三十七歳の優紀は、陶器市で青い器を持ち上げた。手のひらより少し大きく、深さのある器だった。内側の底に、釉薬のたまった濃い青が見えた。
値段を見て、そっと戻した。買えない金額ではない。けれど、買ってから何に使うかを考えるような買いものを、優紀は長くしていなかった。
半年前に一人暮らしを始めた。離婚のとき、食器は必要な分だけ持ち出した。白い皿二枚、マグカップ一つ、茶碗と汁椀。足りなければ買い足そうと考えていたのに、足りないことが何もなかった。
足りないと思えるほど、料理をしていないのかもしれない。そう気づくと、器を見ていた時間まで、少し贅沢すぎる気がした。
「来月も、同じ場所に出ます」
三十九歳の作り手が言った。優紀が値札を見たのを、気づいていなかったはずはない。それでも、取り置きできますよとは言わなかった。
「今日じゃなくても、また見に来てください」
買わない自由もある言い方だった。優紀は礼を言い、器から手を離した。
その日の帰り、優紀はスーパーで青菜を買った。帰宅して、湯を沸かし、久しぶりに和えものを作った。白い皿に盛ると、思ったより大きな山になった。
青い器だったら、もう少し収まりがよかっただろう。そう思った自分に、優紀は笑った。器を理由に台所へ立ったのは何年ぶりだろう。
元の家では、食卓を整えるのは優紀の仕事だった。相手が望んだというより、自分がそうするべきだと思っていた。見栄えのよい料理を作り、冷める前に食べてもらえるよう時間を合わせた。帰りが遅いと連絡が来れば、怒る前に温め直す方法を考えた。
一人になって、それをしなくてよくなった。楽だった。楽なのに、必要なものだけで食べる毎日は、自分を急いで済ませているようでもあった。
優紀は翌月の市の日を、手帳の隅に書いた。買うとは決めなかった。ただ、もう一度見てみたかった。
翌月、同じ通りへ行った。作り手は前と同じ、古い時計店の前にいた。前回は見なかった小皿と、縁の厚いカップが並んでいた。
青い器は売れていた。
「あれは、午前中に」
作り手は申し訳なさそうに言った。優紀は首を振った。約束したわけではない。誰かがあの器を選んだことを、残念に思うのは筋違いだった。
それより、作り手の顔を見て安心した自分に気づいた。名前も知らない人が、ひと月後も同じ場所にいる。そのことを確かめたかったのかもしれない。
「また、作ります」
彼が言った。
「同じ色になりますか」
「火の具合で、少し違うんです。全く同じにはならないと思います」
優紀は、前のと同じものが欲しかったはずなのに、その答えを聞いて少し楽しみになった。
作り手は大野と名乗った。近くの山あいに工房があり、月に一度、この市へ出てくるという。名刺には住所と窯の名前だけが印刷されていた。優紀も自分の名前を伝えた。
「注文ということにしますか」
大野が聞いた。優紀は考え、今は待っているだけでもいいかと尋ねた。
「もちろん。気に入ったら、手に取ってください」
彼は前回と同じ調子で答えた。優紀は、その日の帰り道も何も持っていなかったが、空振りだったとは思わなかった。
六月の市は、雨のために屋内へ移った。公民館の広間に、長机が並んでいた。優紀は入口で靴を脱ぎ、濡れた傘を袋に入れた。
大野の机には、まだ青い器がなかった。灰色の平皿や白い箸置きが並んでいた。彼は、窯を開けたが、思った色が出なかったと説明した。
「見せてもらえますか」
優紀が聞くと、大野は箱から一つ出した。くすんだ青緑だった。形は似ているが、最初の器とは違った。
「これは、失敗なんですか」
「器としては使えます。僕が、あの色を期待していただけで」
優紀は、使えるものにも作った人の落胆があるのだと知った。何かを作る仕事の難しさを、値札からだけでは想像できていなかった。
彼女は印刷会社で、冊子の進行を管理していた。決まった色を決まった部数そろえることが、普段の仕事では大切だった。違う色になったものを、別のよさとして見られるかどうかは、納品先次第だった。
その話をすると、大野は、僕も納期が決まる仕事では同じですと答えた。自由に作るものと、依頼に応えるもの。どちらも仕事なのだと聞き、優紀は彼を、好きなものだけ作って暮らす人だと思いかけていたことに気づいた。
二人はしばらく、それぞれの仕事の話をした。優紀が目を上げると、別の客が机の前で待っていた。慌てて場所を譲ると、大野は、また今度、と小さく言った。
それが仕事上の挨拶だと分かっていた。それでも、次に来る理由が器だけではなくなっていた。
夏、大野は一度だけ市を休んだ。出店者一覧で名前を見つけられず、優紀は会場を一周した。来る必要がなかったような気がして、帰ろうとしたとき、隣の布小物の店の人に声をかけられた。
大野を探しているのかと聞かれ、優紀は少し困った。青い器を待っていると説明すると、今日は家の用事があるらしいと教えてくれた。
