三十五歳の舞は、髪を短く切った。
長いほうが好きだと言った人に、連絡しなくなって三か月たっていた。彼は結婚していて、別れるときも、髪を切るほどのことかと言った。
舞はそのとき、切らなかった。彼のために切ったことにしたくなかった。携帯から連絡先を消した夜も、翌朝はいつものように髪を巻き、いつもの服で出勤した。
それで平気になったわけではない。駅前で似た背中を見かければ足が止まり、夜、通知が鳴ると自分に関係のない仕事のメールでも息をのんだ。ただ、その全部を、髪の長さに説明させたくなかった。
夏になり、首の後ろが暑くなった。乾かす時間も惜しかった。風呂上がりに洗濯物をたたんでいると、半乾きの毛先が何度も頬に張りついた。舞は翌日の昼休み、美容室を予約した。
「肩につかないくらいで」
鏡の前で言うと、美容師は結べなくなるが大丈夫かと尋ねた。舞は少し考え、結ばなくて済むように切りたいと答えた。
床に落ちる髪を見ながら、何か大きな気持ちになると思っていた。けれど、先に感じたのは首の軽さだった。美容師が耳の後ろの長さを確かめ、後頭部を鏡で見せた。舞は、自分の頭にこんな形があったのかと驚いた。
鏡の中の顔は、思いがけずよく見えた。失恋の印ではなく、今の自分の髪だった。
帰りに、以前から通っているパン屋へ寄った。夕方の店には、翌朝の食パンを受け取りに来る人が数人いた。舞は列の後ろで、冷房の風が首筋に当たるのを楽しんだ。
四十歳の店主が、涼しそうですねと言った。
舞は、軽いですと答えた。似合うとか、前のほうがいいとか、品定めされなかったことに少しほっとした。
店主の名は小田だった。舞は名前を、店の取材記事で知った。彼が一人で始めた店は、舞がこの町へ引っ越してくる少し前からあった。朝には焼きたての丸パンが並び、夕方は甘くない小さなパンが売れ残っていることが多かった。
舞はその売れ残りをよく買った。仕事から帰って、スープと一緒に食べた。誰かに会う予定がある日は、そのパンを買わずに店の前を通り過ぎた。小田にとって自分は、夕方に不規則に来る客だっただろう。
会計を済ませると、小田が新しいパンを一つ示した。中に炒った豆が入っているという。舞が迷っていると、明日も焼きます、と彼は言った。
今日決めなくてよいことが、心地よかった。舞はいつものパンを買い、豆のパンは次の楽しみにした。
月曜、職場で髪の理由を何度も聞かれた。失恋か、何かいいことがあったのか。舞は、暑かったからと答えた。その返事が簡単すぎたのか、相手は笑いながら、本当は、と続けることがあった。
舞は以前なら、相手が期待する冗談を返しただろう。今回は、本当に暑かったの、と同じ答えを繰り返した。説明が足りなくても、会話は別の話題へ移った。
昼休み、同僚の奈緒が、切る前に相談してくれてもよかったのにと言った。舞は、相談するようなことかなと笑った。
「私、切りたいって言ってから二年たってる」
奈緒は肩まである髪をつまんだ。舞は、自分も長いほうが便利だと思っていたと答えた。誰に似合うと言われたかは話さなかった。
ただ、その日の帰り、奈緒には関係が終わったことを伝えた。相手が既婚者だったことも含めて、短く話した。奈緒は驚いたが、詳しい質問はすぐにしなかった。
「寂しくなったら、電話して」
舞はうなずいた。誰にも言わずに終わらせるつもりだった。けれど、誰にも知られないままでは、また相手から連絡が来たとき、自分だけで決め直さなければならない。そのことが少し怖かった。
彼と知り合ったのは、三年前の仕事だった。最初から結婚していると分かっていた。だから、自分が知らずに巻き込まれただけだとは言えなかった。
会うのは平日の夜が多かった。舞は彼の都合を、自分の忙しさとして友人に説明した。日曜に一人で過ごすこと自体は嫌いではない。ただ、誰かを待つための日曜は、少しずつ長くなった。
去年の冬、彼が長い髪が好きだと言った。舞はその後、美容室で毛先だけ整えるよう頼んだ。自分でも気に入っていたと信じたかった。けれど、切ろうかなと口にするたび彼の顔色を見るようになっていた。
別れを決めたのは、髪のことが直接の理由ではない。舞が一週間の旅行へ行こうとすると、彼が、その間は会えないのかと不満を漏らした。家族と旅行する予定を直前に知らせてくる人が、自分の旅を惜しむ。その不釣り合いを、舞は初めてはっきり言葉にした。
彼は分かったと答えたが、舞が別れまで伝えると、そんな大げさな話かと言った。
今、思い返しても腹が立つ。けれど、怒り続けることでしか彼とつながれないなら、それも終わらせたかった。美容室から帰った夜、舞は旅行用の小さな鞄を棚から下ろした。
行き先はまだ決めなかった。誰の都合にも合わせず、自分がどこへ行きたいかを考えるのには、思ったより時間が必要だった。
