五十六歳の道子は、恋人の誠から、息子の結婚式に来てほしいと言われた。
五十九歳の彼と付き合って四年になる。二人とも配偶者を亡くしていた。誠の息子、航平とは何度か食事をしたが、親族の席は別の話だった。
招待状を渡されたのは、いつもの蕎麦屋だった。誠は封筒を濡らさないよう、お茶の湯のみを遠ざけた。その慎重な仕草を見て、道子も軽く受け取れなくなった。
「航平さんが、そう言ったの?」
「もちろん。父さんから渡してくれって」
封筒には道子の氏名があった。筆耕を頼んだ整った字で、旧知の誰かの名前のように見えた。返信の期限まで一か月あった。
道子はその場で出席に丸をつけなかった。誠も返事を急がせず、天ぷらが冷めると皿を寄せた。その気遣いさえ、ありがたいのに苦しかった。
夫が亡くなって七年、道子は一人暮らしに慣れた。亡き夫の写真は居間の棚にあり、その隣には去年、誠と訪ねた美術館の絵はがきを立てている。最初に並べた日は落ち着かず、何度も別の場所へ移した。今は二つとも、掃除のたびに手に取るものだった。
誠の妻は九年前に亡くなっていた。彼と知り合った町の園芸講座では、二人とも家族の話をあまりしなかった。道子が鉢を一つ余らせたとき、誠が受け取りに来た。それから近所の市場へ行くようになり、気づけば休日の予定を先に尋ねる相手になっていた。
航平とは、父親の誕生日に初めて会った。彼は道子を名前で呼び、仕事や好きな料理を尋ねた。父に元気が戻ったという礼は言わなかった。感謝されるために付き合っているのではない道子には、その普通さがうれしかった。
それでも結婚式には、誠の亡き妻をよく知る人々が集まる。妻の姉や、航平が幼いころに世話になった親戚もいるだろう。道子のことを初めて聞く人もいる。
翌日、洋服だんすを開けた。式に着られそうな紺色のワンピースが一着あった。袖を通すと、鏡の中には祝いの席へ出かけられる人が立った。けれど、どこに立てばよいのかが分からなかった。
誠に電話をかけ、亡くなった奥さんの場所を取りたくないと伝えた。
「そんなふうに思わなくていいよ」
彼はすぐにはそう答えなかった。しばらく黙り、それから、航平ときちんと話してみると言った。
道子は電話を切ってから、自分の不安を誠に処理させたのではないかと考えた。だが、何でもない顔で当日まで抱えるよりは、分からないことを分からないと言えたほうがよかった。
その週、道子は自分の娘、真由と昼食を取った。娘は三十歳で、母の交際を知っている。招待状の話をすると、単純によかったねとは言わず、どの席に座るのかと尋ねた。
「まだ分からない。親族って言われると、急に大きなことに思えて」
「お母さんは、行きたい?」
行ってはいけない理由ばかり考えて、その問いを避けていた。道子は航平の結婚を祝いたかった。婚約者の莉央にも一度会い、二人が店を選ぶとき、互いの食べられないものを確認する様子を微笑ましく見ていた。
「行きたいと思う。でも、誰かが嫌な思いをするなら」
「誰か、って言うと、いくらでも増えるよ」
娘の声は責めてはいなかった。道子はうなずいた。
「私が誠さんと会うようになったころ、真由も嫌だった?」
真由は箸を置き、最初は変な感じがしたと答えた。父のことを話してはいけなくなるのかと思ったという。
「今も、お父さんの話をしてるでしょう。誠さんがいるときも」
「うん」
「だから大丈夫になった。全然何も感じなかったわけじゃないけど」
道子は礼を言った。娘に許可をもらったのではない。時間が必要だったことを、後から教えてもらったのだ。
帰りに二人で文具店へ寄り、祝儀袋を見た。道子は派手すぎない水引のものを選んだ。出席の返事はまだだったが、祝いたい気持ちまで保留にしなくてもよかった。
一週間後、航平本人から連絡が来た。
『父のパートナーとして、来てもらえたらうれしいです』
道子は何度も読んだ。母親としてではなかった。誰かの代わりでもなかった。続けて、莉央も会いたがっていること、席のことで心配があれば相談してほしいことが書いてあった。
道子はすぐに返事をせず、夕方、航平へ電話をかけた。
「招いてくれてありがとう。私、何もお手伝いをしなくて大丈夫?」
言い終わって、自分が役割を探していることに気づいた。役に立てれば、そこにいてもよい理由になると考えていた。
「何も。普通に来て、料理を食べてください」
航平は笑ったあと、母の姉にも道子のことを伝えてあると言った。式の準備の中で、父と母の思い出をたくさん話したことも教えてくれた。
「母がいないのは寂しいです。でも、それと道子さんに来てほしいのは、別の話なので」
道子は、そうね、とだけ答えた。すべてを理解できたふりはしたくなかった。ただ、その二つを分けて言ってくれたことがありがたかった。
電話を切ったあと、出席の欄へ丸をつけた。投函は翌朝にした。誠へも自分で返事を送り、当日の待ち合わせを決めた。
