三十六歳の絵梨は、小さな本屋で同じ本を二度棚へ戻した。
高い画集だった。表紙には、窓辺に置かれた空の椅子が描かれている。明るい色を使っているのに、誰かが立ち去ったあとのような静けさがあった。絵梨はその椅子を見ていると、しばらく何も考えなくて済んだ。
三十九歳の店員が、悩みますよねと言った。名札には戸田と書いてあった。絵梨は値段のことで迷っているような顔をし、それもあります、と答えた。
本当は、眺めるだけの時間を自分に使ってよいか迷っていた。仕事と家族の用事で一日が埋まり、読む本は役に立つものばかりだった。買っただけで開かなくなったら、この画集を見るたび、自分の時間の使い方を責めそうだった。
戸田は値段の説明も、残り一冊という言葉も言わなかった。重いので、椅子でご覧になってもいいですよと、入口のそばを指した。絵梨は、今日は時間がないのでと断り、店を出た。
外では雨が降り始めていた。
絵梨は会社で、商品案内の原稿を作っていた。写真の説明や寸法を確かめ、伝わりにくい表現を直す。一日中、文字と画像を見ている。だから帰宅後まで何かを眺めたいと思うのは、少し不思議だった。
週に一度は、実家の父が営む小さな店の事務を手伝った。父は、忙しいなら来なくてもいいと言う。だが、やり方を変えない父の帳簿を見ると、自分が確認しておいたほうが早いと思った。買いものや発送も一緒に引き受け、休日が終わるころには、何をした日だったか説明する言葉が多すぎた。
絵梨は何かの役に立つ時間を過ごすと安心した。休むときも、翌日のために眠る、勉強のために読む、と理由をつけた。あの画集には、使い道をうまく言えなかった。
学生のころは絵を描いていた。上手だったわけではなく、進路も別に選んだ。今は紙に何かを描こうとすると、最後まで仕上げる時間がないと考え、始めなくなる。描けない自分を思い出すから、絵を見ることまで避けていたのかもしれない。
次の木曜、仕事が少し早く終わった。絵梨は駅へ向かう途中で、遠回りになるあの道を選んだ。雨はまだ降っていなかったが、空は低かった。
戸田は棚の前で本を並べていた。絵梨に気づくと、いらっしゃいませと言い、それから、まだありますよと笑った。画集の場所は前と同じだった。
彼女は表紙を開き、今度は最初からゆっくり見た。絵の横には短い解説がついていたが、先に読むと正しい見方を覚えなければならない気がして、文字を避けた。
雨が降り始めた音がした。通りを歩く人が軒先へ入り、入口のガラスに水滴がついた。戸田は折り畳みの椅子を出し、よかったら、と言った。雨宿りの人にも同じように声をかけているのを見て、絵梨は座った。
彼は画集を売り込まなかった。通りすがりに、自分が好きなページを一つだけ見せた。表紙の椅子とは違い、古い台所の隅を描いた絵だった。
「どうして、ここが好きなんですか」
絵梨が聞くと、戸田は、洗った布巾があるからと答えた。彼女は小さな白い形を見つけた。誰かが生活しているのに、人は描かれていない。彼の言葉で、その絵の時間が少し動いた気がした。
「専門的な理由じゃなくて、いいんですね」
絵梨が言うと、戸田は、僕には専門的な説明はできませんと笑った。絵梨も笑った。解説を先に読まなくても、自分の目で見つけていいものがあった。
三十分後、絵梨は何も買わずに礼を言った。雨は細くなり、入口では傘の水を払う音がしていた。戸田は、またどうぞと返した。
その言い方が気になって、彼女は通うようになった。買う日も買わない日もあった。最初は、何も買わないのに長くいて悪いと思ったが、戸田はほかの客と変わらない声で挨拶した。彼女が迷っているあいだ、必要以上に近くへ来なかった。
ある日、絵梨は薄い小説を買った。画集ではないものを選ぶと、期待を外したような気がしたが、戸田はその作家の別の本を読んでいた。店の外へ出るまで、その小説の話を少しした。
次に行ったとき、絵梨は読後の感想を伝えた。戸田は自分と違うところで彼女が笑ったのを聞き、そこをもう一度読んでみますと言った。お勧めする人と教えられる人だけではない会話が、少しずつ増えた。
絵梨は彼が何時まで働くのか、休日に何をしているのか、気になり始めた。だが、彼が親切なのは店員だからかもしれない。客として店へ行ける場所をなくしたくなくて、私的な質問はしなかった。
その代わり、自分のことを一つずつ話した。仕事で画像を見ていること、昔は絵を描いていたこと、今は役に立つ本ばかり選んでしまうこと。戸田は、それを聞いて急に画材の本を勧めたりしなかった。
実家へ行く日、絵梨は父に、今日は三時までに帰りたいと伝えた。何か予定があるのかと聞かれ、寄りたい本屋があると答えた。父はそうかと言い、それ以上聞かなかった。
絵梨は断られる理由まで先に考えていたので、拍子抜けした。父が仕事を押しつけていたのではなく、自分ができるからと持ち帰り続けていた部分もあった。
