母の家を片付けるために帰郷した初日、千景は駅前の時計店へ入った。四十八歳の彼女が最後にこの店へ来たのは、十八年前だった。ガラスケースの位置は変わらず、天井の蛍光灯だけが白くなっていた。
奥に座っていた男は拡大鏡を額へ上げ、千景を見た。四十九歳になった康平は、父親に似た眉間の皺を作っていた。その皺がほどけるまでの間に、千景は帰れば会うだろうと考えていたことと、実際に会うことの差を知った。
「お母さんの時計?」
差し出した腕時計を見て、彼は言った。母は二ヶ月前に亡くなった。康平は葬儀へ来なかったが、店の名で花が届いていた。
「止まったまま、台所の引き出しにあったの」
「直るかどうか、開けてみます」
昔の彼なら、直すよとすぐに言っただろう。千景はその違いに、歳月の厚みを感じた。
二人はかつて恋人だった。千景が三十歳で東京への転勤を決め、康平が父の店を継いだ春に別れた。遠距離を試したが、会う日の約束が先延ばしになるたび、電話で互いの正しさを説明した。どちらも間違っていないことが、別れを難しくした。
修理票に名前を書くと、康平は連絡先の欄を指した。千景は今の番号を書いた。彼はそれを目で追わず、控えを切り離した。
「四日くらい、かかる」
「来週の日曜まで、こっちにいる」
それで話が終わった。店を出ると、駅前の花壇から濡れた土の匂いがした。昔より狭く感じる町に、昔のままには戻れない人がいた。そのことに千景は少し安堵し、同じくらい寂しかった。
母の家には、未開封の洗剤が三つあった。冷凍庫には小分けの葱、戸棚には客用の湯呑み。千景は大きなものより、次の週にも使うつもりだった小さなものを捨てる時に手が止まった。
三日目、時計店から電話が来た。修理の部品は見つかったが、刻印について確認したいという。夕方に訪ねると、康平は腕時計の裏蓋を小さな皿へ載せて見せた。
母の旧姓と、二十三歳の誕生日の日付が彫られていた。結婚する前、職場の仲間から贈られた時計だろうと千景は思った。母が若い勤め人だった時間は、写真でしか知らない。
「裏蓋に傷がある。磨くと薄くなるけど、文字も少し弱くなるかもしれない」
「傷は、そのままで」
千景が答えると、康平は頷いて修理票へ書き足した。相手の大切なものを、直す名目で消さない。その慎重さが、若い頃の彼にはなかった気がした。
店のシャッターを下ろす時間になり、二人は近くの定食屋へ行った。昔よく来た店は閉まり、そこには薬局ができていた。新しい店の唐揚げは生姜が強く、千景は水を一杯飲んだ。
康平には離婚歴があった。八年前に結婚し、三年前に別れた。子供はいない。千景は一度も結婚していなかったが、それを彼を待っていた物語にされたくなくて、長く暮らした相手がいたと話した。
「幸せだった?」
康平の問いに、千景は箸を置いた。
「幸せな時は、ちゃんとあった。ずっとじゃないけど」
彼は少し笑い、そうだよねと言った。自分たちの別れの後にも、二人はそれぞれ人を愛し、誰かに愛された。その事実を、今夜の邪魔者にしなくていい。千景は唐揚げをもう一つ取り、康平の皿にある漬物を見た。
「それ、まだ苦手?」
「今は好きだよ」
十八年を一息で測るには、それで十分だった。
翌日は母の本棚を片付けた。重い棚板を一人で外そうとして、千景は手を挟んだ。痛みより先に、自分の無謀さに腹が立った。康平へ電話をし、助けてくれないかと尋ねた。彼は店を閉める六時以降なら、と答えた。
以前ならすぐ来てくれるかどうかで、自分の価値を測っていた。今は六時までにできることを進め、軍手と雑巾を用意した。
康平は作業着のままやって来た。玄関で、入ってもいい、と改めて尋ねた。母がいた頃は何度も来た家なのに、その問いが千景にはありがたかった。
棚を動かすと、背後から一枚の写真が出てきた。夏の海辺に、若い千景と康平が並んでいる。母が撮ったものだった。康平の腕は千景の肩へ回りかけ、どこに置くか迷ったまま写っていた。
「これ、覚えてる?」
千景が見せると、彼は写真から目を逸らした。
「覚えてる。君のお母さんに、堂々としなさいと言われた」
