四十四歳の由梨は、運動のため、マンションの階段を使い始めた。
五階の自分の部屋まで、初日は何度も立ち止まった。買いものの袋を持って始めたのは無理があった。三階の踊り場で息を整え、次からは荷物のないときにしようと決めた。
四階へ上がる途中で、上から下りてくる人に会った。五十歳の隣人、岡崎だった。挨拶はするが、長く話したことはない。彼も息を切らし、手すりへ片手を添えていた。
「階段、長いですね」
由梨が言うと、岡崎は、上に住んでるのが今日ほどよく分かった日はない、と答えた。二人は少し笑い、道を譲り合った。
彼も、医師から少し歩くように言われたらしかった。詳しい話は聞かなかったが、日曜に時間を作っているという。由梨も同じだった。仕事の日には余裕がなく、休日には、何もしないで一日を終えることが増えていた。
由梨は離婚して二年になる。この部屋を選んだのは、通勤がしやすく、実家からも適度に離れていたからだった。一人で暮らすことには慣れていたが、一人で休日の予定を決めることには、まだ少し慣れていなかった。
以前の結婚生活では、休みの日に何をするか、相手へまず聞いていた。自分の希望がないわけではなかった。ただ、相手の都合を知ってからでないと、決められない気がした。離婚後は好きにすればいいはずなのに、何をしたいかと問われると答えが出なかった。
階段を使うことは、小さな決定だった。着替えも特別な道具も要らない。出かける用事がなくても、上り下りして部屋へ戻ればいい。誰に合わせる必要もなかった。
翌週、五階の踊り場で岡崎と会った。彼は窓から外を見ていた。由梨が上がってくると、少し前へずれて場所を空けた。
二人は天気の話をした。由梨が言葉を続けようとしたところで息が切れ、岡崎が笑わず待った。急いで返事をしなくていい会話は、思ったより楽だった。
会話は、上りと下りで途切れた。岡崎が途中で一階へ下り、由梨が先に自室へ戻る。翌週、彼が前の話の続きを聞いた。
「窓辺の花、どうなりました」
由梨は、先週そんな話をしたことを忘れかけていた。買った鉢の葉が黄色くなり、置き場所を変えたという話だった。少し元気になったと答えると、岡崎は、よかったですねと言った。
次の日曜には、彼が買い替えた炊飯器の話をした。由梨は自分の使っているものも古いと言い、二人は、壊れる前に替えるべきか、壊れてからでいいかを真剣に考えた。別れるころ、そんな話で十分近くなれるものなのだと思った。
由梨が一人で暮らしていること、岡崎が去年、長く付き合った人と別れたことも、少しずつ知った。彼は詳しい理由を語らず、今は一人分の食事に慣れようとしていると言った。
由梨も離婚のことを話した。岡崎は、そうでしたかとだけ答えた。なぜなのか、後悔しているかと聞かれないので、由梨は自分から、今の部屋は気に入っていると続けられた。
過去の説明より先に、今ここにいることを話せる。それが、彼女には新しかった。
一度だけ、岡崎に会わない日曜があった。由梨はいつもよりゆっくり階段を上がり、踊り場で窓を開けた。彼が来るかもしれないと思い、もう一往復しようか迷ったが、自分の部屋へ戻った。
翌週、岡崎は友人と出かけていたと話した。説明をしなければならないような声ではなかった。由梨も、それを聞いて初めて、先週会えなかったので少し気になりましたと伝えた。
「じゃあ、出かけた話をしないと」
彼は笑い、海辺の町へ行ったことを話した。由梨がその場所を知らないと言うと、次に写真を見せますと答えた。会えない時間の中にも、次に話せることができていた。毎週同じ場所にいることを、相手への約束にしなくてもよかった。
ある日、岡崎が、下でお茶でもと言った。
階段の下には、建物の向かいに小さな喫茶店があった。由梨も看板は知っていたが、一人では入ったことがなかった。
彼女は喜んだ。喜んだからこそ、すぐには答えられなかった。階段で会うのは約束ではない。どちらかがいない日も、用事があったのだろうと考えて終わる。だが、二人で店へ入れば、それは自分が選んだ時間になる。
由梨は、誰かと会う約束が怖くなっていた。一度会えば次を期待され、次を断れば傷つける。そういうことを考える前に、断ったほうが楽だと思う癖がついていた。
岡崎は返事を急かさず、一段下へ移動した。
「今日じゃなくても」
その距離が、由梨にはありがたかった。彼女が息を整えるためではなく、答えを考えるために立ち止まっていることを、彼は分かったのかもしれない。
「すみません。少し、考えてもいいですか」
由梨が言うと、彼はもちろんと答えた。いつまでに、と期限も聞かなかった。そのあと二人は天気の話へ戻り、階段を下りた。
部屋へ戻ると、由梨は靴を脱ぐ前に玄関へ座った。断らなかった自分に驚き、返事をしなかったことを申し訳なく思った。岡崎はもう、誘わなければよかったと思っているかもしれない。
