三十一歳の優人は、陶芸教室の三十四歳の千紗を食事に誘った。
土曜の午後の教室では、二人の席が向かい合っていた。千紗は器の縁が少し曲がっても、面白い形だと言って残した。優人は何度も直し、結局、先生に一度手を止めたほうがいいと言われた。
千紗は彼の器を見て、丁寧だねと言った。褒められたのか、慎重すぎると言われたのか分からず、優人は曖昧に笑った。彼女は自分の器のほうを指し、私のはいつも勢いだけだから、と続けた。
話すようになって三か月、教室の帰りに駅まで一緒に歩くことが増えた。千紗は布製品を作る小さな工場で働き、優人は会社の総務をしていた。仕事にはほとんど共通点がなかったが、土を触る時間が楽しみであることは同じだった。
次の金曜、よかったら夕飯を一緒に、と優人が言うと、千紗はすぐにうなずいた。彼はその返事だけで、一週間を少し違う気持ちで過ごした。
待ち合わせは、駅の南口にある古時計の前にした。教室へ行くとき、二人とも通る場所だった。丸い時計は少し高い柱の上にあり、下には町の地図が掛かっている。
優人は約束より十五分早く着いた。店は予約していなかった。千紗の好みを聞いてから決めようと思っていたが、候補は三つ調べていた。雨が降りそうだったので、駅から遠い店を一つ外した。
約束の時刻の五分前、千紗から連絡が来た。仕事の機械トラブルで少し遅れる、まだ工場を出られない、と短く書いてあった。優人は大丈夫と返した。
本当に、その時点では大丈夫だった。仕事なら仕方がない。彼女は忘れているわけではなく、連絡もくれた。頭ではそう考えながら、時計の針が進むたび、何度も画面を確かめた。
南口から出る人の列が何度も入れ替わった。親子が時計の下で写真を撮り、学生たちが地図を囲んだ。優人は少し横へずれた。待つ場所として目立つ時計は、待っている自分を人に見せる場所でもあった。
十分を過ぎると、彼は来なくても平気な顔を用意し始めた。今日はやめようと言われたら、近くで買いものをするつもりだったと答えればいい。そんな予定はなかった。
優人は、昔から約束の時間を気にするほうだった。遅れると迷惑をかけるし、待たされると大切にされていない気がした。その考えが行き過ぎることも分かっていたが、体のほうが先に落ち着かなくなった。
以前付き合った人とは、待ち合わせを何度かすっぽかされた。彼は怒る代わりに平気だと言い、相手は本当に平気だと思った。別れるころには、待った時間のすべてを、相手の気持ちを測る材料にしていた。
千紗はその人ではない。連絡もくれた。それでも、古時計の下に立つ自分が、昔の自分と重なった。優人は携帯を鞄へ入れ、目の前の通りを見た。
十九分たって、千紗が改札のほうから走ってきた。彼女は優人を見つけると、小さく手を上げ、息を整えた。
「ごめん。待たせたね」
優人が用意していたのは、全然待ってない、という返事だった。だが、彼女が次に、会いたかったから間に合ってよかった、と言ったので、その顔がうまく使えなくなった。
彼は少し笑い、来てくれてうれしいと答えた。来なかった場合の自分を守る言葉ではなく、来た彼女へ伝える言葉が、やっと出た。
二人は駅近くの洋食屋へ入った。少し待ったが、カウンターではなく、小さな二人席へ座れた。千紗は水を飲み、改めて遅れた理由を説明しようとした。
ミシンの一台が動かなくなり、急ぎの品を別の機械へ振り分けた。最後の確認を終えてから出ようとしたが、思ったより時間がかかったという。彼女は手順まで詳しく話し始め、優人は途中で、連絡をくれたから大丈夫だよと答えた。
千紗の顔が緩んだ。優人も、気まずい空気にならなくてよかったと思った。メニューを開くと、彼女はハンバーグを選び、彼は魚の料理にした。教室で先生が作った大きな皿の話をして、二人は笑った。
食事は楽しかった。千紗は彼が思っていたより早口で、好きなものの話になると身振りが大きくなった。優人が最近読んだ本について話すと、知らないから教えて、と尋ねた。自分の知識が足りないことを隠さず、その場で楽しめる人だった。
コーヒーが来たころ、彼女が次はどこへ行こうかと言った。優人はうれしかった。なのに、また遅れたらどうしようという考えが少しだけ残った。その不安を、今日の彼女に黙って背負わせたくなかった。
「さっき、大丈夫って言ったけど」
優人が切り出すと、千紗はカップを置いた。
「少し、寂しかった。来ないかもって思って」
言い終わるまで、思ったより勇気が要った。二十分でそんなことを考えた自分を、小さい人だと思われるかもしれない。だが、平気な顔をして、次に同じことがあったとき急に怒るより、今伝えたかった。
千紗は、平気だと思ってしまったと答えた。連絡をしたし、優人が大丈夫と言ってくれたので、彼の中ではもう済んだことだと思ったという。
「責めたいわけじゃないんだ。仕事で遅れたのは分かる」
