三十八歳の香織が朗読会へ行くと、客席には一人しかいなかった。
会場は古い雑居ビルの二階にある、小さな貸しスペースだった。壁沿いに本棚があり、椅子が十二脚並んでいた。香織は入口で予約した名前を伝え、後ろから二列目へ座った。
読み手は三十三歳の男性だった。主催者と小声で話し、何度も携帯の画面を見ていた。やがて主催者が前へ出て、案内の日付の一部に間違いがあったと謝った。来週だと思っていた人が何人もいたらしい。
香織は手帳を見直した。自分が受け取った案内には、今日の日付があった。間違えていなくてよかったと思う一方、こんなに少ない客の前で始める人は、どんな気持ちだろうと思った。
男性はマイクを使わずに挨拶した。名前は篠原渉。月に一度、短い物語を選んで読む会を続けているという。
「今日は、よく声が届きそうです」
彼が言うと、前の席の客が小さく笑った。香織も笑った。渉は少しだけ肩の力を抜き、最初の紙をめくった。
香織は、図書館に置いてあった案内を見て来た。本を読むのは好きだったが、朗読会は初めてだった。普段は会社で、数字の並ぶ資料を作っている。帰宅して本を開いても、行を追う前に眠くなることが増えた。
誰かが読んでくれるなら、途中で眠らずに聞けるだろうか。その程度の理由だった。特別な趣味を始めようという気負いはなかった。
渉の声は、香織が想像していた朗読の声より低く、静かだった。人物ごとに大きく声を変えず、句点のあとで少し間を置いた。香織は、その間に自分の部屋や昔の通学路を思い出した。
二つ目の作品の前に、もう一人の客が席を立った。急な用事があると主催者へ告げ、音を立てないように出ていった。残った椅子のほうが、空いた椅子より多くなった。
香織は自分まで帰ってしまうと思われないよう、背筋を伸ばした。すると渉が少し笑い、楽な姿勢でどうぞと言った。気を遣っていることまで見抜かれたようで、香織は椅子へ座り直した。
最後の短編は、夜の駅で待ち合わせる人の物語だった。結末より、その人が売店で飲み物を選び直す場面が香織には残った。自分にも、用事のない細かな迷いが一日の中にたくさんある。その時間が物語になることが、うれしかった。
会が終わると、渉は照れながら礼を言った。最後まで聞いたのは香織だけだった。
「少なくて、かえって落ち着かなかったですよね」
彼が言った。香織は少し考え、最初はそうだったと答えた。でも途中から気にならなくなったと付け加えた。
最後の短編が好きだったと伝えると、渉は主人公が待ち合わせの相手へ手を振る場面が好きだと言った。香織が飲み物の場面を挙げると、彼は紙を開き直した。
「そこ、短く読んだほうがいいかと思ってたんです」
「私は、迷っている時間が分かったのがよかったです」
渉はその箇所を指でなぞった。香織は、自分の感想が正解かどうかを考えずに言えたことに驚いた。
主催者が椅子を重ね始めたので、二人も手伝った。香織が本を棚へ戻すと、渉は一冊ずつ向きを確かめた。借りている部屋なので、元どおりにしなければならないという。
舞台の上で静かに読んでいた人が、椅子を二脚ずつ運んでいる。その普通の動きが、香織には親しみやすかった。最後の椅子を置くと、彼は来月もあるのでよかったらと案内を渡した。
香織は予定を確認してから返事すると言った。渉は、無理のないときに、と答えた。
次の会で、客は増えた。主催者が案内を直し、前の客にも改めて連絡したらしい。香織は最後列に座った。
渉は挨拶のとき彼女を見つけて、少し声が明るくなった。自分の思い違いかもしれないと思いながら、香織も小さくうなずいた。
その日は、前と同じ短編を一つ読んだ。飲み物を選ぶ場面で、渉は前回より間を取った。香織は、それが自分の感想のせいだと決めたくはなかったが、覚えていてくれたのだろうかと少しうれしくなった。
会のあと、ほかの客が渉を囲んだ。発声や作品選びについて質問が続いた。香織は自分が話しかける順番を待つべきか迷い、主催者へ挨拶して帰ろうとした。
入口で靴を履いていると、渉が声をかけた。
「このあと、お茶に誘ってもよいですか」
香織は彼を見た。朗読会の続きとして感想を求められているのかと思った。
「朗読の感想じゃなくても?」
彼女が聞くと、渉は、むしろ、と答えた。言ってから、自分で照れたように笑った。
二人は近くの喫茶店へ入った。客席に向かって話す声と、向かい合って注文する声は、同じ人でも違って聞こえた。
渉は普段、配送の仕事をしていた。人前で話すのは得意ではないという。香織が驚くと、決まった文章を読むことと、その場で話すことは違うのだと説明した。
「何を言うか、紙に書いてないので」
彼が言い、香織は笑った。渉も短く笑った。朗読の声とは違う、少し息の混ざる笑い方だった。
香織は自分の仕事を話した。毎月同じ形の資料を作るが、数字の理由は月ごとに違う。相手へ説明するために、何度も読み直す。渉は、そこも読む仕事ですねと言った。
