三十四歳の珠希は、チョコレートを職場の冷蔵庫に置いた。
同僚全員へのものとは別に、小さな箱が一つあった。三十八歳の柊と付き合っていることを、まだ周囲に話していなかった。大きな袋の奥へ箱を入れ、見えないように向きを変えた。
給湯室の冷蔵庫は小さく、誰かの弁当や飲み物でいつも埋まっている。その日は菓子の箱がいくつも重なり、珠希の袋も特に目立たなかった。彼女はそれに安心し、すぐに、その安心の仕方が少し寂しくなった。
柊とは半年付き合っていた。二人は同じ役職で、仕事上の評価には関わらない。担当するチームも違った。それでも、からかわれることを珠希は恐れていた。仕事の話をしているときまで、恋人同士だからと笑われたら、どう返せばいいのか分からなかった。
だから最初に、まだ誰にも話したくないと彼女から頼んだ。柊は、秘密でいいと言った。その言葉を聞いて、珠希は自分の希望が尊重されたと思った。
二人が親しくなったのは、社内の資料整理を一緒に担当したときだった。古い箱のラベルが途中から変わり、何を基準に分類したのか分からない。珠希が考え込んでいると、柊は、まず分からないものだけ集めようと言った。
全部に正しい名前をつける前に、分からないものの置き場を作る。そのやり方に、珠希は少し救われた。仕事の進め方が合う人だと思った。
作業のあとに食事をするようになり、休日に会うようになった。柊は職場で見るよりもよく笑い、辛いものが苦手なのに、店を選ぶときはつい相手へ合わせる癖があった。珠希が自分の好みも言ってほしいと伝えると、彼は次から店の候補を二つ送るようになった。
彼女も、一つずつ希望を言えるようになったつもりだった。それなのに、二人の関係をどう扱うかという話だけは、最初のお願いから進んでいなかった。
会社では挨拶だけにした。昼休みに二人で出ない。帰りの時間が同じでも、駅の違う場所で待つ。はっきり決めたのではない。珠希が一度ためらったことを、柊が次から避けるようになった。
彼は合わせてくれている。そのありがたさに慣れるほど、珠希は、ほかにどんな希望があるか聞かなくなった。
チョコレートを買ったのは、前の日曜だった。全員へ配るものは、個包装で分けやすい箱にした。柊の分は、彼が好きだと言っていた、甘さの強いものを選んだ。
店員に贈り物ですかと聞かれ、珠希ははいと答えた。包みの色を選び、リボンをかけてもらう。そのあいだは、誰へ渡すかを隠す必要がなく、少し楽しかった。
店を出てから柊へ写真を送ろうとして、やめた。当日まで内緒にしたかった。会社で渡せば驚くだろうかと思い、それから、どう渡せば誰にも見られないか考え始めた。
彼が驚く顔より、周囲の目を避ける手順を先に考えている。そのことに気づいても、珠希は別の日に会う約束をしなかった。仕事帰りに渡すだけなら大丈夫だと、簡単なことにしておきたかった。
柊からは、今週どこかで会えるかと連絡が来ていた。彼女は忙しいが週末ならと返した。小さな箱のことは書かなかった。今思えば、会う時間を決めておけば、それでよかったのだ。
昼休み、同僚たちへ菓子を配った。ありがとうと受け取る声が次々に返り、机の上に色違いの包みが並んだ。柊もほかの人と同じように一つ受け取った。珠希は、もう一つあるとは言えなかった。
午後、給湯室へ水を取りに行ったとき、柊と二人になった。今なら渡せると思ったが、廊下から足音が近づき、彼女は冷蔵庫を開けなかった。
柊は、今日は何時ごろ終わると聞いた。珠希は、まだ分からないと答えた。彼の表情が少しだけ変わったが、すぐに、分かったと返した。彼も、いつ声をかければいいのか分からなくなっていた。
定時を過ぎても、珠希の机には確認する資料が残った。柊のチームは先に帰り始めた。彼の鞄が椅子の背からなくなると、彼女は慌てて携帯を見た。連絡は来ていなかった。
珠希は給湯室へ行き、小さな箱を袋へ戻した。全員用の箱はもう空だった。自分が特別に選んだものだけが、最後まで渡せずに残っていた。
帰りの電車で、柊がメッセージをくれた。
『会う場所、家の近くでもいい?』
珠希はいいと答えた。彼女が自分の予定を決められないままでも、柊は会いたいと思ってくれていた。そのことに安心し、同時に、また彼のほうから言ってもらったことが少し苦しかった。
電車を降りると、柊は改札の外にいた。仕事のときと同じコートなのに、見つけた瞬間、珠希は違う場所へ戻ってきた気がした。
人通りの少ない広場へ移り、彼女は袋から箱を出した。
「今日、渡したかった」
柊は驚き、それからうれしそうに笑った。その顔を見たかったのだと、珠希はようやく思い出した。見られないようにする手順のために、いちばん大切なことを後回しにしていた。
彼が箱を受け取ると、珠希は隠し続けるのが少し疲れたと伝えた。柊は、同じ気持ちだと言った。声は責める調子ではなかったが、彼女は胸が痛くなった。
