三十二歳の佳奈と三十六歳の律は、雨の日にだけ同じカフェで会った。
店が空いているからと、最初に律が言った。佳奈はその気軽さに救われていた。前の恋が終わったばかりで、決まった予定が重かった。
水曜の夜は一緒に食べる、日曜はどちらかの家で過ごす。以前の恋人とは、そういう予定を何度も確かめ合っていた。会えない日は理由を説明し、埋め合わせの日を探した。楽しかったはずの約束が、最後には互いの都合を測る帳面のようになった。
別れてから、佳奈は誰とも予定を決めない週末を楽しんだ。昼まで眠り、洗濯をし、気が向けば外へ出た。自由だった。だが、午後に見つけた変な形の雲を、誰にも送れない日が続くと、その自由は少し静かすぎた。
律とは友人の食事会で知り合った。帰りに雨が降り、電車が遅れたので、二人だけ近くのカフェで待った。律は駅の反対側に住んでいて、その店をよく使うという。
「雨の日は、客が少ないんです」
彼は窓の外を見て言った。佳奈は、落ち着きますねと答えた。二人とも電車の運行情報を見なくなってからも、しばらく話していた。
二度目に会ったのも雨の日だった。佳奈が仕事帰りに店へ寄ると、律が奥の席で本を読んでいた。彼は顔を上げ、向かいの席を軽く示した。
佳奈はその日、誰かと会うつもりではなかった。だから、疲れた顔のまま座れた。律も、話したくなったら話すという調子だった。
「本の続き、読まなくていいんですか」
佳奈が聞くと、彼は、今ちょうど区切りだったと答えた。それが気遣いなのか本当なのか、佳奈には分からなかった。ただ、急いで楽しい話を用意しなくてよかった。
三度目は、佳奈から連絡した。夕方から強い雨の予報だったので、あの店へ行こうと思っていると送った。律は一時間くらいなら行けると返した。
会う理由が天気であれば、会いたいと大きく言わなくてもよい。佳奈はそれを楽だと思った。律も同じなのだろうと、尋ねずに決めていた。
二人は雨の日に会うようになった。いつも一緒に帰るわけではなく、律が先に出る日もあった。佳奈が仕事で遅れたときは、短く連絡し、別の日にしようと返ってきた。それ以上説明しなくてもよかった。
店の壁には、小さな写真が月替わりで飾られていた。五月は山の写真、六月は路地の写真だった。佳奈は路地の一枚に写っていた青い扉が好きだった。律はその手前の、傘を忘れたような自転車が気になると言った。
同じものを見ていても、目が向く場所は違った。二人は互いの見方を教え合った。会社や家族の話より先に、好きな写真や、苦手な飲み物を知った。
律は熱いコーヒーをゆっくり飲んだ。佳奈は氷の入った飲み物をすぐ飲み終え、グラスの水滴を紙ナプキンで拭いた。律がそれを見て、早いですねと言ったことがあった。
「冷たいうちに、飲みたくて」
「僕は、冷めるまで待ってます」
二人は笑った。どちらかへ合わせるほどの違いではなかった。
佳奈は、律といるときの自分が、以前の恋人といたときより気楽だと思った。それが彼の性格のおかげなのか、会う回数が少ないからなのかは分からなかった。分からないままで、もう少し続けたかった。
梅雨が明けると、二週間会わなかった。
最初の週は、佳奈も忙しかった。仕事が一段落した金曜の夕方、晴れた空を見て、あの店へ行っても律はいないのだろうと思った。
店には行った。いつもの席には別の客がいた。佳奈は窓際に座り、写真が海辺の風景へ替わっていることに気づいた。律ならどの一枚を選ぶだろうと考え、携帯を出した。
写真を送ろうとして、撮影してよいか店員へ尋ねた。許可をもらい、一枚撮った。それでも送らなかった。雨ではない日に連絡するのは、二人の決まりを変えることのように感じた。
そもそも、決まりと言ったことはあっただろうか。律が雨の日は空いていると言い、佳奈が雨の日は落ち着くと答えた。それを何度か繰り返し、自分たちで囲いを作っただけかもしれなかった。
家へ帰って天気予報を見ると、しばらく晴れが続いていた。佳奈は雨の記号を探している自分に気づいた。洗濯物を乾かしたかったはずなのに、今は雨を待っていた。
律からは連絡が来なかった。自分が望んだ気軽な約束を、彼が守っているだけだった。
翌週、友人の菜月と昼食を取った。律を紹介してくれた友人だったが、佳奈はこれまで二人で会っていることを話していなかった。
菜月は、会いたいなら連絡したらと簡単に言った。佳奈には、それが簡単ではなかった。自分から会いたいと伝えたあと、相手がそこまで思っていなかったらどうするのか。
「断られるのが嫌なの?」
聞かれて、佳奈は少し考えた。断られることより、一度言った希望がずっと続くものとして受け取られるのが怖いのだと思った。今日会いたいと言ったら、来週も会いたいと思わなければいけないような気がした。
菜月は、今日のことは今日のことではないかと言った。佳奈は笑った。自分が以前の関係から持ち帰った決まりを、律にも当てはめていたのかもしれなかった。