香織は自分の仕事をそう考えたことがなかった。数字を見る仕事だと思っていたが、確かに、誰かが分かる順に並べ直していた。
渉が朗読を始めたのは、数年前に通っていた読書会がきっかけだった。感想を話すのが苦手で、一度、好きな文章を読んでもよいかと聞いた。その時間が楽しく、少しずつ続けていた。
「上手になったら人前で読もうと思っていたら、ずっとできない気がして」
彼は言った。香織は、最初の二人しかいなかった客席を思い出した。失敗しない人だから前へ立てるのではなかった。
連絡先を交換したあと、渉は次の会の案内だけを送った。香織は受け取ったことを返し、その日の帰り道に見つけた小さな古本屋の写真も送った。
彼から、そこはまだ入ったことがないと返事が来た。二人は翌週の昼、店の前で待ち合わせた。会場ではない場所で会うのは、喫茶店に続いて二度目だった。
渉は棚の前で長く迷った。香織は先に一冊選び、入口の近くで待った。彼が慌てて戻って来ると、待つのは大丈夫だが、あと何分くらいか言ってもらえると助かると伝えた。
渉は謝り、もう少しだけと答えた。香織も別の棚へ戻った。相手の速さへ全部合わせなくても、同じ店を楽しめた。
帰りに、渉は香織へ恋人がいるか尋ねた。自分には今いないと先に話した。香織もいないと答えた。彼が自分をただの客として見ているのではないことが分かり、うれしいと同時に少し緊張した。
次に会う約束は、朗読会と関係のない映画だった。香織が選び、渉が上映時間を調べた。二人とも初めて見る作品だったので、感想を前もって用意する必要はなかった。
映画のあと、香織は結末が少し苦手だったと話した。渉は気に入っていた。話しているうちに、同じ場面を全く違う意味で見ていたことが分かった。
渉は途中で、好きではないと言われたのが少し寂しかったと認めた。香織は、あなたが好きなものを全部好きにはなれないと思う、と答えた。
彼はうなずき、それなら自分も安心して違うと言えると笑った。香織も笑った。客席で拍手をすることと、隣に座って話すことは違う。彼のすることをいつも褒める役にはなりたくなかった。
次の朗読会で、香織は一つの作品が聞き取りづらかったと伝えた。渉は一瞬残念そうな顔をし、それからどのあたりか尋ねた。彼女は自分の感じたことだけを話し、どう直すべきかまでは決めなかった。
渉は後日、同じ作品を読み直してみると連絡した。香織は楽しみにしていると返したが、上手にできるようになるまで会わないなどとは思わなかった。
二人は夕飯を食べ、互いの仕事であった小さな失敗を話した。人前で読む声がなくても、彼と過ごす時間は続いた。
十一月のある日、香織は母の家で古い録音を見つけた。子どものころ、遠くに住む祖母へ送るために、姉妹で物語を読んだものだった。母が機械を探して再生すると、香織の幼い声が途中で何度もつかえた。
恥ずかしくて止めたくなったが、最後まで聞いた。姉が横から言い直し、香織が怒り、二人とも笑っていた。上手な朗読ではない。それでも、その日の家の空気が声の間に残っていた。
渉へ話すと、聞いてみたいと言われた。香織は今はまだ恥ずかしいと答え、彼はそれ以上頼まなかった。
「昔の声を聞くと、知らない人みたいでした」
香織が言うと、渉は、自分も練習の録音を聞くとそう思うと話した。頭の中で聞いている声と、外へ出た声は違うらしい。
その夜、香織は本を一ページだけ声に出して読んだ。上手に聞かせる相手はいなかった。黙って読むときに飛ばしていた言葉で、息を継ぐ必要があると知った。翌日、渉へその話を送ると、彼は自分も同じページを探して読んでみると返した。二人で同じことをしていても、同じ部屋にいる必要はなかった。
次の会の前、渉から、今日は緊張していると連絡が来た。以前より多くの予約が入り、いつもと違う長めの作品を読むという。
香織は、終わったら夕飯に行こうと返した。頑張って、だけではなく、そのあとの時間を一緒に持ちたかった。
当日、彼女は最後列に座った。会場にはほかの客の期待があり、紙をめくる音があった。渉は一度だけ彼女を見つけ、それから全体へ目を向けて挨拶した。
香織は、自分だけへ読んでもらう必要がなくなったことを、よいことだと思った。最初の夜の小さな特別さは残っているが、それが二人の全てではなかった。
会が終わると、香織は主催者へ礼を言い、外で待った。片づける時間は渉の仕事の一部で、今日は手伝わずに待つことにした。彼が出てくると、少し疲れ、少し楽しそうな顔をしていた。
「お腹、すきました」
彼が言った。香織は笑って、近くの定食屋を指した。今夜は作品の感想から話さなくてもよかった。観客の席とは別に、彼を待つ場所ができていた。二人は並んで階段を下り、通りの明かりへ歩き出した。風に冬の匂いがした。