千景は笑ったが、笑い終わると涙が出た。母は二人のことを、別れた後には一度も話題にしなかった。忘れたのではなく、引き出しにしまうように、そのまま置いてくれていたのかもしれない。
康平は近づきすぎず、箱からティッシュを取って渡した。千景はそれを受け取り、窓際の床へ座った。彼も少し離れて座った。
「お葬式、行けなくて、ごめん」
康平が言った。
「来たら、君の悲しい時に、自分の気持ちを持ち込む気がした」
「気持ち?」
彼は長く息を吐いた。
「会いたかったんだと思う。知らせを聞くより前から」
千景は写真を伏せた。嬉しさがすぐには湧かなかった。その代わり、何か大切なものを受け取る前の重さがあった。
「私は、帰ったら会うだろうって思ってた。会いたいとは、考えないようにしてた」
窓の外で、部活帰りの自転車が鈴を鳴らした。二人が若かった町は、二人抜きでも若い人を帰宅させている。
千景は手を伸ばし、康平の袖口を掴んだ。彼が顔を向けたところで、少しだけ近くに座ってと頼んだ。肩が触れるまで移動した彼に寄りかかると、母を失った寂しさと、彼に会えた温かさは、混じらずに同じ胸へ収まった。
時計が直ったのは土曜日だった。受け取りに行くと、針は午後四時を少し過ぎたところを指していた。康平は作業の説明をし、交換した古い部品も小袋へ入れて渡した。
千景は代金を払い、修理票の控えを受け取った。彼が無料にしなかったことが嬉しかった。これは母の時計を、仕事をしている康平へ預けた結果だ。二人の昔の時間で相殺しなくていい。
小袋の中には、米粒より小さい金属の部品がいくつかあった。千景にはどれが何か分からない。康平へ尋ねると、彼は紙の上へ簡単な図を描いた。途中で言葉が専門的になり、千景の顔を見て説明をやり直す。その姿を、彼女は初めてちゃんと見ている気がした。
昔は店を継いだという結論しか知らなかった。彼が毎朝この机に座り、知らない人の大切な時計を預かってきた年月を、単なる地元に残った時間として扱っていた。
「いい仕事をしてるね」
千景が言うと、康平は図の線を少し長く引いてしまった。
「ありがとう。上手くいかない日も多いけど」
照れた顔を見て、彼女は自分の東京での仕事も、今度、具体的に話そうと思った。忙しい、疲れた、だけでは伝わらない場所に、互いの十八年がある。すべてを取り戻そうと急がずに、一つずつ聞けばいい。彼の図を折って鞄へ入れると、修理票よりも少し大切な紙になった。
「明日、何時に帰る?」
「二時の列車」
「駅に、送ってもいいかな」
千景は頷きかけてから、明日の朝も会いたいと言った。夕食の約束のように言うと、康平は明日は朝七時までに市場へ行けば、美味しい粥が食べられると答えた。
朝の市場で、二人は湯気の立つ椀を持ち、空いているベンチへ座った。海に近い町の風はまだ冷たかった。千景は母の時計を左手につけていた。小さな盤面は、彼女の腕には少し若すぎるようにも見えた。
「東京へ、遊びに来る気はある?」
千景が尋ねると、康平は店の休みを数えた。
「月曜なら。泊まる場所は自分で取る」
「うちに泊まって、と今すぐ言えなくて、ごめん」
「謝らなくていい。僕も、昔の続きだけをしに行きたいわけじゃない」
彼の言葉を聞いて、千景はようやく、会う約束ができると思った。十八年前の失敗を、今度こそ正解に直すためではない。十八年かけて違う人になった二人で、知らない場所へ行くためだ。
家へ戻る道、誰もいない公園の脇で立ち止まった。千景は康平に触れたいと言った。彼は頷き、手を広げた。抱き合うと、昔知っていた身体の形は曖昧で、今ここにいる人の温度が確かだった。唇を重ねた後、彼が千景の額へ自分の額を寄せた。
駅では、時計を外してみせたりはしなかった。千景の左手首で、小さな針は当たり前に動いていた。
列車に乗る前、康平が東京の住所を尋ねた。千景は携帯に送り、その後に、駅で待ち合わせよう、と書き足した。家に帰る道を一度に教えなくても、駅から一緒に歩くことはできる。
窓の外で、彼は昔のように大きく手を振らなかった。片手を軽く上げ、千景が上げ返すまで待っていた。列車が動き、町の建物が後ろへ流れる。千景は母の時計へ耳を寄せた。聞こえないほど小さな音を、聞こうとする自分がいた。