夫の白いシャツを直してほしいと頼んだとき、紗季は自分が何を望んでいるのか、うまく説明できなかった。
「袖口が擦れていて」
四十四歳の彼女が袋から出したシャツを、店主の圭吾は台に広げた。四十八歳だという彼の指は、爪が短く、細かな傷があった。
「同じ生地はありません。丈を少し詰めて、そこから布を取る方法なら」
「形が変わりますか」
「着たときには、少し」
紗季は口を閉じた。夫は三年前に亡くなった。もう着る人のいない服なのに、着たときの姿が変わるのは嫌だった。
「今日、決めなくても大丈夫です」
圭吾は袋へ戻すでもなく、シャツを丁寧に畳んだ。
その店は、紗季の勤める図書館と自宅の中間にあった。以前から小さな灯りは見ていた。入ったのは初めてだった。
持ち帰ると、紗季はシャツをいつもの場所へ吊した。夫の靴はもう処分した。書類も銀行口座も整理した。服だけが、朝の姿を残していた。
翌週、図書館の袖口がほつれた制服を持って、同じ店へ行った。圭吾は白いシャツのことを聞かなかった。紗季はそのことにほっとして、ほつれた糸を指で示した。
修理の受け取りは木曜だった。店を出ると、雨が降っていた。紗季が鞄を探ると、圭吾が入口から傘を差し出した。
「店のです。返すの、いつでも」
傘には金色のシールが貼ってあり、店名が消えかけていた。紗季は借りたが、三日後には返した。返しに行く理由を、長く持っていたくなかった。
借りた傘を返した日、店先に小さな木の椅子が出ていた。圭吾が古いコートの裏地を見せてもらっている年配の客を待っていたのだ。紗季もその椅子に腰を下ろし、通りを眺めた。
夫の入院中、待つ時間はどれも悪い知らせの前触れに思えた。今、誰かの用事が済むまで待っているだけの十分が、思いがけず穏やかだった。
客が帰ると、圭吾は待たせたことを詫びた。紗季は「平気です」と言い、今の自分は本当に平気なのだと確かめた。病院の窓ではない窓から、午後の光が入っていた。
それから月に一度ほど、何かを直しに行った。実際に直すところがあったし、彼の前では急いで元気になる必要がなかった。圭吾は客の話を聞きすぎる人ではなかった。紗季が仕事の失敗を話すと、自分もボタンを一つ付け違えたと言った。
ある晩、店じまいに出会い、二人で近くの定食屋へ入った。圭吾は離婚して七年になると、メニューを見ながら話した。紗季は夫のことを話した。
「病気だったんです。最後の半年は、帰れない日も多くて」
圭吾は水を飲み、「長かったですね」と言った。
紗季はその返事を何度か胸の中で聞き直した。短いとか、若いのにとか、かわいそうとかではなかった。
別れ際、駅の改札で圭吾が「またご飯、どうですか」と聞いた。
紗季は頷きかけ、止まった。
「友達としてなら」
圭吾は少しだけ目を伏せた。
「僕は、友達以上に会いたいと思ってます。でも、今決めなくていいです」
帰りの電車で、紗季は窓に映る自分の顔を見た。頬が赤い。それが嬉しいのに、その嬉しさを誰かに見られた気がして、俯いた。
その夜、紗季は夫の写真の前に座った。写真は旅行先のもので、夫は画面の外の何かを見て笑っている。紗季を見つめている写真ではない。生きていたときにも、夫の視線はいつも自分だけに向けられていたわけではなかった。
それなのに今、彼の目を借りて、自分で自分を見張っている。
紗季は写真の位置を変えようとして、手を止めた。恋を始めるために、夫を壁のほうへ向ける必要はない。そう頭では思えても、実際に圭吾へ返事を打とうとすると、指が動かなかった。
翌朝、図書館で長年連れ添ったらしい夫婦に本の棚を尋ねられた。妻が夫の言い間違いを笑い、夫が照れて手を振った。紗季は棚まで案内し、戻ってからカウンターの下で膝を押さえた。欲しかったのは新しい恋だけではない。失った毎日のことも、まだ欲しかった。
二度目の食事の約束を、紗季は前日に断った。夫の命日が近づき、夜になると胸が詰まった。圭吾には「体調がよくない」とだけ送った。嘘ではなかった。
彼からは、承知したことと、予約は取り消したという返事が来た。それから連絡はなかった。
