三十四歳の真帆は、三十七歳の亮と、地方の小さな遊園地へ行った。恋人になって一年、旅行は初めてだった。
宿を予約したのも、電車の時間を調べたのも真帆だった。亮は送られた予定に、いいね、と返してきた。以前ならその短さを気楽だと思えた。最近は、彼が何に賛成したのか分からなかった。旅そのものなのか、彼女と二日間を過ごすことなのか。
出発の朝、亮は集合時刻より十五分早く駅にいた。二人分の飲み物を買い、真帆の鞄を見て、持とうかと聞いた。彼女は断った。重くないのは本当だったが、こういう小さな親切を数えて、自分の不安を打ち消そうとするのに疲れてもいた。
電車が動き出すと、真帆は旅のしおりを開いた。仕事で作る資料と同じ癖で、雨の場合の候補まで書いてある。
「すごい。これ、そのまま売れそう」
亮が笑った。真帆はページの角を折り、あなたが一つくらい決めてくれればよかったのに、とは言わなかった。言えば、頼めばよかったじゃないかと返される気がした。頼んだ上で動いてもらうことと、同じくらい行きたいと思ってもらうことは違う。
窓の外には収穫の終わった田が広がっていた。亮は橋を渡る列車の影を指さした。真帆は見ようとして、もう過ぎた景色に目を細めた。
二人は、楽しい予定を埋めるのが得意だった。映画館、美術館、評判の店。何かを見ていれば感想があり、食べれば味の話がある。黙って向かい合う時間だけ、少し苦手だった。
付き合い始めた頃は、亮も店を探した。初めて二人で食事した小さな洋食屋は、彼が昔住んでいた町にあった。真帆が残業で一度断り、その次の週も友人との約束で断ってから、彼の誘いは減った。代わりに真帆が予定を出すと、ほとんど必ず来た。
そのことを友人に話すと、来るなら会いたいんでしょうと言われた。確かにそうかもしれない。けれど、真帆が次の約束を出さなかったらどうなるのか、一度試したくなった。
試すようなことはしたくない。それで結局、毎週自分から連絡した。
駅前で借りた車に乗ると、亮は助手席で地図を開いた。運転は交代すると約束していた。道案内は的確で、曲がる少し前に声をかけてくれた。こういうときの彼は頼もしかった。
遊園地の看板は、海へ向かう坂の途中にあった。真帆が子どもの頃、家族で来た場所だった。父が撮った写真には、青いゴンドラから手を振る母と自分が写っている。観覧車は同じ場所にあったが、青い色は薄くなり、売店の半分は閉まっていた。
「もっと大きかった気がする」
「真帆が小さかったんだろうね」
亮が言った。その当たり前の言葉に、真帆は少し安心した。昔の写真を見せていないのに、小さな自分がそこにいたことを信じてもらえる。
昼食は園内の食堂で取った。真帆は名物らしい焼きそばを選び、亮も同じものを頼んだ。
「別のにして、分けてもよかったね」
「じゃあ、変える?」
注文口へ立ち上がろうとする彼を、真帆は止めた。そんなにすぐ訂正してほしかったわけではなかった。
「亮は、何が食べたいと思ったの」
「焼きそば。真帆のを見て、おいしそうだったから」
嘘には聞こえなかった。それでも、彼女の後についてくる答えに、どこかでがっかりしてしまう。
食後、射的の店で、亮が小さな紙箱を狙った。真帆が笑うほど外した。最後の一発で、棚の端にあった鉛筆が落ちた。景品は一番安いものだったらしく、店主は申し訳なさそうに渡した。
「いいんです。使うから」
亮は鉛筆を胸ポケットへ入れた。仕事で測った数値を手帳に書くのだと、真帆が初めて聞いた話をした。彼が働く工場の検査室を、彼女は具体的に想像したことがなかった。
何を見たかばかり話して、どう一日を過ごしているかは知らない。観光の予定を丁寧に組むほど、その空白を隠せてしまうのかもしれなかった。
観覧車の前に着くと、亮が乗ろうと言った。真帆がしおりへ書いていない、初めての提案だった。彼女はうなずき、二枚の券を受け取った。
ゴンドラの窓には小さな傷があった。遠くに海が見え、屋根の連なる町をゆっくり越えていく。真帆は写真を一枚撮り、携帯を鞄へ戻した。
向かいに座る亮も、景色を見ていた。閉じた空間で二人きりになると、食堂の音も子どもの声も消えた。空調の弱い風だけが耳に残った。
一番高いところで、観覧車が止まった。
軽く揺れたあと、機械の点検で少し待ってほしいと放送が入った。地上の係員がこちらを見上げている。危険な様子はなく、運行を再開するまで座って待つよう、同じ案内が繰り返された。
真帆は窓の外を見た。亮も外を見た。話題は地面に置いてきたようだった。
「海、あそこまで見えるんだね」
彼女は言った。亮がうなずいた。もう一度黙ると、今度は黙っていることそのものが聞こえた。
真帆は手帳を出そうとしてやめた。次の予定を確認しても、観覧車は動かない。自分が用意した行き先へ、二人の時間を押し出すことができない。
「このまま、会うことなくなったら、寂しいな」
亮が言った。
