。でも、少し見たい」
言い直すと、陣内は顔を上げた。
「何でもいいって言われると、任せてくれてると思ってた」
一花は、任せると楽だから、自分も言わずにいたと話した。彼の準備に不満があったわけではない。ただ、自分で希望を出す練習をしないうちに、出す言葉まで見失いかけていた。
陣内は地図を広げ直した。二人で海の位置を確かめ、夕飯の店を一つ減らした。計画を変えるのは、思ったほど大きな衝突ではなかった。
出発の日、一花は自分で昼食を用意した。陣内の車へ乗ると、彼の鞄には同じくらいの量のパンが入っていた。
二人とも食べものを買うと思っていた、と笑った。一花は、事前に聞けばよかったと答えた。陣内も、自分が全部用意すると知らせなかったと言った。
余った分は帰りに食べることにして、車を出した。助手席で一花は紙の地図を持った。道案内の機械があっても、今どこを通っているか知りたかった。
途中の休憩所で、陣内は空を見上げた。予報より雲が増えているという。一花も見たが、雲の違いはよく分からなかった。
「今日は、難しいかな」
彼が言った。少し落ち込んだ声だった。
一花は、まだ分からないよと励まそうとした。だが、詳しくない自分が根拠なく言うより、残念だねと言ったほうがよい気がした。
陣内はうなずき、温かい飲み物を二つ買った。一花が一つ受け取り、今からでも海へ先に行くか尋ねた。彼は少し考え、そうしようと答えた。
いつもは彼が次の行動を決める。その小さな順番が、その日は一度だけ逆になった。
海へ着くと、夕方の光が水面の一部を明るくしていた。駐車場から遊歩道へ出て、二人はベンチの近くまで歩いた。潮の匂いが、冷たい空気に混ざっていた。
一花は子どものころ住んでいた町の話をした。海までは遠かったが、母親の実家へ行くと、必ず浜辺を歩いた。泳ぐ季節でなくても、海を見るのが好きだった。
陣内はそれを初めて聞いたと言った。一花も、なぜ今まで話さなかったのだろうと思った。星を見るようになった理由ばかり話し、それ以前から好きだったものを置いてきていた。
彼は、自分は海に来ると、どこから空が開けて見えるかを先に考えると話した。子どものころからそうだったらしい。
同じ景色にも、別々の入口があった。二人は並んで座り、持ってきたパンを食べた。予定していた店の料理ではなかったが、温かい飲み物と一緒に食べるとおいしかった。
一花は、今ここへ寄れてよかったと言った。陣内は少し笑い、僕も、と答えた。その返事に、彼が自分へ合わせてくれただけなのか考えそうになったが、今は言った言葉を受け取ることにした。
高台へ向かったころには、空がすっかり雲に覆われていた。二人は車を停め、少し歩いてみた。灯りの少ない場所で、足元を確かめながら進んだ。
ほかにも何人か来ていたが、しばらくすると荷物をまとめて帰り始めた。陣内は時々空を見上げ、言葉を探しているようだった。
星の説明ができない彼は、少し困った顔をした。いつもなら、そこに何があるかすぐに話してくれる。その知識が使えない夜に、自分が役に立たなくなったように感じているのかもしれなかった。
「せっかく来たのにね」
彼が言った。
一花は、海を見られたし、パンもおいしかったと答えた。慰めるために思いついたことではなかった。今日の中で、本当に楽しかったことだった。
「でも、星を見せたかった」
陣内は小さく言った。一花はうなずいた。彼の残念さを、別の楽しさで全部消そうとしなくてもよい。
二人はもう少しだけ待ち、雲が晴れないので戻ることにした。一花は、自分が今どの方角を向いているか分からないと笑った。陣内は道の位置を確かめ、駐車場はこっちだと示した。
正しい方角を教えてくれることは、やはり助かった。そのことと、行きたい場所を自分で選ぶことは、両立できた。
帰る前に、もう一度海へ寄った。夜の遊歩道は静かで、明かりのある場所から水面はよく見えなかった。波の音だけが、一定の間隔で近づいてきた。
陣内は今度、空のどこに何があるか説明しなかった。一花も尋ねなかった。二人は手すりから少し離れたベンチへ座った。
「今、ここが好きだな」
一花は言った。彼は海が好きなのかと聞いた。彼女は海も好きだが、計画と違うところへ来ても、二人で座っていられるのがよいのだと答えた。
陣内はしばらく黙り、自分は予定が外れると、相手をがっかりさせた気がすると話した。前に付き合っていた人にも、天気まで自分の責任にしなくてよいと言われたことがあるらしい。
一花は、自分も相手が用意したものへ不満を言うと、相手の全部を否定するようで怖かったと話した。二人とも、違うことを言うのが苦手だったのかもしれない。
「海に寄りたいって言ってくれて、よかった」
陣内が言った。一花は、次も言えるようにしておくと答えた。大きな宣言ではなく、次に地図を広げるときのための返事だった。
帰り道、陣内が次に行きたい場所を尋ねた。彼女は考え、温泉と答えた。星が見えるかは、どちらも調べなかった。
陣内は、近くにいくつか知っていると話しかけ、途中で笑った。一花も笑い、今度は自分でも探したいと答えた。彼は、じゃあ候補を持ち寄ろうと言った。
車窓には街灯が一つずつ流れた。一花は眠らずに隣で地図を持っていた。次の曲がり角を知らせると、陣内が礼を言った。
彼女は、今日一番楽しかったのは海だったと話した。陣内は最初のパンの交換かもしれないと言った。一花が驚くと、彼は好きなおかずの取り方が分かって面白かったと答えた。
二人の一日は、星が見えたかどうかだけでは測れなかった。見られなかった空の下にも、知らなかったことはたくさんあった。
駅前で降りる前に、一花は来週の夕飯の店を自分で選んでもよいか尋ねた。陣内はうなずき、苦手なものだけ先に伝えた。彼女はそれを覚え、自分の食べたいものも考えた。
家までの道で、一花は空を見上げた。北極星はまだ見えなかった。けれど、明日の予定を決めるのに、正しい星を指してもらう必要はなかった。隣にいてほしい人には、自分の言葉で連絡できた。