結婚二十三年目の冬、理沙と修平は食卓に二枚の地図を広げた。ひとつは長野の町、ひとつは東京の沿線図だった。
五十一歳の修平は、父が倒れたあと実家の印刷所を継ぐことにした。五十歳の理沙は、出版社の制作部長になったばかりだった。どちらの決定も、半年のうちに起きた。
「駅からここなら、冬も歩ける」
修平の指は長野のアパートを示した。理沙のために探した物件だった。実家での同居を望んでいないことは、覚えていた。
「私は会社を辞めるって言ってないよ」
理沙が言うと、修平の指が止まった。
「辞めろとは言ってない。在宅とか」
「毎日、印刷物を見る仕事なの。画面だけじゃ済まない」
修平も印刷の仕事をしてきたのだから、知らないはずがなかった。彼は父親の診療明細を地図の上へ重ねた。
「俺も今、ほかの方法がない」
二人はその晩、地図を広げたまま眠った。翌朝、理沙は通勤鞄を持ち上げた拍子に地図を落とした。拾おうとした修平と手が重なり、二人とも引っ込めた。
二月、修平は一人で長野へ移った。暫定的に、という言葉を何度も使った。理沙は引っ越しを手伝い、日曜日の夕方に帰った。駅のホームで、修平が保温のボトルを渡した。
「新幹線で飲めよ」
中身は甘いコーヒーだった。理沙はここ数年、砂糖を入れていない。そのことを言いそびれ、温かいボトルを抱えて座った。
その夜、東京へ着いてから、理沙はボトルを洗った。甘い匂いが流しに残った。彼が何も覚えていないわけではない。昔、自分は砂糖を二つ入れたコーヒーを好んだ。彼が守ろうとする妻は、その頃の妻なのかもしれなかった。
理沙だって、彼をいつまでも丈夫で、段取りのよい人だと思っていた。引っ越しの日、階段で箱を置いて息をついた修平を見て、年齢を意識したばかりだった。二十年以上一緒にいても、相手が変わった場所を確かめるのを怠ることがある。
翌朝、修平から、父が理沙を待っていたという連絡が来た。理沙は仕事の机でそれを読み、週末には行くと返した。その返事を打った自分の指の速さが、あとから怖くなった。
初めの一か月は毎週末に通った。金曜の夜に荷物を詰め、土曜は義父を見舞い、日曜には修平の一週間分の食事を作った。印刷所は経理が滞り、修平は日曜も机に向かっていた。
ある日、理沙は洗濯物を畳みながら、何のために来ているのかわからなくなった。夫と会うための週末が、夫の留守を埋める仕事になっている。
「来週は来られない」
「仕事?」
「休みたい」
修平は計算機から顔を上げた。
「ここじゃ休めないか」
「休んでいいと思ってる?」
彼は答えず、湯を沸かしに立った。理沙は畳みかけたシャツを置いた。
「私が来ると、ご飯できて、洗濯も終わる。あなたは助かる。でも、私が何してたかは聞かない」
修平はヤカンの蓋を握ったまま、こちらを見た。
「俺が東京にいたころだって、そうだっただろ」
理沙はその言葉で、初めて自分が何年も黙っていたことを知った。
「だから、ここまで運んできたくないの」
その日は早い列車で帰った。ボトルは空のまま、台所に置いてきた。
東京へ戻った月曜日、理沙は大きなミスをした。再校へ回す束の中に、古い図版の残った一枚を入れてしまったのだ。同僚が印刷前に気づき、大事にはならなかった。理沙は礼を言い、机に戻ってから手帳を開いた。
過去六週間、何も予定のない休日がなかった。移動時間は休みには含まれない。その当たり前のことを、今まで自分の疲労に当てはめてこなかった。
その晩、修平へ交通費の合計を送った。請求書のように見えるかと迷ったが、数字を消さなかった。彼からは十分後に「こんなにか」と返ってきた。
理沙は「私も、計算して初めて知った」と送った。責めるための数字にしたくなかった。けれど、二人が実際に使っている金と時間を見ないまま、寂しさだけで会い続けることもできなかった。
三週間、二人は必要な連絡だけを交わした。義父の検査、税金の書類、東京の管理組合。理沙は一人で映画を観た。隣に人がいないことより、終了後に帰宅時間を気にしなくていいことに驚いた。