彼女は、旅行の話ではないと分かった。二人とも海を見たままだった。
「会わなくなるって、どうして」
「最近、真帆が少し疲れてる気がして。俺といても」
真帆は膝に置いた手を握った。気づかれていないと思っていた不機嫌を、彼は別の意味で受け取っていた。
「私だけ会いたいのかなって、思ってた」
亮が顔を向けた。その驚きは大きく、言い訳を考える前のものだった。
「誘うと、都合を合わせてもらう感じになるから」
亮はゆっくり話した。真帆の仕事が忙しいことは知っていたし、彼女には友人も趣味もある。二度断られた頃、負担をかけているのだと思ったという。
「断ったの、あなたに会いたくなかったからじゃないよ」
「分かってるつもりだった。でも、また誘って断られたら、理由を考えちゃいそうで」
彼は恥ずかしそうに笑った。真帆はすぐ慰めなかった。怖かったことは分かる。けれど、その怖さを避けるため、彼女だけが答えを待つ側になっていた。
「私だって、誘うとき、少し怖いよ」
亮はうなずいた。
「いつも平気そうだったから、考えてなかった」
「平気そうにできるのと、平気なのは違う」
真帆の声が強くなり、ゴンドラの壁に返った。言いすぎたかと思ったが、亮は目をそらさなかった。
「そうだね。ありがとうって言って、楽しんでたら、それで足りると思ってた」
足元が少し揺れた。点検が終わり次第、順に動き出すと放送があった。真帆は窓に映る自分を見た。唇を固く結び、楽しみに来た人には見えなかった。けれど、旅行が失敗したとは思わなかった。
「予定、全部同じくらい考えてってことじゃないの」
「うん」
「私から言わなくても、次に会えることを楽しみにしてるって知りたい」
亮はしばらく考え、胸ポケットの鉛筆を触った。
「来月、俺から誘っていい?」
真帆は笑った。今度は、不機嫌を隠すためではなかった。
「来月まで待つの」
亮も笑った。観覧車は、ゆっくり動き出した。
下降する窓の向こうで、食堂の屋根が近づいてきた。二人は降りたら何を食べるか相談した。いつもの話題に戻ったが、今度は真帆ばかりが決めなかった。
亮は焼きとうもろこしが気になると言った。真帆はソフトクリームが食べたかった。それぞれ買って、広場のベンチで少しずつ分けることにした。二人で同じものを選ばなくても、一緒に食べることはできる。
地面へ着くころ、亮が次の土曜を口にした。真帆は手帳を出さずに、空いていると答えた。
「昔行った洋食屋、覚えてる?」
「最初に二人で行ったところでしょう」
「そこ。また行きたい」
彼女も行きたかった。そう言うと、亮は係員へ頭を下げながら、少しだけ歩幅を大きくした。
売店で別々に買い物をしている間、真帆は旅のしおりを見た。このあと港の資料館を見て、岬の展望台へ回ることになっている。今から両方へ行くと、宿に着くのは遅くなる。
ベンチへ戻った亮に、どちらか一つにしようと言った。彼は地図を見て、資料館には興味があるが、今日は海のそばを歩きたいと答えた。
「私も、歩くのがいい」
予定に線を引くと、紙の上に空白ができた。埋めていない場所があることに、前ほど不安を感じなかった。
岬では風が強かった。亮が先に歩いて、真帆の帽子が飛びそうになると振り返った。二人は手をつないだまま階段を下りた。途中で話が途切れても、誰かが急いで新しい話題を出さなかった。
岬の売店が閉まるころ、亮が真帆に携帯を見せた。工場の仲間と撮った写真だった。作業着を着た彼は、旅行のときより少し背筋を伸ばしている。端に写る年配の男性が、検査の仕事を教えてくれた人だという。
「この人、来春で退職なんだ」
亮は寂しそうに言った。真帆は、だから最近忙しかったのかと尋ねた。仕事を引き継ぐため、通常と違う時間に出勤していたらしい。
「話してくれたらよかったのに」
「旅行の前に、仕事の話はつまらないかなって」
真帆は首を振った。彼が気にしていることを知るのは、予定の邪魔にはならない。楽しい人でい続けようとするのを、二人とも少しやめてもよかった。
真帆も図書館で借りた資格の本が、まだ一章しか進んでいないことを話した。いつも何でも手早く決めていると思っていたと亮は言い、彼女は笑った。旅程は組めても、自分の来年はなかなか決められない。
空は灰色から薄い桃色へ変わっていた。二人は写真を撮らず、売店のひさしの下で、閉店の片づけが済むまで話した。
宿へ向かう車では、亮が運転した。真帆は助手席で地図を開き、曲がる少し前に道を伝えた。暗くなり始めた町で、彼女の知らない彼が、少しずつ増えていた。
夜、次の土曜の店に予約を入れる亮の声を聞きながら、真帆は旅行の写真を選んだ。一番高いところの写真は一枚もない。止まっていた時間に、二人は外を撮るのを忘れていた。
真帆は画面を伏せた。保存する写真を選ぶより、目の前の声を聞いていたかった。
そのことが、旅でいちばん残しておきたい出来事になった。