次の週、パン屋の前で小田と偶然会った。彼は店の看板をしまい、腕に紙袋を抱えていた。舞は仕事帰りで、閉まった店を見て少し残念そうな顔をしたらしい。
「今日は、もう少ししか残ってなくて」
小田は袋の中を見た。舞は、売ってくださいと言いかけてやめた。閉店して、彼は仕事を終えたところだった。
「また明日来ます」
そう答えると、小田は少し笑った。
「よかったら、今度、店が終わってから散歩しませんか」
舞は聞き返した。店主が客へ言う挨拶の範囲が分からなかった。小田は、無理なら気にしないでくださいと続けた。焼き上がりの話以外もしてみたいという。
うれしかった。だからこそ、すぐにうなずけなかった。前の関係が終わったばかりで、新しい人に親切にされたことを、そのまま恋だと思いたくなかった。
「来週でも、いいですか」
舞が聞くと、小田は、もちろんと言った。急ぐ理由はないという、普通の声だった。
二人は金曜の閉店後に、川沿いを歩く約束をした。舞は自分の連絡先を伝え、彼から届いた短い確認の文を読んだ。待ち合わせの時刻と場所だけだった。その簡潔さに、自分も同じ調子で返事をした。
家へ帰り、短い髪を洗った。驚くほどすぐ乾いた。鏡の前に長く立たずに済み、寝るまでに三十分以上の時間が余った。
舞は本を開いた。以前、読みかけてそのままになっていた旅行記だった。文章を追っているうちに、携帯を置いた場所を一度忘れた。そのことが、うれしかった。
次の約束を楽しみにする自分がいた。けれど、その夜の全部を、誰かの返事に預けずに済んだ。小田から追加の連絡が来なくても、会う気がなくなったのだとは考えなかった。
水曜の夜、舞は旅行の行き先を一つ決めた。海へ行きたかったが、泳ぎたいわけではなかった。古い洋館の残る町に二泊して、港を歩く。それだけの予定を、自分の休みに合わせて組んだ。
宿へ電話をすると、二人用の部屋を一人で使うことになるがよいかと聞かれた。舞は値段と場所を確認し、それでお願いしますと答えた。以前なら、誰かを誘わなければもったいないと思っただろう。
予約を済ませたあと、胸が少し落ち着かなかった。楽しいはずの予定にも、不安は混ざる。誰かが勧めた旅ではないぶん、つまらなくても自分で選んだことになる。
舞は手帳に宿の名前を書いた。行く前から正しい選択かどうかを確かめなくてもよい。まずは行って、海の匂いをかいでみる。その程度の理由で動ける自分を、もう一度覚えたかった。
金曜、小田に会う前に、旅行用の帽子を買った。短い髪でも似合う形を、自分で鏡に映して選んだ。誰かに写真を送って確かめることはしなかった。
約束の日、仕事が長引き、舞は十五分遅れそうになった。断られるかもしれないと身構えながら連絡すると、小田は片づけをしているので大丈夫と答えた。舞は何度も謝る文章を消し、着いたら知らせますと返した。
店の角で会った小田は、仕事着ではなく薄いシャツを着ていた。彼の髪にも少し寝癖があり、店の中にいるときより若く見えた。舞は自分が彼の年齢さえ最近知ったことを思い出した。
川へ向かって歩きながら、小田は休みの日の話をした。店を始めてから、どこへ行ってもパン屋を探してしまうという。舞が、旅行でも仕事になるのかと聞くと、そうなんです、と困ったように笑った。
舞は仕事で使わない本を読むのが好きだと話した。二人の休日は、まだ重ならない部分のほうが多かった。そのことを、すぐ埋めなくてもよかった。
橋の近くで、小田が舞に、今、付き合っている人はいるかと尋ねた。彼自身は独身で、恋人はいないと先に話した。
舞は、今はいないと答えた。その前のことをどこまで言うか、足を止めて考えた。小田も立ち止まり、川の向こうを見て待った。
「終わった関係があって、まだ、すぐに次のことを決められないんです」
全てを詳しく話したわけではない。それでも、その夜の自分に言えるだけの本当だった。
小田は、散歩を一緒にするのも負担だったかと聞いた。舞は首を振った。
「それは、来たかったです」
「じゃあ、今日はそれで」
彼はそう言った。舞は少し笑った。次の約束を取るための夜にしなくても、今日の散歩は楽しいものとして残る。
川面に街灯が揺れていた。風が首筋を通り、舞は髪を押さえようとして、もうその長さではないことに気づいた。
「まだ、慣れませんか」
小田が尋ねた。舞は、乾くのが早くて助かると答えた。なぜ切ったのかとは聞かれなかった。
帰り道、来週の豆のパンの話をした。小田は水曜なら焼くと教えてくれた。舞はその日は残業かもしれないが、行けたら買うと言った。買いに行けなくても、約束を破ったことにはならない。
家へ着くと、奈緒から週末の誘いが来ていた。舞は行けると返信した。小田には、今日はありがとうございましたと送った。それから旅行記の続きを開いた。
髪はもう乾いていた。舞の夜には、友人との予定も、知らない町への憧れも、次の散歩を少し期待する気持ちも、同じくらいの広さで置かれていた。