四十歳の沙織には、春になると会う人がいた。
出張で来る四十三歳の既婚者だった。年に一度だけという間隔が、日常を壊していないように見せていた。
会い始めて四年になる。最初は仕事で知り合い、打ち上げのあと二人で話した。彼は最初から結婚していると伝えた。沙織は知らなかったわけではない。だから、あとから自分だけがだまされたことにはできなかった。
毎年、街路樹に新しい葉が出るころ、彼から連絡が来た。会えるのは二晩か、長くても三晩だった。彼の出張の日程に、自分の休日を合わせた。
その数日以外は、連絡も少なかった。沙織には仕事があり、友人がいて、一人で映画へ行く習慣もあった。誰かに毎日を預けているつもりはなかった。
だが、一年の予定を決めるたび、その数日を空けた。三月の終わりから四月の半ばまで、先に約束を入れないようにした。ほかの人の誘いを断り、誰にも理由を言わなかった。
何も壊していないのではなく、壊れたことに気づかないくらい小さく、自分の生活を避けさせていた。
二月、友人の美和から、春に一緒に展覧会へ行こうと連絡があった。隣県の美術館で、二人が昔好きだった画家の展示があるという。
沙織は日程を確かめ、少し先の予定がまだ分からないと答えた。美和は、仕事なら仕方ないねと言った。沙織は仕事だとは言っていなかったが、そう思われるほうが説明しやすかった。
一週間後、美和は別の友人と行くことにしたと知らせてきた。謝る必要のないことなのに、誘っておいてごめんと書いてあった。
沙織は、楽しんできて、と返した。送信してから、チケットを買うために相手が待っていた時間を思った。自分は誰かを待っている間、別の誰かを待たせていた。
その晩、沙織は手帳を開いた。春の欄だけ、白い部分がまとまっていた。会う日程が決まっていないから、何も書けない。彼女はその空白を、大切な予定のために残しているのだと思っていた。
白いままの欄には、展覧会へ行くことも、美和と昼食を取ることも書けたはずだった。
彼の名前は携帯に仕事先の名字で入っていた。今は直接関わる仕事はなく、そう登録しておく理由はなかった。けれど名前を変えると、関係をはっきり認めることになる気がした。
彼から連絡が来ると、沙織はすぐには開かないようにした。待っていたように思われたくなかった。数分置いて返すことを、自分が落ち着いている証拠にした。
本当は通知の時点で内容を読んでいた。仕事中なら、次の休憩まで何度も画面を見た。会える日が決まると、その前後の仕事をまとめ、髪を切り、部屋を片づけた。
年に数日だけだから、何も失っていない。そう思うために、一年の中の細かな時間をずいぶん使った。
彼は春の街を褒めた。自分が来る時期が一番よい季節だと言った。沙織は、自分の町の夏の夕立や、冬の夕方の明るさについて話したかったが、会える時間に話題を詰め込むのは惜しい気がした。
いつからか、彼の旅先としての町を案内することが増えた。普段の自分が買いものをする場所や、疲れて黙って歩く道は、見せないままだった。
今年の春、彼は来られなくなった。家族の都合だった。
連絡は短かった。予定が変わったことへの謝罪と、また落ち着いたら知らせるという文。そのあとに、もう一通届いた。
『来年は、必ず』
沙織はその文字を見つめた。来られないことに怒りたいわけではなかった。家族に何かあれば、そちらを優先するのは当然なのだろう。自分がそれを承知で続けてきたことも分かっていた。
だが、来年という言葉を見たとき、自分の来年が、もう予約されかけていることに気づいた。
今年会えないなら、また一年待つ。その一年を待つかどうか、彼は尋ねていなかった。沙織も今まで、待つのが当然のように返事をしていた。
彼女はすぐには返信しなかった。画面を閉じ、洗濯物を取り込んだ。袖のねじれたシャツを直し、タオルを畳んだ。何でもない動作を続けているうちに、手の震えが少し落ち着いた。
寂しかった。それ以上に、自分がこれから何をするか決めなければいけないと思った。
その夜、沙織は下書きに長い文章を書いた。四年分のことを、一つずつ説明しようとした。待つのがつらかったこと、友人へ嘘をついたこと、会ったあとでいつも少し空っぽになったこと。
書けば書くほど、彼が何と答えるか想像してしまった。そんなふうに思わせていたならごめん、寂しい思いをさせた、でも君は大切だ。その返事を受け取ったら、また来年の約束を残すかもしれない。
沙織は文章を保存せずに閉じた。説明したことを彼が理解するかどうかに、別れる決心を預けたくなかった。
翌朝、返信を書いた。
『来年は会いません』
それだけでは冷たいかと思い、何度も続けようとした。結局、今までありがとうございました、という一文を足した。今までを美しいことだけにするためではない。ここで終えるという、自分の返事にしたかった。
送信すると、すぐに既読になった。沙織は携帯を机へ置き、仕事へ出た。電車の中で何度も取り出しそうになり、鞄の内側へ入れ直した。
