三十七歳の彩乃は、朝、カーテンを開けたい人だった。四十二歳の恋人、達也は、暗いままゆっくり起きたかった。
最初にその違いに気づいたのは、二人で家具を買いに行った翌朝だった。窓のそばに置いた木の椅子に日が当たり、座面の傷まできれいに見えた。彩乃はうれしくなって、厚い布を端まで引いた。背中で達也が小さくうなった。
「まだ七時だよ」
「もう七時だよ。パン、買いに行こうと思って」
返事はなかった。彼女は一人で靴を履き、角の店へ向かった。紙袋を抱えて戻ると、部屋はまた暗くなっていた。せっかく見つけた景色を消されたような気がした。
二人はまだ一緒には住んでいない。平日はそれぞれの家で過ごし、金曜の仕事帰りに彩乃が達也の部屋へ来る。歯ブラシと着替えを置かせてもらうようになって三か月。彼女の暮らしは小さな籠一つに入り、来るたびに持ち主の許可を待っているようだった。
達也は住宅設備の会社で修理の受付をしていた。月に何度か夜間の当番がある。彩乃は図書館の事務をしていて、土曜が休みとは限らない。予定が合った週末くらいは一緒に朝を始めたいと、彼女は思っていた。
パンを皿に載せて待つうちに、表面の薄い膜が硬くなった。九時を回って起きてきた達也は、いただきますと言って食べた。
「温め直したら」
「このままで大丈夫」
その大丈夫が、彩乃にはいつも遠かった。食べられるという意味なのか、彼女の手間を増やさないためなのか、聞く前に会話が閉じる。
日曜の夕方、彼女は籠から靴下を取り出し、鞄へ入れた。一足持って帰るだけなのに、達也が気づくかを気にしている自分が嫌だった。
翌週は達也が彩乃の部屋へ来た。西向きの窓は向かいの建物に遮られ、昼でも電灯が要った。
「ここ、落ち着くね」
彼が何気なく言ったとき、彩乃は笑えなかった。
この部屋を借りたのは、前の仕事を辞めた直後だった。家賃を抑えることを最優先にして、採光のことなど後回しにした。面接に落ちた日も、風邪で寝込んだ日も、朝になったことが分からなかった。仕事が決まって生活が立ち直ってからも、休日だけは電灯をつける前に、少し息を詰める癖が残った。
達也の部屋を初めて訪ねた日、床に伸びた四角い光を見て、彼と付き合えてよかったと思った。人を好きになる理由に窓を含めるのは失礼な気がして、そのことは話していなかった。
「落ち着くのと、暗いのは違うよ」
言ってしまってから、責めるような響きに驚いた。達也は食器を置き、何か言いかけてやめた。二人は映画を見たが、彩乃は筋を半分も覚えられなかった。
翌朝、彼は六時半に起きて、台所で水を飲んでいた。眠そうな顔をしている。
「こっちだと早いんだ」
「うん。ちょっと眠れなくて」
「私の部屋、落ち着くんじゃなかったの」
達也の口元が固まった。彩乃は謝る代わりに、冷蔵庫を開けた。卵が一個しかなかった。買い物を忘れたのは自分なのに、こんな日に限ってと腹が立った。
昼前に彼が帰ると、部屋はいつもの静かさに戻った。自由になったはずなのに、どこに座ればいいのか分からなかった。
その夜、達也から、今度の週末はどうする、と連絡が来た。彩乃は予定表を開きもしないで、行くと返した。別れたいわけではない。そこだけは迷わなかった。
金曜の夜、達也の食卓には冷やしたトマトと、彼が買ってきた惣菜が並んでいた。彩乃は先に、前の週の言い方を謝った。
「部屋のこと、悪く言われたと思ったんじゃないの」
「違う。逆。あそこを好きって言われると、説明できない気分になった」
言葉が続かず、二人とも箸を動かした。雨の予報が流れるテレビを達也が消した。静かになると、冷蔵庫の作動音が大きかった。
翌朝、彩乃は目を覚ましても布に触らなかった。隣で達也が寝返りを打った。彼女はそっと起き、台所で湯を沸かした。カーテンの端から入る光が床に細い線を引いていた。
しばらくして、達也が来た。彩乃は二つ目のカップを出した。
「生活のリズム、合わないのかな」
「全部が同じ人はいないと思う」
正しい言葉だった。けれどそれで終わりにされたら、この先も彼女だけが小さな希望を畳む気がした。
「同じになってほしいんじゃない。違うって言ったあとも、話をしてほしい」
達也は椅子を引いた。寝室では言えなかったことが、食卓の端を挟むと言えた。
彼は最近、夜中に何度も目が覚めていた。仕事の電話が鳴る夢を見る。実際の当番でなくても、枕元に手を伸ばしてしまう。明け方になって眠り直せることが多く、朝の一時間が一日の調子を左右した。
「言ったら、来ないほうがいいってなるかと思った」
「そんなこと、勝手に決めないで」
彩乃は強く言ったあと、声を下げた。
「私も、光がうれしいってこと、言ってなかった」
彼女は前の仕事のことから話した。朝かどうか確かめるため、休みの日にも携帯の時計を見ていたこと。仕事が決まった春に、窓辺で育てようと買った鉢が、何度置き場所を変えてもしおれたこと。達也は途中で助言をせずに聞いていた。
