三十七歳の理子は、帰省の途中、旧道のガソリンスタンドへ寄った。
いつもなら高速道路を使う。今回は料金を惜しんだのではなく、実家へ着く時間を少し遅くしたかった。昼過ぎに出れば夕飯前には着く。そう母へ連絡しておきながら、サービスエリアで二度休み、最後の分岐で旧道へ曲がった。
山の形は覚えていた。道沿いの店は半分ほど変わっていた。昔、同級生が自転車を止めていた駄菓子屋は、窓を板でふさいでいる。そこを過ぎると、黄色い屋根のガソリンスタンドがあった。
給油のため車を止めると、男が一人出てきた。帽子の下の目を見て、理子は名前を思い出した。同級生の拓だった。昔は街を出ると言っていたのに、今は店長の名札をつけていた。
「帰ってたんだ」
拓は驚いた顔のまま、給油口の位置を確かめた。理子は窓を下ろし、久しぶり、と答えた。車内にある荷物を見られたくなくて、後部座席には目をやらなかった。
理子は会社を辞めていた。引き継ぎを終え、使っていた部屋も解約した。車に積んだ荷物以外は、数日前に実家へ送ってある。母には退職を伝えたが、同級生にどこまで知られているかは分からなかった。
拓が休みなのかと尋ねたとき、彼女は休暇だと答えた。すぐに取り消せる小さな嘘のつもりだった。だが、拓はそれ以上聞かず、仕事は忙しかった、と別の質問をした。
「まあね。そっちは、ずっとここ?」
理子が聞くと、彼は十年前に戻ったと答えた。高校を卒業してから何度か同窓会はあったが、二人が同じ回に出たことはない。年賀状を交わすほど親しくもなかった。
それでも拓は、理子の話し方を覚えていた。彼女が道を間違えかけた話をすると、昔も校舎の角を一つ早く曲がってた、と笑った。理子にはそんな記憶がなかった。忘れていた自分を、誰かがまだ持っていることが、少し恥ずかしかった。
拓はタイヤの空気を確かめ、車の後ろへ回った。理子はサイドミラーでその姿を見た。彼がこの町にいる理由を、父親の店だからだろうと、勝手に決めかけていた。昔の彼が街を出たかったことだけを、自分はよく覚えている。
給油が終わり、会計を済ませた。理子が車の鍵を握ると、拓は店の裏を指した。
「時間あれば、見てく? 休憩、今から」
裏には小さな畑があった。ブロックで囲った土の中に、トマトとししとうが植わっている。トマトはまだ青かった。葉の間にぶら下がる小さな実を、拓は自分の子どもを紹介するように見せた。
「父親の趣味?」
「俺の。親父は野菜より花がいいって」
理子は少し笑った。近くの折り畳み椅子に座ると、店の表を通る車の音が、建物を隔てて低く聞こえた。拓は自動販売機で買ったお茶を渡した。冷たい缶が、長く運転した手に気持ちよかった。
「農業なんて、興味なかったよね」
「今も、売れるほど作れるわけじゃない。でも、ここなら毎日見るから」
彼は畝の端に水をやりながら、雨が続くと割れることもあると言った。理子には全部同じ青に見える実の中から、そろそろ色が変わりそうなものを選んで教えた。
目に見える変化があるのはいいね、と理子が言うと、拓は、見てないと分からないくらいだけどね、と答えた。急いで何かの比喩にするような言い方ではなかった。そのことが、彼女には楽だった。
拓は店を継いだ経緯を話した。父親が店を閉めるか迷ったころ、彼も都市部の仕事を辞めるか迷っていた。設備の営業をしていたが、転勤の話が出て、次の土地へ行くより戻ろうと思ったのだという。
「親孝行だったんだ」
理子が言うと、拓は少し首を傾げた。
「それもある。でも、家賃の安い場所へ逃げた部分もあるよ」
店を継げば簡単に暮らせるわけではなかった。新しい道路ができて車は減り、忙しい時間帯も変わった。父親と店のやり方で衝突し、戻らなければよかったと思ったこともある。逆に、自分が考えた小さな改装で客が入りやすくなったときは、うれしかった。
「ここの人になりたかったわけじゃないけど、今は、ここで知ってる人が多いから」
拓は、望んだ部分と諦めた部分を、同じ声で話した。帰った人が負けて、出ていった人が勝ったわけではない。理子はそんな当たり前のことを、彼に会うまで、自分にだけは当てはめられずにいた。
高校の卒業前、理子は早く町を出たいと言った。拓も同じことを言った。二人で駅のホームに立ち、ここには何もない、と笑ったことがある。あのときの自分は、出ていった先で何かになれると思っていた。
「実は、休暇じゃないんだ」
理子は空になりかけた缶を両手で包んだ。
会社を辞めたと話すと、拓は驚いた。けれど励ますための大きな言葉は出さなかった。つらかったのか、これからどうするのかと、立て続けに聞くこともしなかった。
理子は、好きな仕事だったと言った。雑貨を扱う会社で、商品の企画をしていた。初めて自分の考えたものが店に並んだとき、写真を何枚も撮った。その楽しさは最後までなくならなかった。
