三十五歳の啓太は、恋人の紗良を初めて家へ呼んだ。三十三歳の彼女に、自分で作った夕飯を出したかった。
付き合い始めて三か月、外では何度も食事をしていた。紗良は店員に何かを頼むとき、相手の目を見る。苦手な食べものがあれば先に伝え、食べられるふりはしない。そういうところを、啓太は好きだった。
彼自身は、あまり好きではない料理が出ても、おいしいと言ってしまうほうだった。相手が選んだ店なら、なおさらだった。自分の好みより、場が滑らかに進むことを優先する。そのことを気遣いだと思っていたが、紗良といると、そうしなくても会話が続くのだと知った。
だから今度は、自分が彼女を迎えたかった。きれいに片づけた部屋で、温かい料理を出す。自分にも、相手を喜ばせるためにできることがあると見せたかった。
啓太の料理は、普段なら炒めものか鍋だった。それを恥ずかしいとは思わないが、初めて来てもらう夜には、少し違うものを作りたかった。料理の動画を見比べ、トマトのソースと魚介のパスタに決めた。
紗良へ苦手なものを聞くと、特にはないが、量は多くなくていいと返ってきた。啓太は気楽に来てと送り、自分は気楽になれないまま買いものへ出た。
売り場には似た缶詰が何種類もあった。動画で使っていたものがなく、代わりを選ぶだけで時間がかかった。魚介は下ごしらえの済んだものを買う予定だったのに、店員に勧められて殻つきのものも加えた。バジルも新鮮な鉢にするか、袋入りにするかで迷った。
家へ戻ると、予定より一時間遅れていた。部屋の掃除を終え、料理を始めた時点で、紗良が来るまであと四十分だった。洗面所の鏡に水滴が残っているのが気になり、布巾を取りに戻る。台所へ戻ったとき、動画は次の工程へ進んでいた。
呼び鈴が鳴った。啓太は火を弱めたつもりで、玄関へ行った。
紗良は小さな焼き菓子を持っていた。靴をそろえて上がり、窓辺の植物を見て、よく育ってるねと言った。啓太は、葉を拭いたばかりだとは言わなかった。
彼女に水を出し、食卓へ案内した。鍋をのぞくとソースが思ったより減っていた。パスタを入れる湯も、まだ十分に沸いていなかった。動画の手順を巻き戻したかったが、携帯の画面は濡れた指に反応しなかった。
「手伝おうか」
紗良が聞いた。啓太は大丈夫と答えた。座っていてほしいと言うと、彼女は素直に椅子へ戻った。
そのあと、啓太は二つの鍋とフライパンの間で順序を失った。パスタのタイマーが鳴る前にソースから焦げた匂いがした。慌てて火を止め、魚介を別の皿へ移した。底をこそげないように気をつけているうち、パスタの時間が過ぎた。
結果、麺は伸び、ソースは焦げた。彼が想像した夕飯とは、ずいぶん違う匂いが台所に残った。
「ごめん。出前にしよう」
啓太が言うと、紗良は立ち上がり、鍋をのぞいた。
「食べられる部分はあるよ」
気を遣われるほど、彼は情けなくなった。失敗したことより、うまくできるつもりで彼女を座らせていたことが恥ずかしかった。
啓太は皿を出し、それでも、無理しなくていいと言った。紗良は箸を手にしかけ、彼の顔を見て置いた。
「私、成功した料理を採点しに来たんじゃないよ」
彼は、分かってると言いかけ、黙った。分かっていなかった。喜んでもらいたいと思っていたのに、自分がどう見えるかばかり気にしていた。
紗良は、焦げたところまで食べようと言っているのではないと続けた。大丈夫なところを食べて、足りなければ何か頼めばいい。全部を失敗という箱へ入れなくてもいいのだという。
「でも、最初なのに」
啓太が言うと、紗良は少し笑った。
「最初なら、まだ知らないことが多いでしょう。料理が得意じゃないことも、今日分かった」
啓太は彼女を見た。苦手なことが分かったから、来たくなくなるという話ではなかった。それでも自分は、何か一つ見せ損なえば、好きでいてもらう理由が減るように考えていた。
「本当は、もっと簡単なのにすればよかった」
「次は、それが食べたい」
次という言葉が、先に彼女の口から出た。啓太はやっと肩の力を抜いた。
二人で食べられる部分を分けた。ソースの上のほうは少し苦かったが、魚介は大丈夫だった。伸びたパスタは量が多く、全部は皿へ載せなかった。足りない分の卵を焼くことにした。
今度は紗良がフライパンを使った。啓太は横でパンを切ろうとして、卵をひっくり返す瞬間だけ顔を上げた。片側が折れ、黄身が少し流れた。
「あ」
紗良が言い、二人は一瞬黙った。彼女は皿を差し出し、これも見た目が予定と違う、と言った。啓太は思わず笑った。彼女も、成功する人として彼の台所へ入ってきたわけではなかった。
食卓には、見た目のよくない夕飯が並んだ。啓太が照明を少し明るくすると、焦げを避けたソースの色までよく見えた。紗良は、一口ずつ味の感想を言った。