彼にはきっと、ただの急な心変わりに見える。沙織には、何年もかかった返事だった。
昼休みに返事を読んだ。どうしたのか、何かあったのか、電話で話せないか。彼の驚きが、短い文に並んでいた。
沙織は、電話では話しません、と返した。話し合えば二人にとってよい答えが出るという段階は、もう過ぎていた。続けることを選んだのも自分なら、やめることも自分で選ぶしかなかった。
そのあと、彼からもう一度、分かった、という連絡が来た。沙織は読んで、返事をしなかった。仕事の用事があるときは正式な窓口を通してほしいと最後に伝え、個人的な連絡が届かないよう設定を変えた。
手は震えなかった。代わりに、午後の会議で一度だけ、話を聞き逃した。隣の同僚に確認すると、相手は資料の場所を教えてくれた。世の中は、自分が何かを終えたことを知らずに進んでいた。
帰宅すると、夕飯を作る気がしなかった。冷凍していたご飯を温め、卵を焼いた。何かを決断したからといって、その日の自分が立派になるわけではない。沙織は皿を一枚洗い、早めに床へ入った。
次の日、美和に連絡した。展覧会はまだ行っていないかと尋ねると、来週行くという返事だった。沙織は、楽しんできて、と送ったあと、少し時間があれば会いたいと書いた。
二人は仕事帰りに食事をした。美和は旅行の予定や最近の仕事の話をし、沙織は黙って聞いた。何から話すべきか分からなかった。
食事が半分ほど終わったころ、沙織は会っていた人がいると伝えた。結婚している人で、年に一度だけ会っていたこと。今年、それをやめたこと。
美和はすぐには何も言わなかった。沙織は、その沈黙を責められている時間として受け取りそうになった。だが、友人にも驚いて考える時間が必要だった。
「知らなかった」
美和が言った。沙織はうなずいた。隠していたから、と答えた。
美和は、話してくれなかったことを少し寂しく思うと正直に言った。ただ、今話したいなら聞くとも言った。沙織はその二つを同時に受け取った。
何もなかったことにはならない。誰にも迷惑をかけていないという説明も、もう使えなかった。沙織は一度謝り、それから、待つのをやめたかったと話した。
金曜、職場で来月の休暇希望を集めた。沙織は例年、彼の予定が変わるかもしれないと、春の欄へ曖昧な印をつけていた。今年は、まだ決めていませんと担当者へ伝えた。
担当者は分かったと答え、締め切りだけを教えてくれた。それ以上、理由を尋ねなかった。沙織は自分の都合が、自分の言葉だけで受け取られることに少し驚いた。
帰りに、通勤用の靴を修理へ出した。受け取りは翌週でよかった。誰かが来るかもしれない日へ、急いで間に合わせる必要がない。その小さな用事が、今の暮らしの広さを教えてくれた。
空けていた週末が近づくと、沙織は何をするか決められなくなった。予定を取り戻したらすぐ自由になると思っていたが、白い欄はまだ白いままだった。
新しい予定を無理に詰めることはやめた。午前中に洗濯をし、壊れかけていた傘を処分した。昼には残りものを食べ、午後、近所の川へ行くことにした。
彼とは一度も歩いたことのない道だった。春になると桜が咲くことを、仕事へ向かう橋の上から毎年見ていた。休日にゆっくり下を歩くのは久しぶりだった。
桜は満開ではなく、散りかけていた。花びらが水面に寄り、流れの遅いところで渦を作っていた。沙織は写真を撮った。誰へ送るかは、撮ってから考えた。
美和から、今どこにいると連絡があった。別の友人と花を見に来て、近くまで来たらしい。沙織は場所を送り、待ってると答えた。
それから少し考え、一人ではないなら無理しないでとも書いた。美和は、皆で行くから、と返した。
待っている間、沙織はベンチへ座った。待つという動作が、全部嫌になったわけではなかった。会えるかどうか分からない来年を空けることと、今、橋を渡ってくる友人を待つことは違った。
友人たちへ自分の事情を全部話す予定はない。だからといって、今日ここにいることを隠す必要もなかった。
手帳を出し、来週の空いている欄へ、歯医者の予約を取る、と書いた。春の数日を避けて後回しにしていた、何でもない用事だった。終わらせた関係の代わりに、すぐ新しい恋を入れなくてもよい。自分の体や暮らしの予定を、先に置いてよかった。
来年、同じ場所へ来るかは分からない。誰といるかも、まだ知らない。その分からなさを、今度は誰かの返事で埋めようと思わなかった。
橋の向こうで、美和が手を振った。隣には、沙織も何度か会ったことのある友人がいた。二人とも、歩きながら何かを話して笑っていた。
沙織は大きく振り返した。近づいてきた美和に、花はもう少し先のほうが残っているらしいと話した。三人は川沿いへ歩き出した。
今日の残り時間を、隠さず一緒に使うことにした。花びらが一枚、沙織の袖へ落ちた。彼女はすぐには払わず、友人の話へ顔を向けた。