四十二歳の香澄と四十六歳の圭一が同居する日、本棚が一段足りなかった。
荷物を運び込む前に、二人とも部屋の寸法は測っていた。圭一の棚は窓の横に、香澄の棚は廊下に近い壁へ置く。食卓から椅子を引ける幅も確かめた。家具の置き場所を決めたことで、その中身まで収まる気になっていたのだ。
引っ越しの午後、床には本の段ボールが十二箱残った。台所の箱は開いたし、寝具も出した。夕飯を買いに行く前に本だけ片づけようと言ったのは、香澄だった。二人とも本を減らせない人だった。置く場所だけが足りなかった。
圭一は箱の中を見て、もう読まない本を選ぼうと言った。香澄は、それを自分の本だけへの提案だと受け取った。
「あなたの棚は、もう埋まってるものね」
口にしたとき、自分でも嫌な言い方だと思った。だが、圭一も、先に詰めたから、と言い訳するように答えた。段ボールの間で、二人は黙った。
二人が一緒に住むことを決めたのは、交際して三年目の冬だった。どちらも長く一人で暮らしていた。相手の部屋に泊まるたび、忘れた充電器や靴下を取りに戻る。その不便が楽しい時期も過ぎ、互いの家へ帰る夕方を、少し寂しく思うようになった。
圭一の部屋は駅に近く、香澄の部屋は日当たりがよかった。どちらかに住めばいいという話も出たが、結局、別の部屋を探した。迎える人と入れてもらう人に、最初から分かれたくなかった。
内見したとき、香澄は窓辺に本を開く自分を想像した。圭一は台所の広さを見て、二人で立てると言った。生活費の分け方も、掃除の苦手な場所も、話し合った。どちらも、若いころよりはうまく暮らせると思っていた。
それなのに、最初の喧嘩は本だった。
香澄の手元には、昔の恋人から薦められた文庫本があった。内容はあまり好きではない。相手と別れてから十年以上たち、もう顔を思い出すことも少ない。それでも捨てると、その本を面白いと言って読んだ昔の自分まで、嘘になるような気がした。
圭一が整理しようと言ったとき、香澄には、その迷いまで見抜かれたように感じられた。彼は本の背しか見ていない。そう分かっているのに、居場所を減らされるようで抵抗した。
圭一は腰を下ろし、壁に立てかけた棚板を眺めていた。少しして、自分の古い資格の本を一冊出した。表紙の角が擦れ、付箋が何枚も飛び出していた。
「必要だから、持ってたわけじゃないな」
香澄は返事をせず、彼の手を見た。
圭一が三十代で転職に失敗したことは知っていた。次の仕事が決まらず、何か資格を取れば立て直せると思い、本を買い集めたという。資格は取らなかったが、そのあと今の仕事が見つかった。
「役には立たなかったの?」
香澄が聞くと、圭一は少し考えた。
「何もしないよりは、落ち着いた。勉強してる間は、今日も何もできなかったと思わずに済んだから」
本を手放すと、その時間が無駄になる気がした。それで引っ越しのたびに持ってきたのだという。
香澄は手元の文庫本を箱へ戻した。彼にも、読んでいるかどうかだけでは説明できない本があった。自分だけが大切なものを持っていて、相手は置き場所の計算をしていると思い込んでいた。
「さっき、自分の本を減らせって言われたと思った」
圭一は顔を上げた。
「そう聞こえたね。僕の箱も、まだあるのに」
二人はすぐに謝って終わりにはしなかった。圭一の棚を先に埋めたのは、業者が壁側へ置いた箱から開けたからだった。香澄の箱があとになった理由は分かったが、それで嫌だった気持ちまで消えるわけではない。
「まず、どっちの本も見よう」
彼が言い、香澄はうなずいた。
夕方、二人は床に三つの場所を作った。棚へ入れる本、まだ決めない本、手放す本。圭一が紙へ区分を書こうとしたが、香澄は、見れば分かるからいい、と笑った。さっきまでの緊張が少しほどけた。