「秘密でいいって、言ってくれたから」
珠希が言うと、柊はうなずいた。
「最初は、それでよかった。今は少し変わった。でも、言い直さなかった」
二人は駅前の小さな店へ入った。温かい飲み物を頼み、箱をテーブルの端へ置いた。リボンは少し潰れていたが、中身は大丈夫だった。
珠希は、職場で噂になりたくないと話した。誰かに好意を持たれたことより、自分の仕事がその話題へ結びつけられるのが怖かった。会議で意見が同じなら、付き合っているからだと言われるかもしれない。違えば、喧嘩していると笑われるかもしれない。
柊は、その気持ちは分かると答えた。自分も、関係を面白がられるのは嫌だった。ただ、珠希が廊下で目をそらすと、自分と付き合っていること自体を恥ずかしく思っているのかと考える夜があったという。
「そんなことない」
彼女はすぐに答えた。だが、そうではない気持ちが、相手へ伝わる行動になっていなかった。自分を守るために避けた小さな場面が、彼には別の意味に見えていた。
「私が嫌なのは、仕事に持ち込まれること。あなたといることじゃない」
珠希は言い直した。柊は少し肩の力を抜いた。
彼も、誰にでも話したいわけではないと続けた。ただ、予定を尋ねるときに、誰もいない場所を探さなければならないのは苦しい。会えない日も、会いたくないのか、まだ言えないだけなのか、分からなくなるという。
すぐ皆へ話すのではなく、まず仕事で困らない範囲を二人で考えた。社内での振る舞いと、私生活の予定を、何でも同じ秘密にしないようにしたかった。
同僚として挨拶はする。仕事の相談を、不自然にほかの人へ回さない。帰りに会いたい日は、仕事中の合図ではなく、連絡して決める。周囲へ伝える必要があることは、会社の決まりを二人で確認してから相談する。
決めるたび、珠希は自分たちが今まで何を避けていたか、少しずつ分かった。誰にも話さないことと、相手へも話さないことを、いつの間にか一緒にしていた。
「気持ちが変わったら、また言っていい?」
彼女が聞くと、柊は、僕も言うと答えた。最初に決めたことを、ずっと守り続けなければ誠実ではない、というわけではなかった。二人とも無理が増えたら、決め直せばよかった。
珠希は箱を見て、本当は会社で彼へ渡す場面を少し想像していたと打ち明けた。柊は、それなら自分も受け取り方を考えたかったと笑った。贈るものは一人で選べても、会う場所は二人で決めてよかった。
話し終えたころ、店員が二人の飲み物を下げに来た。テーブルに置かれた箱を見て、素敵な包みですねと言った。珠希は、今日渡したかったものなんです、と答えた。誰へ何を贈ったか、それ以上の説明は求められなかった。
柊は店員が離れてから、最初に自分へ何を贈ろうと思ったか聞いた。珠希は、ほかにも候補があったと話した。仕事で使うものなら理由がつくと思い、ペンを見たこともあった。けれど、彼の好きな味を選ぶほうが楽しかった。
「理由がなくても、会って渡してくれていいんだよ」
彼が言うと、珠希は、次はそうすると答えた。自分たちの予定へ、わざわざ別の用事の名前をつけなくていい。それを相手に言ってもらう前に、自分でも選べるようになりたかった。
店を出る前に、柊は箱を鞄へしまった。珠希は、週末にゆっくり食べてと伝えた。彼はうなずいたが、家へ向かう道の途中で足を止めた。
「一つ、今食べてもいい?」
リボンをほどく手は慎重だった。珠希は周囲を見かけて、目を彼の指へ戻した。ここで包みを開けることを、誰かに説明する必要はなかった。
家に着く前に、彼はチョコレートを一つ食べた。少し甘いねと言ってから、おいしいと笑った。珠希は、苦いのより好きでしょうと返した。
「ここで食べるの?」
改めて聞くと、彼はうなずいた。
「今日、もらったのがうれしいから」
その言葉で、珠希は肩から何かが抜けるような気がした。二月の行事だからではなく、今日の自分が選んで持ってきたものを、彼が受け取っている。その場面を、自分の目で見たかった。
彼女はもう周囲を見なかった。空になった小さな紙を、柊がきちんと畳む手だけを見ていた。
翌朝、珠希は給湯室の冷蔵庫を開けた。袋を置いていた場所には、誰かの弁当箱が入っていた。昨日あれほど気になった小さな隙間が、今はただの共有の棚に戻っていた。
廊下で柊と会い、彼女はおはようと挨拶した。彼も同じように返した。そこで足を止めて私生活の話をする必要はないが、目をそらす必要もなかった。
昼に、週末の店を決めようと連絡が来た。珠希は候補を二つ送り、自分は片方が気になると書いた。柊はそっちにしようと返した。
隠さずにいられる関係とは、何もかも人に見せることではないのだと思った。少なくとも、相手といる自分を、自分で見ないふりしなくてよかった。珠希は携帯を置き、午後の資料を開いた。仕事の一日と、彼に会う週末が、それぞれ自分の予定として続いていた。