三十三歳の美咲は、仕事で泣きそうになると、ビルの非常階段へ出た。
避難口の扉を開けると、六階の廊下とは違う空気が頬に触れる。足元には雨の吹き込まない小さな場所があり、美咲は手すりの邪魔にならない壁際に立った。誰かが通るときは、すぐに身を寄せる。そこで過ごすのは、たいてい五分以内だった。
その日は、印刷へ回した案内状の宛名に間違いが見つかった。美咲の確認した一覧にはなかった変更が、最終段階で加わっていた。誰が悪いかという話になると、彼女は声が出なくなった。自分の確認した版を説明しようとしても、言い訳に聞こえる気がした。
会議が終わると、先輩に少し外の空気を吸ってくると告げた。先輩はうなずき、五分したら一緒に経緯を整理しようと言った。その親切で、かえって涙が出そうになった。
扉を開けると、先客がいた。別の会社の、三十八歳くらいの男だった。紺色の社員証を胸に下げ、携帯を握っていた。彼も目が赤かった。
二人は互いに何も尋ねず、雨の降る街を見た。
男は美咲が入ってくると一歩よけた。泣いていたのかと聞かれることも、何かあったのかと心配されることもなかった。美咲はハンカチを出すか迷い、鞄の中で握ったままにした。
遠くの道路をバスが通る。雨が屋根をたたく音に、社内の電話や会議の声が少しずつ薄まっていった。男が先に携帯をポケットへ入れ、会釈して戻った。扉が閉じる前、美咲も軽く頭を下げた。
五分後、席へ戻ると先輩が資料を並べていた。二人でメールの送信時刻を確かめ、修正がどこで加わったかを書き出した。美咲は、最終版を再確認する手順が必要だと提案した。誰か一人を責めるより、次に困らない仕組みを考えるほうが話しやすかった。
その夜、階段で会った男のことを思い出した。自分以外にも、昼間の建物の中で、短く隠れる場所を必要とする人がいる。そのことだけで、今日の失敗が自分の全部ではないと思えた。
翌週、また会った。今度はどちらも泣いていなかった。男は美咲を見ると、今日は雨じゃないですねと言った。
「降ってなくても、来るんです」
美咲が答えると、彼は、僕も、と笑った。
男は四階の設計会社に勤める片桐と名乗った。三十八歳で、昼休みにここで電話をすることがあるという。入院している父親に、短く連絡するらしかった。
「病院の決まった時間に、電話できるので」
詳しい病気の話はしなかった。美咲も聞かなかった。自分が逃げるためにここへ来ていることを話すと、彼は手すりの向こうへ目をやった。
「逃げ道、必要ですよね」
解決策を出さない声だった。
美咲は、戻らなければいけないのにと言った。片桐は、戻るために出てくることもあるでしょう、と答えた。立派な言葉としてではなく、実際にそうしている人の言い方だった。
二人はいつも五分か十分だけ話した。片桐は父親が昔、鉄道模型を作っていたことを話し、美咲は子どものころ駅の売店で買ってもらった飴の缶を今も持っていると話した。病気や仕事だけが、互いの話題にはならなかった。
ある日、美咲は階段へ向かう途中で、片桐が父親と電話している声を聞いた。はいはい、と少し苛立ったように返していた。扉を開けずに戻ろうとすると、彼が気づいて手を上げた。
電話を終えた片桐は、聞こえましたか、と苦笑した。
「同じことを何度も聞かれて。あとで、もっと優しく話せばよかったって思うんですけど」
美咲は、いつも優しくするのは難しいですねと答えた。彼をよい息子だと決めて慰めることも、もっと頑張れと言うこともできなかった。彼が少し楽そうに息を吐いたので、それでよかったと思った。
美咲は恋人と別れて一年になる。別れた理由を友人に話すとき、仕事が忙しくなったからと言っていた。それも一部は本当だった。だが、困ったことを話すたび、そんなことで悩むの、と返されるのがつらくなったことは言わなかった。
悩みの大きさを毎回比べられると、話し始める前に自分で小さくしてしまう。美咲はいつからか、何もないと言うのが上手になっていた。
片桐とは、天気の話から始めて、話したくない日はそれだけで終われた。沈黙を埋めるために、無理に深刻な出来事を差し出さなくてよかった。
ある木曜、美咲は仕事でうまくいったことを話した。案内状の確認表が使われ、別の担当者が間違いに気づけたのだ。片桐は、自分の会社でも似たことがあると話し始め、途中でやめた。
「ごめんなさい。今は、美咲さんの話でしたね」
名字ではなく名前を呼ばれたのは、前日に互いの下の名前を教え合ったからだった。美咲は笑い、そちらの話も聞きたいと答えた。
人の話を聞くのが初めから得意な人ではない。途中で気づき、戻ってこられる人なのだと思った。その小さな違いが、信頼できた。
彼の名前は直人だった。美咲は携帯の連絡先に、会社名も階数もつけず、片桐直人と登録した。
五月の終わり、美咲の会社が社内の席替えをした。窓のない会議室の隣から、通りを見下ろせる席へ移った。仕事の量は変わらなかったが、夕方の明るさを自分の目で確かめられるようになった。