紗季は店の前を通らなくなった。別の道は七分遠かった。図書館で返却された本を運ぶたび、どうして彼が追いかけてこないことに傷つくのだろうと思った。追いかけられたら、きっとまた逃げたのに。
命日に夫の妹と墓へ行った。帰りの喫茶店で、妹が「お姉さん、誰か好きな人いる?」と聞いた。
紗季はスプーンを落としそうになった。
「いたらいいなと思っただけ。最近、前の口紅つけてるから」
妹は笑ったが、紗季は笑えなかった。
「悪いことしてるみたいな気がする」
言ってから、許してくれる言葉を待った。妹はカップを置いた。
「私は、お兄ちゃんがどう思うかはわからないよ」
その答えは少し痛かった。夫が生きていれば言わないだろう言葉を、誰かが代わりに言ってくれるのを、紗季は待っていたのかもしれない。
「でも、お姉さんの話なら、聞ける」
紗季は圭吾の手のことを話した。シャツを畳むとき、生地を引っ張らない手。言葉を途中で奪わない人だということ。話しているうちに、夫の話と圭吾の話は、同じ場所を奪い合わなくなった。
翌週、紗季は店へ行った。何も持たずに入るのは初めてだった。
「この前、体調だけじゃなくて、怖くなったんです」
圭吾は針を布に留め、椅子から立った。
「連絡、できなくてすみません」
紗季が言うと、彼は小さく息を吐いた。
「断るのはいいんです。でも、待っていいのかだけ、わからなかった」
紗季は頷いた。彼にも彼の時間がある。自分の迷いの中へ、いつまでも立たせてよいわけではなかった。
「もう一度、誘ってもいいですか。今度は私から」
圭吾はすぐに返事をせず、来週の予定を確かめた。その少しの間が、紗季にはありがたかった。
それから半年、二人は月に二度ほど会った。映画で夫の入院を思い出し、紗季が途中で席を立ったことがある。圭吾はあとから出てきたが、「理由、今話せますか」と聞いた。紗季は首を振り、家に帰ってから電話で話した。
圭吾の誕生日には、紗季がレストランを予約した。席に座ってから、そこが夫と来た店だと思い出した。注文した料理も同じだった。彼女は黙らずにそれを言った。
圭吾はメニューを閉じた。
「今日は、僕はこっちを食べたいです」
彼が選んだ魚を一口もらい、紗季は自分の肉料理を分けた。その日の味は、その日のものになった。
ある日、圭吾が風邪をひき、約束を取り消した。紗季は何か届けようかと尋ねたが、彼はもう買い物を済ませたと答えた。必要とされなかったことに、一瞬胸が冷えた。
夫の看病では、必要とされることが自分の居場所でもあった。圭吾との間でも、同じ役を探していたのだろうか。紗季は作りかけた買い物の一覧を消した。
数日後、圭吾は回復し、自分で店を開けた。紗季が寄ると、「誰かに連絡してから寝るの、久しぶりでした」と言った。彼が欲しかったのは看病ではなく、自分が今日は来られないと伝える相手だった。その違いを、紗季は少しずつ覚えた。
白いシャツはまだ箪笥にあった。紗季は冬の終わりにそれを取り出し、もう一度店へ持っていった。
「私が着るように、直せますか」
圭吾は肩幅を測り、どこまで形を変えてよいかを確かめた。紗季は鏡の前で腕を広げた。夫の服は大きかった。袖をたくし上げると、手首が出た。
「全部、今決めたとおりじゃなくてもいいですか。途中で、嫌になるかもしれない」
「仮縫いで一度、着てもらいましょう」
彼は仕事の言葉で答えた。
シャツが仕上がる日、窓の外には桜が散っていた。紗季が着ると、背中にゆとりを残したまま、肩が落ちなくなっていた。擦れた袖口は短くなり、内側には別の白い生地が使われている。元の形は、写真の中に残った。
店を閉めたあと、二人は川沿いを歩いた。紗季が圭吾の手に触れた。彼は手を開き、彼女が指を重ねるのを待った。
「今日、家に寄っていきますか。お茶だけなんですけど」
「寄りたいです」
紗季は頷いた。家には夫の写真も、圭吾がまだ見たことのない自分の暮らしもある。玄関を開けるとき、胸は少し痛むだろう。それでも鍵を探す自分の手は、もう震えていなかった。