海外の市場で、三十八歳の彩と四十一歳の誠司は、はぐれた。
屋根から赤い布が垂れ、通路には香辛料の匂いが満ちていた。誠司が隣の店の木箱を見ている間、彩は青い皿に目を留めた。一度だけ角を曲がり、店の前で二分ほど立ち止まった。戻れば彼がいると思っていた場所には、知らない家族連れがいた。
彩は名前を呼びかけ、途中で声を小さくした。周囲では店の人が値段を叫び、客が笑っている。彼女の声は、その中へすぐに紛れた。
携帯の電池が切れていたのは彩だった。朝、写真を撮っているうち残りが少なくなり、充電器はホテルの部屋に置いてきた。ホテルの名前を言えるのは誠司だった。予約の画面も、帰りの道順も、全部彼の携帯に入っていた。
いつも彼に任せていたことが、急に、街じゅうに広がる不便になった。
二人は結婚して六年になる。旅行を計画するのは、たいてい誠司だった。彩が行きたい場所を挙げ、彼が交通手段や宿を調べる。彼はそういう準備が苦ではなく、彩も助かると言って任せてきた。
今回の旅行も、彩が古い市場へ行ってみたいと言い出した。誠司は仕事の合間に予約を取り、出発までに必要なものを一覧にした。彼女は頼まれたものを買い、衣類を詰めた。準備を全部丸投げしたつもりはなかった。
それでも、空港へ着いてから先のことは、自分ではほとんど確かめていなかった。誠司が案内板を見ればその横に立ち、切符を買えば受け取り、道を曲がればついていった。旅を楽しんでいたが、自分たちが今どこにいるかは、彼を通して知っていた。
出発前、友人から気楽でいいねと言われた。彩は、彼が得意だからと答えた。誠司も、現地へ行って迷うより先に決めておくほうが好きだと言っていた。
二人で何度も旅行をして、一度も大きく困ったことはなかった。そのことが、今の彩をいっそう心細くした。自分は旅に慣れているのではなく、誠司と一緒にいることに慣れていただけだったのかもしれない。
彩は走り回ろうとして、立ち止まった。彼も自分を探しているなら、互いに違う通路へ移動し続けることになる。元の場所へ戻ったつもりだったが、同じ色の布は何枚もあった。
近くの小さな店へ入り、店員に地図を見せてもらえないか尋ねた。流暢な言葉は出なかったので、覚えている短い単語と身振りを使った。相手は最初、買いものの場所を聞かれたと思ったらしい。彩は夫と離れたことを伝え、携帯を見せた。
店員は大きくうなずき、観光用の地図を出した。市場の入口を指し、ここが大きな通りに面していると教えてくれた。彩はその印を指で確かめ、礼を言った。最後に店の名刺も渡された。
一人で何とかしなければと思っていたが、一人でできることの中には、人へ聞くことも入っていた。分からないと伝えても、相手は呆れなかった。
彩は市場の入口まで戻り、日陰になる柱のそばに立った。ここなら、誠司が通れば見える。店員からもらった地図を開き、ホテルのありそうな方向を探したが、名前が出てこない。朝食の食堂の壁に青い絵が掛かっていたことだけは、はっきり覚えていた。
覚えているものと、帰るために必要なものは、同じではなかった。
待っている間、彩は自分が腹を立てていることに気づいた。誠司はどうして先へ行ったのだろう。自分が立ち止まったことくらい、気づいてほしかった。そう思った直後、自分も彼に声をかけず曲がったことを思い出した。
日陰が少しずつ動き、足が痛くなった。近くで水を買い、柱から見える位置の椅子へ座った。何度も同じ人を誠司だと思い、違うと分かった。自分で待つ場所を決めたのに、ここでよかったのかと不安になった。
一時間ほどして、誠司が汗だくで現れた。通路の向こうから彼女を見つけ、急いで近づいてきた。
「どこ行ってたの」
最初の言葉は、二人とも少し強くなった。誠司は、勝手に離れないでと言った。彩は、いなくなったのはそっちだと答えた。安堵するより先に、それまで抱えていた怖さが相手へ向かった。
誠司が水の瓶を見て、飲めたんだねと言った。そのひと言で、彩は自分が戻れなかったことを彼が心配していたのだと分かった。彼も、怒りたくて怒っていたわけではない。
二人は買いものを続けず、ホテルへ戻った。帰る道は、彩が想像していた方向とは反対だった。誠司は先を歩かず、曲がり角で彼女の歩幅を待った。
部屋へ戻り、水を飲んでから話した。冷房の音が静かに続き、窓の外には市場とは違う、車の流れる通りが見えた。彩は靴を脱ぎ、床に足をつけた。
「頼ってた。自分で何も覚えてなかった」
彼女が言うと、誠司は椅子へ座り、任されるのがうれしかったと答えた。彩が楽しんでくれると、調べた甲斐があったと思えた。そのうち、彼女が何を知っているか確かめず、全部を自分の中で進めるようになったという。
「教えてって言われなかったから、要らないのかと思ってた」
「私も、分からないって言うと、せっかく決めてくれたのにって思われそうで」