魚介の塩味はちょうどよかった。ソースは少し苦い。卵の焼けた端は香ばしい。おいしいところは、ちゃんとおいしいと言った。彼女が全部を褒めないので、啓太は褒められた部分を信用できた。
「普段、何を作るの?」
聞かれて、彼は豚肉ともやしの炒めものだと答えた。紗良は、そういうの好き、と言った。動画を何本も見る前に、その話をすればよかったのだ。
食事をしながら、啓太は昔の話をした。実家では、家族の誕生日に母が何品も作っていた。父が友人を連れてきた夜も、食卓にはきれいな皿が並んだ。誰かを迎えるとは、そういうことだと思っていた。
大人になってから母に聞くと、台所ではいつも時間が足りず、手伝ってと言えばよかったと笑っていた。その話を聞いていたのに、啓太は食卓の完成した姿だけを覚えていた。
紗良の家では、客が来ると皆で鍋を囲んだという。子どものころは特別な料理が羨ましかったが、今は、来た人まで台所へ入れる気楽さが好きだと話した。
「今日、何もしないで座ってるの、少し緊張した」
啓太は驚いた。自分が忙しく動くことで、彼女はのんびりできていると思っていた。手伝いを断られ、知らない部屋で待っている時間を、彼は想像していなかった。
「次は、一緒に作ろうか」
彼が言うと、紗良はうなずいた。誘った側が全部を成功させる約束より、そのほうが二人らしい気がした。
食事の途中で、紗良が水をおかわりした。啓太が立ち上がろうとすると、彼女は場所が分かるからと自分で取った。戻るとき、窓辺の鉢の葉が一枚落ちているのを拾い、近くのごみ箱へ入れた。
その自然な動きを見て、啓太は、この部屋へ入った人をずっと客のままにしておく必要はないのだと思った。紗良は何も壊さず、彼のものを勝手に片づけず、それでも自分の判断で水を飲み、葉を拾った。
「前に付き合ってた人にも、見栄を張ってたかもしれない」
彼はそう話した。いつも楽しい場所へ連れていき、疲れた顔を見せないようにした。そのうち、会う前に準備することばかり増え、普通の日に会いにくくなった。
紗良は、自分も似たことはあると言った。相手に嫌な思いをさせないよう、苦手な店でも黙っていた。長く会ううち、嫌いなものを伝えることが、今さら嘘を明かすようで難しくなったという。
「だから今は、最初に言うようにしてる。今日のソースも、ちょっと苦い」
啓太は笑った。紗良も笑った。その言葉に傷つかずに済むのは、彼女がもう一口食べているからだけではない。おいしくなかった部分があっても、自分との時間まで全部を否定されるわけではないと、少しずつ分かってきたからだった。
食後、二人で洗いものをした。焦げた鍋はすぐには落ちず、水につけておくことにした。紗良は食器を洗い、啓太は拭いた。皿を戻す場所が分からない彼女へ、一つずつ説明した。
食卓が片づくと、部屋は来る前より生活の匂いがした。新品のふきんに水の跡ができ、椅子の背には紗良のカーディガンが掛かっている。完璧に片づいた部屋へ客を呼ぶつもりが、自分の暮らしへ誰かが入ってきた夜になっていた。
啓太は謝る代わりに、来てくれてうれしいと伝えた。
紗良は、また来たいと答えた。それから、次は焼き菓子を食べようと言った。持ってきた袋を、二人ともすっかり忘れていた。
お茶を淹れる湯は、今度は十分に沸いた。啓太は少し笑いながらカップへ注いだ。紗良が何を笑ったのか聞いたので、これは成功した、と答えると、彼女も笑った。
時計を見て、紗良は明日の朝は早く帰らなくてもいいと話した。二人は少し照れながら、翌日の予定を確かめた。啓太は新しいタオルを出し、紗良は自分の鞄から必要なものを取り出した。
翌朝、啓太が台所へ入ると、冷蔵庫には使わなかったバジルが残っていた。昨夜、皿を飾るつもりで買ったものだった。最後にはそんな余裕がなく、袋のまま奥へ押し込んでいた。
紗良は窓を開け、いい匂いがすると言った。啓太は袋を開けただけだと答えた。二人は残っていたパンに葉を載せ、少し油を落として焼いた。
朝食の皿は、昨夜と同じだった。パスタの代わりにパンが載り、見せるために買った葉が、今は二人で食べるものになっていた。明るい台所へ、前の晩に出せなかった香りが広がった。
紗良はパンの端を割り、いい焼け方だと言った。啓太も一口食べた。葉の香りが思ったより強く、パンには少し塩を足したほうがよかった。
「もう一枚、焼く?」
彼が尋ねると、紗良はうなずいた。今度はレシピを見ず、パンを置いた。焼けるまでの間、二人は窓の外を見ていた。通りでは近所の人が犬を散歩させ、日曜の朝が普通に始まっている。
昨夜の夕飯を、うまくいったことにはできない。けれど、うまくいかなかった夜のあとにも、一緒に食べる朝があった。啓太は二枚目のパンを皿へ移し、紗良の前へ置いた。彼女は半分を彼の皿へ戻した。今度は自分だけが相手へ何かを出し続ける食事ではなかった。今度は、どちらが上手にできたかより、まだ一緒に座っていられることがうれしかった。