「うん。でも、待ってる間の気持ちは、分からなかった」
彼女は静かに言った。自分が走って来たことで、それまでの二十分がなくなるわけではない。そのことを、優人へ説明させずに受け取ってくれた。
優人は前の恋人の詳しい話はしなかった。今の気持ちを分かってもらうために、昔の誰かを悪く言う必要はないと思った。ただ、待つのが苦手で、余裕のあるふりをしやすいことだけ伝えた。
千紗も、仕事を切り上げるのが下手だと話した。遅れそうだと分かっても、あと少しで終わると思い、先に連絡するのが遅くなることがある。
次の約束は、千紗の仕事が終わってから連絡を取り合う形にした。優人はその日、駅の近くの書店へ寄る。彼女が出られたら知らせ、そこで店を決める。古時計の前に立って待ち続ける時間が、短くなった。
それがずっと守るべき決まりなのかは、決めなかった。仕事の忙しい時期と、余裕のある時期は違う。二人が楽になる方法を、その都度変えてもいい。
店を出ると、外は弱い雨になっていた。優人は折り畳み傘を出し、千紗も鞄から傘を取り出した。一本に入るには小さかったので、別々に差した。距離は少し空いたが、会話は続いた。
駅の南口へ戻ると、古時計は十時を少し過ぎていた。優人は、待っていた場所をもう一度見た。来るか来ないかだけを考えていた時間のあとに、こうして並んで帰る時間がある。あの二十分だけで、今日の全部を決めなくてよかった。
千紗は改札の前で、また会えてよかったと言った。優人も同じ言葉を返した。次の約束ができたこと以上に、今日の気持ちを言えたことが、彼にはうれしかった。
二度目に会った日、優人は書店で思いがけず長居した。千紗から仕事が終わったと連絡が来たとき、まだ写真集を開いていた。彼女が駅へ着くまで十五分あると分かり、その間に買うかどうか決めた。柱の下で待っていたら、自分には何の楽しみもない十五分になっただろう。
千紗は店へ入ってきて、彼が持っている本を見た。陶芸の参考にするのかと聞かれ、ただ写真が好きだからと答えると、彼女も何枚かページをめくった。会う前に彼が過ごした時間が、そのまま二人の話題になった。
彼女は仕事で今日仕上げた布の色を、表紙の青に似ていると言った。優人はそこで初めて、彼女が働いている場所を少し具体的に想像できた。仕事で遅れる人という説明だけでは見えなかった、手の動きや、一日が終わるまでの長さがあった。
その晩は店を決めず、通りを歩いてから入った。少し遠回りになったが、彼は時計を何度も見ずに済んだ。約束の始まりを、時刻の一つだけに決めなくても、二人で会う時間はきちんと始まった。
何度か会ううち、優人も遅れた。会社で急な来客の対応を手伝い、電車を一本逃した。連絡をする手が一瞬止まった。遅れる自分を見られたくない気持ちが、体の中を通った。
それでも今いる駅と、あと何分かを送った。来なくても平気な顔を用意していた自分を思い出し、千紗には、ちゃんと行くことだけは分かってほしかった。
彼女から、店で先に食べていると写真が届いた。湯気の立つ皿と、水の入ったグラスが写っていた。彼女は待つために空腹を我慢していない。そのことに、優人は少し安心した。
電車の中で彼は、焦って乗り換えを間違えないよう案内を確かめた。急いでいることを伝えるために、危なっかしく走る必要はない。着くまでの時間を短くするより、相手がその時間を自分で使えるようにする。それは、待たせる側になって初めて実感したことだった。
店へ着くと、千紗は本を読んでいた。優人に気づき、栞を挟んで閉じた。彼は謝り、彼女は、お疲れさま、と答えた。
千紗の皿はほとんど空になっていたが、デザートはまだ頼んでいなかった。優人が、待たなくてもよかったのにと言うと、彼女はお腹が落ち着いてから選びたかったからと笑った。
「一緒に選ぶのも、楽しみだったし」
優人は椅子を引き、ようやく待たれる側の温かさを知った。何もせず自分の到着だけを待っていたわけではない人が、自分と食べるための時間を、少し残してくれていた。
彼が軽い食事を頼む間に、千紗はデザートのページを開いた。二人は一つを分けるか、別々にするかで迷い、結局違うものを選んだ。彼女の頼んだもののほうが少しおいしそうで、優人は一口ほしいと頼んだ。
食べ終えるころには、遅れた理由をすべて説明する必要もなくなっていた。謝ることと、あとの時間を楽しむことは、一緒にできた。
次の教室で、優人の器が焼き上がった。縁は思っていたより少し歪んでいた。千紗が、これでスープを飲みたいと言った。彼は、うちなら作れると答え、また新しい約束をした。
南口の古時計は、これからも二人の待ち合わせの目印だった。時間がぴったり重ならない日があっても、その下へ向かう気持ちまで違うとは限らない。優人は時計を見上げてから、隣を歩く千紗へゆっくり目を戻した。