四十七歳の聡子は、習いごとの申込用紙で手が止まった。緊急連絡先の欄に、以前の夫の番号を書きかけた。
数字を三つ書いたところで気づき、ボールペンを置いた。離婚して二年たっていた。住所も職場への道も変わったのに、こういう欄を埋める手だけは、昔のままだった。
受付の人へ書き直してよいか尋ねると、新しい用紙を渡された。聡子は氏名からもう一度記入した。緊急連絡先には、兄の番号を書いた。
始めるのは、町の公民館で開かれる木工の教室だった。椅子を作るほど大きなことではなく、最初は小さな箱や棚を作る。道具を使うので、連絡先が必要なのだと説明を受けた。
用紙を出して外へ出ると、携帯に兄から買いものの相談が届いていた。最近、家の台所を少し直しているらしい。聡子は返事と一緒に、緊急連絡先へ名前を書いたと知らせた。
兄は、了解、とだけ返した。その短さにほっとした。離婚以来、頼ることの一つひとつに長い説明が要るように感じていたが、兄は用事として受け取ってくれた。
帰り道、交際して半年の真一と会った。彼は五十歳で、二人とも一人暮らしだった。近所の喫茶店で知り合い、月に数回、夕飯を一緒に食べるようになった。
真一には結婚の経験がなかった。聡子は初め、自分ばかり過去の荷物を持っているように感じた。だが、彼にも長く続いた恋があり、親を見送った経験や、仕事を変えた時期があった。結婚していたかどうかだけで、荷物の重さは決まらなかった。
聡子は申込用紙の話をした。元夫の番号を、まだ手が覚えていたと笑った。
真一は笑わず、でも深刻にもならず、長く書いていた番号なんですねと答えた。
「次からは、僕の名前にして」
そう言われるかもしれないと思っていた。言われたらうれしい気もするし、急に責任を受け渡すようで怖くもあった。
彼は自分にしてほしいとは言わなかった。
「何かあったら、連絡はもらいたい」
その言い方に、聡子は顔を上げた。
「名前を書いてなくても?」
「もちろん。書いてあるからしか、頼れないわけじゃないでしょう」
用紙に名前を書くことと、実際に頼ることは別だった。聡子はその当たり前のことを、少しずつ覚え直す必要があるのだと思った。
最初の教室で、聡子は板を切る線を間違えた。講師に見てもらうと、予定より小さな箱にすれば作れると言われた。失敗をなかったことにはできないが、終わりにする必要もなかった。
隣の席の女性が、自分も最初に同じことをしたと話した。名前は郁代といい、聡子より五歳年上だった。教室へは三年通っていて、作品を家族へ渡しすぎて、最近は置き場所に困っているという。
「小さいほうが、案外使うのよ」
郁代は板の端を押さえながら言った。聡子はその言葉に励まされた。何かを手伝ってもらうとき、代わりに何を返すかばかり考える癖があったが、ここでは次の人の板を押さえればよかった。
帰り道、聡子は真一へ写真を送った。まだ板を組んだだけの、小さな箱だった。真一から、何を入れるのかと返事が来た。
聡子は、鍵かもしれないと答えた。兄にも写真を送ると、蝶番をつけたらどうかと、すぐに提案が届いた。二人の返事は違い、どちらもそれぞれうれしかった。
一人の人から全部の反応をもらわなくても、作ったものの行き先は増えていく。そのことが、聡子には教室へ通う理由の一つになった。
一か月後、聡子は駅の階段で足をひねり、軽い捻挫をした。病院から一人で帰れる程度だったが、持っていた荷物が重かった。
教室で使う板を買い足した帰りだった。袋を持ち上げるたび、腕と足の両方に力が入る。駅から家までの道を思い浮かべ、途中に座れる場所がないことに気づいた。
真一の番号を開いた。かける前に、仕事中かもしれないと迷った。迷っているうちに兄の顔も浮かんだが、兄の家はもっと遠い。
誰かを選んで頼むことが、ほかの人を選ばなかったことになるようで、聡子はよく困った。だが、そのまま座っていても荷物は軽くならなかった。
真一に電話をし、迎えに来てもらえないか尋ねた。仕事中なら断ってほしいとも伝えた。
彼は少し間を置き、その日は難しいと言った。外せない打ち合わせが続き、夕方まで動けないという。
聡子は分かったと答えた。電話を切ったあと、胸が少し沈んだ。それが相手に拒まれた痛みなのか、ただ困りごとが解決しなかった落胆なのかを、分けて考えてみた。
歩かずに帰る方法はあった。聡子は近くのタクシー乗り場へ移り、家まで乗った。真一に、無事に帰れそうだと連絡した。彼から、着いたら知らせてくださいと返ってきた。
断られたあとも会話が続くことが、思っていたより安心できた。
夕方、真一は夕飯を持って来た。迎えられなかったことを何度も謝らなかった。聡子も、断られたことを拒まれたとは思わなかった。
二人は足を置く場所を空け、弁当を食べた。真一は台所でお茶を淹れた。どこに茶葉があるか尋ね、戸棚を一つずつ勝手に開けずに待った。
「お湯を運ぶの、頼んでいい?」