「この部屋に来ると、起きていいんだって思うんだよね」
達也は自分のカップを見た。それから、窓を見た。
「俺は、もう少し休んでもいいって思いたかったんだな」
同じ布に、違う年月を重ねていた。どちらの年月も、相手のために簡単に外せるものではなかった。
次の週、彩乃はカーテンを片側だけ開けた。達也の寝ている位置に直射日光が届かないよう、椅子を少し動かした。彼は文句を言わず、起きたあとでもう片方を開けた。
それで全部解決したわけではなかった。彩乃が朝市へ行きたい日、達也は前夜の当番から戻ったばかりだった。二人で行くと決めたわけではないのに、彼女はまた寂しくなった。
「一緒に行けたらと思ってた。でも今日は一人で行くね」
今度は、靴を履く前に言えた。
達也はうなずき、柑橘を買ってきてほしいと頼んだ。彩乃は彼が起きる時間を聞き、昼前には帰ると伝えた。行き先を共有するだけで、一人の外出が関係の外へ出ることではなくなった。
市場には花屋も出ていた。黄色い小花の鉢を見て、彼女はしばらく迷った。達也の窓辺を、勝手に自分のものにしたくなかった。
写真を送ると、返事は十分ほどして届いた。
『水やりの担当、相談したい』
買っていいよ、だけではない返事に、彩乃は笑った。二人で暮らすなら、光のよく当たる場所だけでなく、その後の仕事も分ける必要がある。
鉢は窓の右端に置いた。水は週末に彩乃が確かめ、平日は達也が土を触ることになった。二週間後、一枚だけ葉が黄色くなった。彼は写真を送り、彼女は図書館で園芸の本を借りた。育てることを、失敗しない競争にしなくてよかった。
鉢を買った次の日、彩乃は寝室の照明を見直したいと提案した。天井の灯りは明るすぎて、どちらかが起きると部屋全体が目覚めてしまう。達也は押し入れから古い読書灯を出した。以前使っていた机を処分して以来、しまったままだったという。
二人で電球を買いに行った。店の棚には色や明るさの違う箱が並び、彩乃は白い光に手を伸ばしかけた。達也は暖色の箱を見ていた。前なら、また好みが違うと思ったはずだった。
「朝、着替えが見えればいいの。あなたは寝る前に使う?」
「本を読むなら、こっちが楽かな」
店員に相談すると、明るさを変えられる小さな灯りを教えてくれた。予算より少し高かったので、二人は通路の端で値札をもう一度見た。彩乃は半分出したいと言った。達也は最初、家のものだからいいと断ったが、彼女が使うものでもあると言うと、素直に財布を開いた。
帰り道、達也が持つ袋へ彩乃は手を添えた。所有するものを増やしたかったのではない。相談の中に、自分の席が欲しかったのだと分かった。
その夜、彼女が先に寝てから、達也が灯りを使った。まぶしくないかと聞かれ、彩乃は目を閉じたまま大丈夫と答えた。今度の大丈夫には、何を確かめた返事なのか、ちゃんと輪郭があった。
ある土曜、達也が仕事の電話を取っている間、彩乃は一人で寝室にいた。窓の向こうに、洗濯物を干す隣人が見える。自分の着替えはまだ小さな籠の中だ。けれど、そこに置いてあるからといって、彼の許可が切れるのを待つ品物ではないと思えた。
夜、達也は来月の当番表を見せた。彩乃も勤務表を出した。二人は同居の日を決めるかわりに、次の四つの週末の過ごし方を考えた。丸一日会わない日もあった。午前だけ一緒に過ごす日もあった。
「朝市、次は行く」
「眠れてたらね」
「それは自分で決める」
少し照れたように彼が言い、彩乃はうなずいた。相手を思いやることと、相手の答えを先に書くことは違う。その違いを、二人ともまだ練習していた。
十月に入った日曜、彩乃が台所へ行くと、朝の光が半分だけ入っていた。先に起きた達也が、彼女のカップを出していた。
「早いね」
「今日はよく眠れた」
彼は誇らしげでも、恩着せがましくもなかった。彩乃も大げさに喜ばず、それならよかったと言った。前の晩に買ったパンの袋が、食卓の中央にある。
窓辺の鉢には新しい葉が出ていた。二人の水やりの成果だと言い切れるほど、植物のことは分からない。それでも、葉を見つけたときに教えたい人が同じ家にいるのはうれしかった。
彩乃は窓辺へ座った。達也は少し暗い側に座り、同じパンを二つに割った。大きいほうを彼女に渡そうとして、途中でどちらがいいと尋ねた。
「今日は小さいほう。あとで果物も食べる」
達也は小さいほうを渡した。湯気の向こうで、二人はしばらく黙って食べた。光の量も、食べる速さも違っていた。全部をそろえなくても、同じ朝にいることはできた。
食後、彩乃は残った半分のカーテンを指さした。達也はカップを持ち上げ、もう少しこのままで、と言った。
彼女はうなずいて、本を開いた。窓の外では、十分に明るい一日が始まっていた。
ページの白さが、半分の光を受けて柔らかく見えた。達也がもう一口パンを食べる音を聞きながら、彩乃はしおりを外した。急いで二人の答えを一つにしなくても、この朝には続きがあった。