そう考え始めて、自分は相手がどう思うかを勝手に埋めていると気づいた。彼は考えていいと言った。その言葉を、そのまま受け取ってもいい。
午後、由梨は窓辺の鉢に水をやった。葉は確かに少し元気になっていた。岡崎へ話したくなった。自分がまた彼に会いたいことは、難しく考えなくても分かった。
会うことを一度決めたら、何かを全部約束することになるわけではない。お茶を飲んで、その日に話せることを話す。その先のことは、またそのとき考えればいい。
由梨は友人に連絡し、近所の人からお茶へ誘われたと話した。友人は、どうしたいのと聞いた。由梨は少し黙り、行きたいと答えた。口に出すと、思っていたより簡単な希望だった。
次の日曜が来るまで、階段で彼に会えるか気になった。今まで同じ時間に出ていたつもりでも、時計を確かめたことはない。彼女は少し早く部屋を出たあと、待ち伏せみたいだと笑った。
五階の踊り場で、岡崎が下から上がってきた。由梨を見て、いつもより少し早いですねと言った。彼も、彼女に会う時間を何となく覚えていた。
「今日なら」
由梨はそれだけ言い、岡崎が首を傾げたので、お茶、と付け足した。彼は顔を明るくし、ぜひと答えた。
二人は一階まで、並ばず、一段ずつずれて下りた。狭い階段では、そのほうが歩きやすかった。岡崎が先に降り、時々少し振り向いた。由梨は自分の速さで続いた。
喫茶店には昼前の客が数人いた。窓際の二人席へ座ると、向かい合う彼の顔が、階段で見るより近かった。由梨はメニューを読みながら、何を話せばいいか一瞬迷った。
岡崎も同じだったらしく、店員へ水を頼んだあと、こうして座ると少し変ですねと言った。由梨は笑い、平らだからでしょうかと答えた。
二人とも息を整える必要がなく、話を途中で切り上げる階もなかった。そのことが、自由で、少し落ち着かなかった。
岡崎は図書館の設備管理に関わる仕事をしていた。由梨は小さな会社で経理をしている。階段では聞かなかった仕事の一日を、互いに説明した。
由梨は数字を扱うのは苦ではないが、月末には頭の中まで表になっている気がすると話した。岡崎は、本を読んでいると建物の中の音を忘れられるので、仕事帰りに図書館へ寄るのが好きだと言った。
同じ建物に住んでいても、知らないことばかりだった。由梨は岡崎が朝型で、辛いものが苦手で、一人で映画へ行くことを知った。彼は、由梨が夜に本を読み始めると寝るのが遅くなること、海より山の風景が好きなことを知った。
階段で知った人を、平らな場所で、また知り直した。
過去の恋人の話も少し出た。岡崎は、別れる前、自分の希望を言わなくなっていたと話した。相手に合わせているつもりだったが、何を考えているか分からないと言われたという。
由梨は、自分も同じところがあったかもしれないと答えた。二人の経験が同じだったという意味ではない。けれど、相手の希望を先に聞きすぎて、自分の声が小さくなる感じは分かった。
コーヒーが冷めるころ、岡崎は次も、と言いかけて止まった。由梨はその続きを待った。彼が、また一緒に来られたらうれしいと口にすると、彼女は私もと答えた。
今日の約束が怖かったことも、由梨は話した。岡崎はそれを聞き、誘って困らせたかと思ったと言った。彼も、返事を待つ間、自分なりの説明を作りかけていた。
「考えていいって言ってくれて、助かりました」
由梨が伝えると、彼は安心したように笑った。相手が何を怖がっているか、最初から分かっていたわけではない。たまたま合った距離を、こうして言葉にしておけば、次も選びやすくなる。
店を出たとき、昼の光が通りへ広がっていた。歩いた距離は短いのに、いつもの日曜より遠くへ行ったような気がした。
帰宅すると、二人はエレベーターに乗った。運動はもう十分だった。由梨が今日は階段を使わないんですねと笑うと、岡崎は、お茶を飲んだあとまで頑張らなくてもと言った。
エレベーターの中には、二人のほかに誰もいなかった。鏡に並んで映る姿を見て、由梨は、今度は同じ高さに立っているのだと思った。
五階で扉が開き、岡崎が、また日曜にと言った。階段で会うときの、いつもの挨拶だった。
由梨は自分の部屋へ向かいかけ、振り向いた。
「次の約束なら、木曜でも空いています」
岡崎は少し驚き、木曜なら仕事のあとに時間があると答えた。二人は廊下で連絡先を交換した。階段で会えるかどうかを、一週間待たなくてもよくなった。
部屋へ入ると、由梨は窓を開けた。外からは喫茶店の前を通る人の声が聞こえた。彼女は木曜の予定をカレンダーへ書き、しばらくその文字を見た。
誰かと会う日が決まったからといって、一人の部屋が寂しくなったわけではない。今夜も好きな本を読み、眠くなったら電気を消せる。その暮らしの中に、自分で選んだ約束が一つ増えた。
窓辺の鉢へ目をやり、次は葉が増えたことを話そうと思った。日曜を待たずに伝えてもいいのだと、携帯を手に取ってから、由梨は小さく笑った。