聡子が言うと、彼はうなずいた。さっき電話で頼んだことはできなくても、今できることがあった。
食後、真一は棚の上の未完成の箱を見た。聡子は蓋をつけるか迷っていると話した。彼は、よく使う鍵なら蓋がないほうが便利かもしれないと言った。
「兄は、蝶番をつけたらって」
「それもよさそうですね」
真一は答えた。どちらの意見を採るか、その場で決めるよう求めなかった。
聡子は、昔なら一つの答えを選ぶことが、その人を選ぶことだと思っていた。夫の提案を断ると、否定したようで居心地が悪くなった。相手がいつもそう受け取ったわけではない。自分の中に、断るのが下手な部分があった。
真一にそう話すと、彼も頼まれると無理をして引き受けがちだったと話した。断れるようになったのは、引き受けてから間に合わなかった経験があるからだという。
「今日は、電話をもらってうれしかった。でも、迎えには行けなかった」
二つのことを、彼はそのまま並べた。聡子もそのまま受け取れた。
翌日、兄から様子を見に行こうかと連絡があった。聡子は、昼なら来てもらえると助かると答えた。夕方はオンラインの仕事があるので、その前まで、と時間も伝えた。
兄はパンと果物を持って来た。玄関に置いてあった板を見て、これを運んでいて転んだのかと尋ねた。聡子は、そう、と答えた。兄は重そうだねと言い、棚の脇へ移してくれた。気をつけろという話を長くしなかった。
兄が帰る前、聡子は緊急連絡先について改めて聞いた。名前を書いてよかったかと尋ねると、兄はすでに了解と返したでしょうと笑った。
「でも、私にも何かあったとき、連絡してね」
聡子が言うと、兄は少し考え、台所の棚を見に来てもらいたいと答えた。何か重大なことではなくても、姉妹ではなく兄妹でも、頼む理由を探さずに連絡してよいのだろう。
次の週、足が楽になると、聡子は兄の家へ行った。棚の色を二つから選ぶ相談だった。彼女の意見は、兄が最初に考えていた色とは違った。二人で見比べたあと、兄は元の色を選んだ。
聡子は腹を立てなかった。相談に呼ばれたことと、答えが採用されることは同じではない。それもまた、覚え直している最中だった。
教室へ戻った日、郁代が椅子を入口に近いほうへ動かしてくれた。聡子が礼を言うと、今日は板を押さえる役を頼むと言われた。座ったままでできる仕事だった。
役に立たなければそこにいてはいけないわけではない。それでも、手を貸すこともできると思えると気が楽だった。聡子は別の生徒の板を押さえ、自分の箱には紙やすりをかけた。
結局、蓋はつけなかった。鍵と、教室の名札を入れることにした。最初に予定した大きさより小さい箱が、玄関の棚にちょうど収まった。
真一が来たとき、その箱へ鍵を置くかと尋ねた。彼は自分の鞄に入れておくと答え、代わりに持ってきた小さな菓子を机へ置いた。聡子はそれを笑って受け取った。
合鍵を渡す予定も、一緒に住む予定も、今はなかった。頼れる関係になったことを、物や名簿の欄で証明しなくてもよい気がした。
八月のある晩、真一から電話が来た。翌日届ける予定の書類を印刷したいが、自宅の機械が動かないという。聡子の家でできないかと聞かれ、彼女は用紙の枚数を確かめた。
「今日はもう眠りたいから、朝なら」
断るほどではない頼みだったが、今から起きて待つのは疲れていた。真一は分かりましたと答え、結局、近くの店で印刷したと後で知らせてきた。
聡子は役に立てなかったことを少し残念に思った。それでも、眠りたかった自分の返事を取り消そうとはしなかった。
次に会ったとき、真一はいつもの調子で笑った。頼みを断ったことは、二人の間に見えない借りとして残っていなかった。聡子はその晩、自分から彼へ、重い棚を動かすのを手伝ってもらえないかと聞いた。前の頼みの交換ではなく、今、必要なこととして言えた。
秋、聡子は次の教室の申込用紙を受け取った。今度は少し大きな棚を作る講座だった。氏名と住所を書き、緊急連絡先には、また兄の番号を書いた。
迷わなかった。それが真一との距離を測る答えではないと分かったからだった。兄には用紙のことを知らせ、真一には何を作るか話す。郁代には道具の扱いで分からないところを聞く。その相手が一人だけである必要はない。
その夜、真一に、新しい習いごとが楽しみだと電話した。彼は次はどんな棚なのか尋ねた。聡子は説明し、彼が仕事で困ったことも聞いた。
電話を切る前に、真一が週末に会えるかと聞いた。聡子は、土曜は兄の家へ行くので日曜ならと答えた。彼は日曜の昼がよいと言った。誰かの用事を理由に断っても、次の約束を話せた。
聡子は玄関の箱へ携帯を置きかけ、それは鍵の場所だったと思い出して笑った。部屋の中には、自分で選んだ物の置き場所が少しずつ増えている。人との関係も、全部を一つの欄へ押し込めなくてよかった。
翌朝、聡子は新しい用紙を提出した。書き直す必要のない連絡先の下に、自分の名前がはっきり残っていた。