修平から電話が来たのは、水曜の夜だった。
「日曜、そっちに行っていいか」
「お父さんは」
「妹と話した。今週は任せる。店は閉める」
駅へ迎えに行くと、修平は小さな鞄ひとつだった。理沙は洗濯物を持ってこなかったことに安堵し、その安堵を隠さなかった。
近所の蕎麦屋で、修平は印刷所を続ける期限を決めたと言った。二年で借入を整理し、残せる仕事を見極める。父の代と同じ営業を続けることは、もう考えない。
「親父ががっかりするのが怖かった。でも、このままだと、俺も誰かが何とかしてくれると思ってる」
理沙は箸を置いた。
「私は、あなたに帰ってきてほしい日もある。でも、ずっと待ってる役にはなれない」
修平は「別れたい?」と聞いた。
理沙は答えるまでに時間をかけた。隣の席の天ぷらが運ばれ、戸口から冷たい風が入った。
「今は別れたいとは思わない。ただ、二年を自動的に渡せるわけじゃない」
その夜、二人は同じ寝室で眠った。修平が手を伸ばし、理沙の肩に触れた。理沙は彼の指を握ったが、それ以上近づかなかった。修平も引き寄せなかった。
朝になって、生活費の分け方と会う回数を書き出した。交通費を東京側だけの負担にしない。訪ねた側が家事を引き受けない。月に一度はどちらかの家ではなく、途中の町で会う。
書いてみると、旅行の計画よりずっと難しかった。修平は一度、ペンを置いた。「俺たち、こんな契約が要るのか」と言い、理沙は「今は要る」と答えた。
彼はしばらく紙を見てから、自分の分の署名をした。
契約めいた紙は、冷蔵庫に貼らずに引き出しへ入れた。翌週、電話で修平が「この前の紙、俺にも送って」と言った。彼は帰る前に写真を撮り忘れたらしい。
理沙はコピーして郵送した。封筒へ入れるとき、わざわざ手紙にするのが大げさで、少しおかしかった。余白に、今度会うときは洗ったボトルを持っていくと書いた。
返事には、印刷所で刷った小さな便箋が使われていた。『ボトル、俺も一本買った。お互い自分のを持てばいいな』とある。理沙は紙を一度折り直し、仕事の手帳へ挟んだ。
春、理沙は長野で一晩だけ泊まった。夕食は修平が近所の店に予約していた。義父は退院し、日中は介護サービスを利用していた。全部うまく運んでいるわけではなく、予約した直後にも義父から電話が来た。修平は店の外で五分話し、戻ってきた。
「帰らなくていいの」
「明日の朝、行くって言った」
彼は魚の皿を理沙のほうへ寄せた。二人で分けるために、骨を外してあった。昔、旅行先でいつもしてくれたことだった。
夏には会う予定が二度流れた。仕事と父の入院が重なった。理沙は怒ったし、修平も疲れていた。電話の終わりに「また考えよう」と言ったとき、どちらも、それが何を指すのか知っていた。
それでも秋、二人は中間の町へ出かけた。城の石段で理沙が足を滑らせ、修平が腕を支えた。離すときに、彼女はその腕を持ち直した。
「こうやって歩くの、久しぶりだね」
「家にいると、歩かないからな」
帰りの切符は別々の方向だった。ホームで手を振ることには、まだ慣れなかった。
最初の雪が降った日、修平から写真が届いた。印刷所の窓に積もった薄い雪。理沙は会社の窓から、雨の街を撮って送った。
その晩はビデオ通話で夕食を食べた。理沙は買ってきた弁当、修平は鍋だった。会話が途切れると、互いの箸の音が聞こえた。
「来年も、この形でいい?」
理沙は聞いた。期限まで、あと一年と少しあった。
「ずっといいかは、俺もわからない」
修平は正直に言った。
「でも今は、会う日のこと考えてる」
理沙は画面の向こうの、少し痩せた頬を見た。結婚を続けるという答えは、一度書けば消えない文字ではなかった。彼女は来月の予定を開いた。
「次は、私がそっちへ行く。お客さんで」
「わかってる。砂糖なしのコーヒー、買ってある」
東京の窓には雨が細く残っていた。理沙はカーテンを閉めず、食べ終わるまで画面をそのままにした。