名刺には連絡先があった。優紀は電話してみようかと思ったが、特別な注文をしたわけでもない。自分が気になっていることを、仕事の問い合わせに見せたくなかった。
その日は、布のコースターを二枚買った。家で一枚をマグカップの下へ敷き、もう一枚を引き出しに入れた。誰かを呼ぶためではなく、洗い替えとして二枚必要だった。その説明を自分の中で確かめるのがおかしくて、声を出して笑った。
次の月、大野はいつもの場所にいた。優紀を見ると、先月はすみません、と言った。
「休みのことまで、謝らないでください」
優紀は答えた。待っていたのは本当だが、その時間の責任を彼に全部負わせたくなかった。
大野は一瞬驚き、それから、そうですねと笑った。母親の家の修繕を手伝っていたという。話してくれたのは、彼が自分で選んだことだった。優紀は聞いたあとで、暑くなかったですかと尋ねた。
秋になるころ、優紀は台所の棚を整理した。使っていない大きな皿を一枚、姉に譲った。代わりに小さな保存容器を買った。自分が食べたい分を作り、翌日も食べる。そのための道具が、少しずつ増えていた。
大野には、器ができるまで待っていると言ってあった。それが恋愛の約束のように聞こえたら困ると思いながら、毎月市へ通った。彼がほかの客に笑うと、胸が少し曇ることがあった。
客として親切にしてもらっているだけだ、と自分に言った。けれど、その言い訳を使って、何もしないまま安心していることにも気づいていた。
十一月の市で、大野は優紀の好きな料理を尋ねた。青い器には何を盛るか考えていたらしい。
「最近は、大根を煮てます。地味でしょう」
「青には、白いものが合いますよ」
彼はそう答え、少し照れたように、僕も大根が好きですと言った。優紀は笑い、味を染み込ませる前につい食べてしまうことを話した。
そのとき、大野の携帯が鳴った。彼は短く謝って離れ、電話を取った。相手が誰かを知りたくなった自分に、優紀は戸惑った。彼に恋人がいるかどうかも、まだ知らなかった。
戻ってきた彼に、優紀は思い切って尋ねた。失礼かもしれないが、個人的なことを聞いてもよいかと前置きした。
大野は独身で、今は付き合っている人もいないと答えた。彼も、同じことを聞こうと思っていたと言った。
優紀は自分も一人だと話した。離婚していることまで、今言う必要はないかと迷い、それも伝えた。大野は、話してくれてありがとうございますと答えた。それ以上詳しく説明するよう求めなかった。
買いものに来た人が器を持ち上げ、会話はそこで終わった。優紀は帰る前に、来月も来ますと言った。彼は、待っていますと答えた。器ができていなくても、という言葉は、今度は付けなかった。
その晩、優紀は姉に電話した。用事があったわけではない。最近、会うのを楽しみにしている人がいると話したかった。
姉はすぐに名前や仕事を尋ねたが、優紀はまだあまり知らないと答えた。説明できるほど知ってから報告するつもりだったのに、声に出すと、不確かなまま楽しみにしていてもよい気がした。
「焦らなくていいんじゃない」
姉が言った。優紀は、焦っていないと思っていたが、器ができるのを待っている間に、自分の気持ちまで相手に決めてもらおうとしていたのかもしれない。
電話を切って、手帳を開いた。十二月の市の日には、仕事の予定が入っていなかった。その日の欄に、買いもの、と書いたあと、もし話せたらお茶へ誘う、と小さく付け足した。誰かに見せるためではない、自分への予定だった。
冬、新しい青い器ができた。最初のものより、少し灰色が混ざっていた。優紀は持ち上げ、窓の明かりへ傾けた。底にたまった色は深く、縁には土の柔らかな線が残っていた。
「これにします」
優紀は言った。大野はもう一つの箱から、似た形のものを出そうとした。彼女は、今持っているものでいいと答えた。
待っていたから買うのではなかった。見たときに欲しいと思えたから、買う。半年以上前に自分で決めたことを、ようやくそのままできた気がした。
大野が包む間、優紀は財布をしまい、息を吸った。
「今日の店じまいは、何時ですか」
「五時です」
「片づけが終わったら、お茶に誘ってもいいですか」
彼は包みのひもを結びかけて、手を止めた。
「ずいぶん、待たせましたね」
優紀は、器のことかと聞いた。彼は笑った。その笑顔を見て、彼女もようやく力を抜いた。
大野は仕事の箱を先に車へ運び、五時半に通りの角で会うことにした。優紀はそれまで町を少し歩いた。長い時間待ったはずなのに、その三十分は妙に落ち着かなかった。
角へ戻ると、大野は上着を替えて立っていた。店の机の向こうにいない彼は、少し背が高く見えた。優紀は鞄を持ち直し、包みの位置を確かめた。
帰りの鞄は少し重かった。二人は近くの喫茶店まで、割れものを持つ速さで歩いた。大野が扉を押さえ、優紀が先に入った。今度は器の完成を待つのではなく、互いがどんなコーヒーを頼む人なのかを知るための時間だった。