三時になって、帳簿の確認は少し残っていた。彼女が迷うと、父は次でいいだろと言った。絵梨はそれを信じ、鞄を持った。帰りの道を歩きながら、使い道のない時間を作るために、何か大きなものを捨てなくてもよかったのだと思った。
本屋では、戸田が店の奥で小さな写真展の準備をしていた。地元の人が撮った、雨の日の窓の写真だった。絵梨は椅子へ座り、一枚ずつ見た。戸田は来た客へ説明しながら、彼女の感想も尋ねた。
絵梨がいちばん好きだったのは、何も写っていないように見える、曇ったガラスの写真だった。理由を言葉にしようとして黙ると、戸田は、言えなくても分かる気がしますと言った。彼が同じものを感じたのかは分からない。それでも、感想を急いで形にしなくていい時間が、彼女にはうれしかった。
半年後、戸田が退職すると知った。別の街で、展示の仕事をするという。店主と古くから付き合いのある施設で、企画や搬入を手伝うことになったのだと、彼は少し照れながら話した。
絵梨は、よかったですねと言った。声が思ったほど明るくならず、彼が何か言おうとしたので、慌てて、最初の展示はいつですかと聞いた。
まだ準備中だが、秋に開く予定だった。彼は案内ができたら店にも置くと言った。絵梨はうなずいた。店へ行けば情報が分かる。そう分かったのに、それだけでは足りない気がした。
その日は画集を開かなかった。家へ帰り、部屋の机を少し片づけた。書類と充電器を脇へ寄せると、厚い本を一冊置ける場所ができた。彼女があの本を買えなかった理由は、もう半年の間に少し変わっていた。
次に行ったとき、絵梨は画集をレジへ持っていった。戸田は、ついに、と笑った。彼女も笑い、今日は家で見ようと思ってと答えた。
包んでもらい、会計を終えてから、絵梨は一呼吸置いた。
「個人的に、連絡を取れたらうれしいです」
戸田は少し驚いた。それから、ずっと誘いたかったと言った。絵梨は顔を上げた。店員として話しかけているのか、客として来ているのか、お互いに分からなかったのだという。
彼は連絡先を書き、嫌なら使わなくていいと付け加えた。絵梨は、今ここで送ってもいいですかと聞いた。彼の携帯が奥で鳴り、二人は笑った。もう店へ行く理由を、本の話だけで用意しなくてよかった。
その夜、絵梨は机へ画集を開いた。最初に戸田が見せたページを探し、それから、自分で別の絵を選んだ。窓の外に木の影がある、小さな部屋の絵だった。見ているうちに、部屋の中の光がどこから来るのか気になり、しばらくページから目を離せなくなった。
時間を確かめると、二十分たっていた。何かを覚えたわけでも、文章を書いたわけでもない。ただ見ていた。その二十分を無駄にした気持ちには、ならなかった。
戸田へ、買ってよかったと送ろうとして、彼女は自分が見つけた絵のことを書いた。彼から、次はそこを見てみますと返ってきた。画集を買うまでの半年も、家へ持ってきた今日も、彼女自身が選んだ時間としてつながった。
翌朝、本は開いたままだった。机を使うために閉じるとき、また見ようと自然に思えた。本の重さを両手で受け取ると、店で戻したときとは違う、持っていてよいものの重さがした。毎日見なければ買った意味がない、と自分へ約束する必要はなかった。
初めて外で会ったのは、退職の翌週だった。戸田は仕事のない日の服装で現れ、店より少し口数が少なかった。絵梨も、いつもの棚や椅子がないと、何を話せばいいのか一瞬迷った。
二人は小さな喫茶店へ入った。戸田は甘いものが好きで、絵梨はコーヒーをゆっくり飲む。仕事の話ばかりでなく、引っ越しの荷物のことや、休みの日に寝坊してしまうことを話した。絵梨が知っていたのは、本のある場所で働く彼だった。今は、別の場所でまた知り始めていた。
別れ際、彼は次も会いたいと言った。絵梨はうなずき、展示の前でもいいかと聞いた。仕事の成果を見るためだけに会いたいわけではないことを、伝えたかった。
秋、最初の展示へ絵梨は一人で行った。朝のうちに出て、開場の少し前に着いた。今日は家族の用事も、仕事の資料も鞄へ入れていなかった。帰る時刻を誰かへ約束してもいない。
会場の扉で待つ戸田に手を振った。彼は準備で少し疲れた顔をしていたが、彼女を見ると笑った。入口の小さな机には、彼が作った案内が並んでいた。
絵梨は最初の部屋へ入り、壁に掛かった絵の前に立った。解説を読む前に、まず自分の好きな場所を探した。隅に小さな白い布が描かれていて、半年前の画集を思い出した。
戸田はほかの客の対応へ戻った。彼が隣にいなくても、絵梨は一人で見ていられた。誰かを待つためでも、相手の仕事を褒めるためだけでもない時間だった。
今日は何時間でも、絵を見ていようと思った。夕方、仕事を終えた彼と、気になった一枚について話せることも、楽しみにしながら。