直人にそう話すと、彼は席から何が見えるか尋ねた。美咲は最初、向かいのビルだけだと答えた。けれど帰って窓を見ると、その屋上に小さな植木鉢が並んでいた。誰かが毎日水をやっているのだろう。
次に会ったとき、美咲は植木鉢のことを伝えた。直人は、そのビルの管理会社を仕事で訪ねたことがあると言った。いつも怖い顔をしている管理人が、休憩中に花の世話をしているらしい。
それから美咲は、窓の向こうに人が現れるたび、ほんの少し気をつけて見るようになった。ある朝、背の高い黄色い花が咲いていた。撮った写真を直人へ送ると、彼から、今日は父の顔も少し明るかったと返ってきた。
仕事の失敗も病院の予定も、互いに代わって引き受けられるものではなかった。それでも、重い出来事の外側で見つけた小さなものを渡すことならできた。
翌日、美咲は階段へ行かず、昼休みに同僚と外で弁当を食べた。そのことを直人に話すと、彼はよかったですねと言った。会えなかったことを惜しませようとしなかった声に、美咲はまた会いたくなった。ここだけを自分たちの世界にしなくても、会いたい気持ちは薄まらなかった。
六月の終わり、強い雨のあとに虹が出た。遠いビルの間、細く切り取られた空に、淡い色が重なっていた。
美咲が指さすと、直人は胸ポケットと鞄を探した。眼鏡を会議室に置き忘れたらしい。予備を見つけてかけるまでに、色は薄くなった。
「今度は、先に呼んでください」
彼が笑った。
「見つけてから呼んだんですよ」
「じゃあ、僕が先に眼鏡をかけておきます」
二人とも、虹を見るためだけに準備をするわけではないことを知っていた。それでも次の約束のように聞こえて、美咲はうなずいた。
その日から、ときどき休憩の時間を合わせた。忙しいときは短く、今日は出られません、と送った。理由を長く書かなくても、相手は分かりましたと返す。
一度、美咲が連絡を忘れたことがあった。会議が延び、携帯を見ると直人から、今日は戻ります、という一文が来ていた。彼女は慌てて謝った。
直人は怒らなかったが、待っていたことまでなかったことにはしなかった。
『次は、分かったところでひと言もらえると助かります』
美咲はうなずきながら返信した。何でも許されることより、困ることを静かに伝えてもらえるほうが、長く会えそうな気がした。
七月に入ると、直人が一週間、階段へ来なくなった。父親の具合が悪くなったのかもしれない。美咲は何度も携帯を見て、尋ねる文章を作っては消した。
まだ恋人ではない。どこまで聞いてよいのか分からなかった。けれど、何も知らないふりをすることも違うと思い、短く送った。
『忙しそうですね。返事は急ぎません。落ち着いたら、またお話しできたらうれしいです』
翌日の夜、直人から返事が来た。父親の転院先を決めるため、妹と相談していたという。仕事も重なり、昼休みが取れなかったらしい。
『気にかけてくれて、ありがとうございます。来週は会社に戻れそうです』
美咲は、必要なことがあれば何でも、と書きかけた。その何でもを引き受ける準備は、自分にはまだない。代わりに、駅前の店でおいしい弁当を見つけたので、今度場所を教えると書いた。
直人は、ぜひ、と返した。それは美咲が実際にできる、小さなことだった。
再会した日、彼は少し痩せて見えた。美咲は疲れていますねと言わず、弁当屋の地図を見せた。直人は営業時間を確かめ、父親のところへ行く前にも買えそうだと話した。
二人で笑う声が、階段の壁に短く響いた。美咲は、ここ以外でもこの声を聞いてみたいと思った。
初めて会ってから二か月たった金曜、直人が食事へ誘った。階段の外で、という言葉をつけたので、美咲は笑ってしまった。
「階段では食べられませんね」
「そうですね。変な言い方でした」
彼も笑い、駅の近くの定食屋はどうかと尋ねた。美咲は、ゆっくり話せる店ならと答えた。二人は混む時間を避け、七時半に待ち合わせた。
その日、美咲は午後の会議で意見を言った。前なら飲み込んでいた、小さな確認だった。質問をすると場が止まることを恐れていたが、止まって確かめたほうがよいこともあると分かってきた。
夕方、先輩が今日は少し顔が違うと言った。美咲は食事の約束があるとだけ答えた。相手の説明をしなくても、隠している気分にはならなかった。
初めての食事の日、美咲は非常階段へ行かなかった。普通のエレベーターで下り、正面玄関で待った。ガラスには、少し緊張した自分が映っていた。
直人は入口の向こうから手を振った。今日は最初から眼鏡をかけていた。美咲がそれを指さすと、彼は、見逃したくないので、と言って照れた。
虹はなかったが、美咲には、見逃したくない人がちゃんと見えた。彼女は扉を押し、雨上がりの歩道へ出た。今日は戻るための五分ではなく、これから始まる夜の時間だった。