ただ、扱う仕事が増え、人が減り、何を作りたいかより、何を間に合わせるかばかり考えるようになった。ある朝、店頭で自社の商品を見ても、何も感じない自分に気づいた。そのことがいちばん怖かった。
辞める理由は一つではなかった。すぐ別の会社へ行くつもりだったのに、面接の日程を決める手が止まった。そこで少し実家へ戻ると決めたが、戻る車の中でも仕事探しの画面を開いていた。
拓はうなずいた。お茶を飲み終えてから、じゃあ、しばらくいる、と聞いた。
「たぶん。ちゃんとは決めてない」
理子が答えると、彼は、トマトが赤くなるころまでは、と笑った。長く休めとも早く動けとも言わない。理子は初めて、今日何時に着くか以外のことを、母にもまだ決めて伝えていないのだと思った。
店の表から呼ぶ声がした。拓は立ち上がり、もしよかったら連絡先を教えてと言った。トマトだけのためではないことは、少し照れた声で分かった。
実家に着くと、母は夕飯の支度をしていた。理子が大丈夫と答える前に、荷物は明日でいいと言った。彼女は、今日は旧道を通ったことと、拓に会ったことを話した。
母は彼の名前を覚えていたが、詳しい近況は知らなかった。昔から気の利く子だったと言いかけ、今もそうなのかと理子へ尋ねた。
「今は、よくトマトを見てる」
理子が答えると、母は笑った。その説明では何も分からないと、自分でも思った。けれど、拓のことを高校の同級生という言葉だけで説明したくなかった。
翌日、理子は送っておいた箱を開けた。仕事で集めた資料や試作品が入っていた。もう使わないからと全部捨てる気にも、次に使うからと並べる気にもなれず、ひとまず箱へ戻した。
拓からは短い連絡が来た。昨日のトマトはまだ青い、と写真が添えてあった。理子は、こちらの箱もまだ開きかけ、と返した。彼は箱の中身を尋ねず、ゆっくり片づけると意外なものが出るよ、と送ってきた。
理子はその日の午後、昔使っていた机の引き出しを整理した。高校の写真が一枚見つかり、端に拓が写っていた。今より細く、目だけが同じだった。彼へ送ると、自分の髪型に驚く返事が来た。
二人は昔の写真を笑いながら、そこへ戻ろうとはしなかった。
写真の裏には、友人たちが将来住みたい場所を書いていた。理子は都会とだけ書き、拓は海の近くと書いていた。今いる町にも海は近いが、彼は当時、もっと南の、知らない海を考えていたという。
『今の海も、まだ全部見てないけどね』
その返事に、理子は写真を机へ伏せた。望んだものと違う場所にいることは、望みがなかったことにはならない。今の場所から新しく行きたいところを探してもいいのだと、少し思えた。
一週間後、トマトが一つ赤くなったと連絡が来た。理子は自分で運転して会いに行った。給油するほど燃料は減っていなかったので、スタンドの隅へ車を置き、店に入った。
拓は作業着の袖をまくって、伝票を整理していた。理子を見ると、今日は客じゃないんだね、と笑った。彼女は、トマトの客、と答えた。
裏の畑では、一つだけ赤い実が葉の間に見えた。拓は理子に収穫してみるかと聞いた。彼女はへたの近くへ指を添え、どこを持てばいいか尋ねた。教えてもらって取った実は、思ったより温かかった。
二人は小さな流しで洗い、半分に切って食べた。皮が少し厚く、種のまわりは酸っぱかった。拓が、店で買うほうが甘いかもしれないと言ったので、理子は、それでも今日ここへ来なかったら食べなかった味だと答えた。
休憩時間、二人は店の裏で弁当を食べた。理子は、来週一社に話を聞きに行くと伝えた。決めたわけではなく、仕事内容を聞くだけだという。拓は、自分も最初は見に行くだけのつもりで店へ戻った、と話した。
「同じになるとは限らないけど」
彼はそう付け足した。理子はうなずいた。誰かの経験を、自分の正しい答えにしなくていいことがありがたかった。
帰り際、拓は青い葉のついた小さな枝と、ししとうを数本袋へ入れてくれた。次に赤くなる実は母親にも持っていってほしいと言う。理子は、また来ていいのかと聞いた。
拓は彼女を見て、それはトマトがなくても、と答えた。言い切ってから、店の表へ目をそらした。理子は少し笑い、じゃあ次は休みの日にと提案した。
日曜の午後なら、と彼が答えた。理子は携帯へ予定を入れた。帰る日も、次の仕事も決まっていないが、一週間先に会う人がいた。それを安心の全部にするつもりはなかった。それでも楽しみであることは、そのまま受け取れた。
車へ戻り、エンジンをかける前に、仕事探しの画面を閉じた。今日聞いてもらったことを、もう一度自分で思い返したかった。何も決まっていないことを、隠さず誰かに話せていた。
出発すると、バックミラーの中で黄色い屋根が小さくなった。町を出たころには、二度と通らないつもりだった道だった。今はその道に、次に曲がる角が一つできていた。
後部座席の小さな袋から、青い葉の匂いがした。理子は窓を少し開け、夕方の空気を車内へ入れた。