金曜の夜、佳奈はメッセージを送った。
『明日、晴れでも会える?』
送信したあと、携帯を裏返した。すぐに返事が来なければ、風呂へ入ろうと決めた。相手の返事だけで夜の長さを測りたくなかった。
返事は、昼の一時ならと具体的だった。
佳奈は、その早さに驚いた。いつも夜に会っていたので、律にも夜に会うつもりで聞いたのだ。彼には夕方から家族の用事があった。
二人は初めて、相手の一日の途中に会った。佳奈は午前中に洗濯をし、律は朝から父親の家へ寄っていたという。カフェの窓には、夜には見えなかった木の影が揺れていた。
律はいつもの席を選ぼうとして、佳奈に窓側でもよいかと聞いた。彼女はうなずいた。明るい場所では、彼のシャツが紺ではなく深い緑だったことまで分かった。
佳奈は写真のことを話し、撮ったまま送れなかったと告げた。律は、見たかったですと答えた。
「雨の日だけのほうが、安心なのかと思っていました」
彼が言った。佳奈は、最初はそうだったと答えた。前の恋が終わったばかりで、次に何か決めることが怖かったのだと、少しだけ説明した。
律は聞いてから、自分も急に関係を進めるつもりはなかったと話した。ただ、店が空いていることより、一緒に話すのを楽しみにしていたという。
「私も。会いたいと思ってた」
佳奈は言った。言っても、来週の約束を今すぐ作るよう求められなかった。律はうれしそうに笑い、今日連絡をもらえてよかったと答えた。
二人は昼食を頼んだ。夜には出ないサンドイッチがあった。律は辛いものが得意ではなく、佳奈は彼が残そうとしたソースを少し分けてもらった。知っている店にも、まだ知らないものがあった。
佳奈は、律の家族の用事について尋ねた。彼は妹の家へ行き、甥の誕生日を祝うのだと話した。贈り物を決めるのに時間がかかったらしく、鞄から包装された箱を少し見せた。
佳奈は、いつも自分と会ったあとも彼の一日が続くことを、初めて具体的に想像した。仕事から店へ来て、家へ帰る。それだけの人ではなかった。
彼女も夕方には、頼んでいた棚を受け取る予定があった。その話をすると、律は組み立てるのが得意ではないと言った。佳奈は自分も説明書を読むのに時間がかかると笑った。
「手伝いましょうかって、言おうか迷いました」
律が言った。佳奈は、今日は一人でやってみたいと答えた。彼は、それなら完成したら写真を見せてくださいと言った。
断ることと、会いたくないことを同じにしない会話ができた。佳奈はそのことを、あとから何度も思い出すだろうと感じた。
午後三時、律はそろそろ出る時間だと時計を見た。佳奈は、自分も帰って棚の置き場所を空けようと言った。名残惜しさはあったが、どちらかが相手の用事を小さくする必要はなかった。
帰り道、通り雨が来た。二人とも傘を持っていなかった。朝の予報では、雨は降らないはずだった。
店の軒先へ戻り、二人は声を上げて笑った。いつもは傘を持って来る場所へ、今日に限って持ってこなかった。
律は包装した箱を鞄の奥へ入れ直した。佳奈は薄い上着の袖を確かめた。雨粒は大きかったが、遠くの空は明るかった。
「また雨の日に」
律が言いかけた。佳奈は、その前でも、と返した。彼も笑い、来週の予定を見て連絡すると答えた。佳奈は、自分からも連絡すると言った。
軒の外で道が少しずつ乾き始めた。二人は雨の弱くなったところで別々の方向へ歩き出した。佳奈は途中で一度振り返り、律が家族の待つ駅へ急いでいく背中を見た。
帰宅して、棚の部品を床へ並べた。途中で一度、板の向きを間違えた。説明書を読み直し、ゆっくり組み立てた。完成した棚を壁際へ置くと、部屋が少し広く見えた。
佳奈は棚へ、まだ箱の中にあった本を並べた。前の恋人と出かけたときのガイドブックも一冊あった。捨てようか迷い、今はほかの本と同じ段へ置いた。思い出がある物を全部なくさなければ、新しい人と会えないわけではなかった。
律から返信が来たのは、夜になってからだった。甥が贈り物を開けるのに夢中で、箱より包装紙を気に入っていたという。佳奈は声を出して笑った。返事を待っている間に自分の夜も進み、彼の夜にも別の出来事があった。
次の日、佳奈はいつもの店へ一人で行った。律と会う場所になってから、一人で入ることが少し寂しくなっていたが、その日は読みかけの本を持った。窓際で一時間読み、店員と新しい写真の話をした。
誰かと会える場所を、一人では使えない場所にしたくなかった。店を出るころ、律から水曜の夜はどうかと連絡が来た。佳奈は予定を確認し、その日は難しいが木曜ならと返した。晴れの予報でも、雨の予報でも、今は相談できた。
帰りに佳奈はもう一度、完成した棚の写真を見た。外は晴れていた。風も穏やかだった。雨の日まで待たずに伝えたいことが、今日の暮らしの中にちゃんとあった。