翌週、誠が家へ来たとき、二人で祝儀袋に名前を書いた。道子は別々に包むつもりだったが、航平たちから一つでよいと言われていた。二人の名をどう並べるか、古い礼法の本も開いて相談した。
名前を書く誠の手が震え、墨が少し太くなった。道子は書き直すか尋ねた。彼は、そのままでいいと言った。
「緊張してるのは、私だけじゃないんだね」
「息子が結婚するのは初めてだから」
当たり前の答えに二人で笑った。道子は、誠の父親としての顔を、まだ十分に知らなかった。
準備の最後に迷ったのは、身につける小さな真珠だった。亡き夫が結婚二十年の祝いにくれたもので、道子は大切な席ではいつも使っていた。誠の息子の式にもそれを選ぶことを、彼に説明したほうがよいのだろうか。
前日の夜、道子は箱を開けたまま誠へ尋ねた。
「それをつけていると、落ち着く?」
彼が聞き、道子はうなずいた。
「じゃあ、それがいいと思う」
道子はすぐに箱を閉めず、夫から渡された日の話をした。予約した店の名前を夫が間違え、別の店へ入ってしまったこと。二人で慌てて出て、雨の中を走ったこと。誠は声を立てて笑った。
そのあと彼も、妻と初めて旅行した日に財布を家へ忘れた話をした。立派な思い出ばかりではない。失敗や、くだらない言い合いや、今なら笑える出来事が、亡くなった人たちとの時間にもあった。
道子は真珠を布で拭いた。過去を磨いて傷のないものにしておく必要はなかった。今の相手に話して笑えることが、亡き夫を遠ざけるわけでもない。
「明日、朝ご飯は食べてきてね」
電話を切る前にそう言うと、誠は航平にも同じことを言われたと笑った。道子は初めて、明日を少し楽しみにしながら眠れそうだと思った。
式の朝、誠は駅の改札に早く着いていた。胸ポケットの花を何度も直している。道子はその手を下ろし、曲がっていないと言った。
会場へ向かう道で、誠は昔、航平の運動会に遅れた話をした。仕事を理由にしていたが、実は時間を取り違えたのだという。
「妻には、たぶん最後までばれてた」
道子は笑い、今日は早すぎるくらいだと言った。亡き妻の話が自然に出たことに、ほっとした。自分が隣にいるからといって、誠の記憶から消させたいものなどなかった。
受付では道子自身の名前を伝えた。案内された席には、小さなカードが置かれていた。航平と莉央の連名で、いつも話を聞いてくれてありがとうと書かれている。母という言葉は、どこにもなかった。
誠の妻の姉が近づき、会釈した。道子は緊張して立ち上がった。相手は、遠くから来たのかと尋ね、それから今日はよい天気でよかったと言った。道子も天気の話をした。
その普通の会話の間に、どれほどの気持ちが含まれているかは分からない。親しくしてもらえたと決めつけることも、警戒されていると考えることもやめた。今日、挨拶を交わしたことだけを覚えていようと思った。
料理が運ばれ、誠は緊張してナイフを落としかけた。道子は笑いそうになり、口元にナプキンを当てた。彼もつられて笑った。その短い間だけ、いつもの蕎麦屋にいるようだった。
航平の挨拶で、亡き母の名前が出た。母が料理の味見をさせるとき、熱いから気をつけてと言いながら、自分が先に口をやけどしていたこと。試験に落ちた日に、結果より夕飯を食べたかと聞いたこと。
道子も静かに手を合わせた。隣で誠が泣いた。
道子はハンカチを差し出すか迷い、自分のものを膝から少し持ち上げた。誠はそれに気づき、小さく首を振って胸ポケットから出した。自分で持ってきていたのだ。
彼の悲しみが、自分への気持ちを減らすわけではなかった。今ここで手を握ってもらえなくても、四年がなくなるわけではない。道子は膝の上へハンカチを戻し、航平の言葉を最後まで聞いた。
式のあと、莉央が花束を抱えて近づいた。道子はきれいだったと伝え、二人で暮らす家の話を聞いた。新居の台所が狭いので、鍋をいくつ持っていくか迷っているという。
誠が大きいものを一つ持つと便利だと言い、道子は小さい鍋も役に立つと口を挟んだ。航平が、相談相手が増えると意見も増える、と笑った。誰かの席を奪う話ではなく、鍋の話に加われたことがうれしかった。
帰りの電車で、誠は疲れたと言って目を閉じた。道子は窓の外を見た。自分も緊張がほどけて、急に足が重くなった。特別な日の終わりにも、靴ずれや空腹はあった。
帰宅後、道子は祝儀袋の控えを手帳へ入れた。裏には、二人で並んで書いた名前が残っていた。誠の少し太くなった一画を指でなぞり、消す必要のない震えもあると思った。
来年の予定を誠が尋ねた。春には二人で旅行でも、と続けようとしている。
道子は、まず来週、普通の夕飯を食べようと言った。祝いの席から帰ったばかりの二人には、いつもの店で、今日聞いた話を少しずつ思い出す時間が欲しかった。
誠は笑って、店を探し始めた。道子は紺色のワンピースをハンガーに掛けた。次に着る日が決まっていなくても、たんすの中へ戻すのが、もう寂しくなかった。