二人とも、自分の役に気を遣っていた。案内する人と、楽しむ人。その分け方が便利だった間は、相手へ聞くことを忘れていた。
誠司は、彩を探しながら何度も電話をかけたと話した。電源が切れていると分かっても、ついまた押してしまった。市場の人に尋ねても、服の説明がうまくできなかったという。
「朝、何を着てたか、よく見てなかった」
彩は自分の袖を見た。旅行のために買ったシャツだった。似合うかどうかを聞かなかったのは、彼が忙しく道を調べていたからだ。彼を頼りにしているつもりで、二人で今いる時間を、別々に過ごしていたのかもしれなかった。
二人はホテルの便箋を取り出し、名前と住所を書いた。彩が表記を確かめ、誠司が受付に電話して発音を聞いた。一枚ずつ、財布へ入れた。
はぐれたら待つ場所も決めた。初めての場所では入口を確かめ、別の店へ行くときは声をかける。誠司は予定を入れた画面を彩にも送り、彼女は自分の携帯へ保存した。電池を充電すると、ようやく画面が明るくなった。
「子どもみたいだね」
彩が便箋を折りながら言うと、誠司は、初めての場所なんだから知らなくて当然だと答えた。彼女は笑った。それは、自分にも言ってよかった言葉だった。
午後の予定は取りやめ、二人は少し眠った。目が覚めると夕方で、窓の外の光が柔らかくなっていた。誠司は予定を全部取り戻そうとは言わなかった。彩も、旅行を台無しにしたと謝り続けるのをやめた。
夕飯は、ホテルの近くで探した。彩が見つけた店を、誠司が地図で確かめた。食べたいものを言うことと、場所を調べることを、一人ずつ分担し直す必要はない。二人で画面を見て、相談すればよかった。
翌日は、道を決めるのは彩の番になった。行き先は小さな博物館だった。誠司が昨日までに調べていたので、入口までの地図だけ彼女へ渡した。
彩は何度か迷った。広場の名前が似ていて、細い道を一本間違えた。誠司はすぐに地図を取り上げなかった。彼女が立ち止まると、どの辺だと思うと聞いた。
以前なら、彼に確かめて正しいか間違いか答えてもらっただろう。今日は地図を開き直し、店の看板と通りの名を見比べた。分からなかったので、近くの人へ尋ねた。示された方向は、二人が来た道の少し先だった。
「戻るね」
彩が言うと、誠司はうなずいた。道を間違えたことを責められないと分かっても、彼女自身が自分を責める癖はすぐには消えなかった。だが、誠司が通り沿いの壁画に気づき、立ち止まって写真を撮ったので、その数分は失敗だけではなくなった。
昼、見覚えのない広場で、スープの店を見つけた。外の席で食べている人の器から湯気が立っていた。彩が入りたいと言い、誠司は予定していた店ではないことを気にせず、扉を開けた。
店には写真のないメニューしかなかった。二人は分かる単語を探し、店員へ勧めを聞いた。出てきたスープは豆と野菜がたっぷり入り、思っていたより優しい味だった。
彩は店の名前を聞き、財布の便箋の余白へ書いた。ホテルへ帰るために作った紙に、もう一つ、戻りたい場所が増えた。
誠司は、最初からここへ来るつもりだったら見逃していたかもしれないと笑った。彩も笑った。迷うこと自体がいいのではない。分からないときに止まり、聞き、二人で決め直せるなら、予定と違う道にも入れるのだと思った。
博物館へ着いたのは予定より遅かった。展示を全部は見られず、二人は気になる部屋を選んだ。彩は、また来たいねと言いかけ、誠司の顔を見た。彼も、もう一日あればいいねと言った。足りなかった時間を、誰かの責任にしなくて済んだ。
夜、部屋へ戻ると、誠司は次の日の予定を開いた。彩も隣に座り、自分が見たい店を一つ加えた。彼女が初めて、旅行の計画をあとから眺める人ではなく、その途中で一緒に作る人になった気がした。
帰国後、財布の紙を捨てようとして、彩はやめた。折り目のところが少し薄くなり、余白にはスープの店の名前が残っていた。自分で聞いて、自分で書いた文字だった。
誠司は写真を整理し、あの青い皿を結局買えなかったねと言った。彩は、買わなかったから覚えているのかもしれないと答えた。皿の店の奥へ曲がったことが、二人の旅のいちばん長い一時間になった。
市場の店員にもらった名刺も、鞄から出てきた。彩は誠司へ、あの人が地図を見せてくれたと説明した。彼は名刺を眺め、今度行けたら店へ寄ろうと言った。二人の旅の話に、彼だけでは知らなかった人が一人加わった。
次の休日、近場へ出かけることになった。彩が行き先を調べ、誠司は昼食の店を二つ選んだ。どちらも相手へ説明し、地図を送った。それから彼は、携帯の電池は大丈夫と笑った。彩も、財布の紙を見せて笑った。
大人二人の旅には、迷子札があってもよかった。助けを求められることと、一人でいられないことは、同じではなかった。彼女は紙を元の場所へ戻し、今度は自分で、家から駅までの道を歩き始めた。