すべての本について思い出を語っていたら夜が明ける。まず一人五冊ずつ、と決めた。香澄は、読み返すつもりで買い直した同じ小説を二冊見つけた。圭一にも重複した地図の本があった。二人で暮らすために何かを諦める、と考えていたわりに、最初の四冊はあっけなく決まった。
香澄はあの文庫本を開いた。余白に、昔の自分が細い鉛筆で線を引いていた。好きな本ではなかったけれど、その一文だけは今も嫌いではなかった。
「これ、前に付き合ってた人に薦められたの」
圭一は、そうなんだ、と答えた。香澄は彼の顔を見て、説明を続けるか迷った。
「好きじゃなかった。でも、読んだ自分まで否定するみたいで、残してた」
彼は本を受け取ろうとせず、香澄が開いたページを横から見た。
「今、その文章は好き?」
「ここだけは」
「じゃあ、そこを残す方法もあるね。本を残してもいいし」
圭一が結論を出さなかったことが、香澄にはありがたかった。彼女は一文を手帳へ写し、本は手放す場所へ置いた。昔の恋人からの贈り物ではなく、自分で買った本だった。誰かに薦められて買ったものを、今の自分の判断で手放した。
圭一は資格の本を三冊残した。一冊には、勉強していたころの友人の書き込みがあった。ほかの二冊は今の仕事にも使える。全部を捨てれば前向きだというわけではない。残す理由を話せたら、三冊分の場所は惜しくなかった。
その日は十冊だけ整理した。
棚に二十センチの空白ができた。箱はまだ二つ残っていたが、よく使う本は収まった。二人は床を掃除し、近くの店へ夕飯を買いに行った。
帰宅すると、圭一は棚の隙間を見て、ちょうどいい置物を買おうと言った。香澄は、空けておきたいと答えた。
「まだ入れる本が決まってない?」
「ううん。何もないところが、あってもいいなと思って」
空白は、持ってきたもののどちらへも所属していなかった。新しい部屋に何もかもをすぐ詰め込むと、一緒に暮らし始めた今日の場所がなくなるような気がした。
圭一は隙間へ当てた自分の手を引っ込めた。二十センチあれば文庫本が何冊入るか、すぐに考えたのだと笑った。香澄も、数えるのはやめよう、と笑った。
初めての夕飯は、買ってきた惣菜だった。食卓へ載せる途中で二人がぶつかり、味噌汁の袋が倒れそうになった。台所に二人で立てることと、互いの動きを分かることは別だった。
圭一は右側を使いたいと言い、香澄は、引き出しを開けるときにひと言かけてと頼んだ。引っ越し前の話し合いで決まらなかったことが、実際に暮らすたびに増えていく。それは準備の失敗ではなかった。
翌週、香澄が夜遅く帰ると、残りの箱が廊下からなくなっていた。一瞬、圭一が勝手に片づけたのかと緊張した。居間へ行くと、箱は窓のそばに置かれ、床の掃除が済んでいた。
「中は、そのまま」
圭一が言った。香澄は、よかった、と答えたあと、自分がいちいち警戒していることを少し申し訳なく思った。
「一人で住んでた時間、長いから」
「僕も、目についたものを動かす癖がある。言ってくれたほうがいい」
彼は棚を指した。香澄の本を一冊読んでみたいが、借りるときは聞いたほうがいいかという。彼女は、読んでいい、でも別の場所へ持っていくときだけ教えてと答えた。
その夜、二人は別の本を読んだ。圭一は笑い、香澄は何が面白かったか尋ねた。説明してもらっても、彼女にはあまり面白くなかった。二人は同じものを持つために、同じ感想になる必要もない。
部屋が片づくにつれ、香澄は本棚以外にも空白が必要だと思うようになった。毎週末を一緒に過ごすのではなく、友人と会う日をそのまま残す。食事の時間がずれたら、相手を待たずに食べる日も作る。二人でいるために省略しない相談が、生活の小さな場所へ増えていった。
十冊の本は、近所の古本屋へ持っていった。店主は一冊ずつ確かめ、値段のつくものと、引き取るだけのものを分けた。香澄の文庫本には、値段がつかなかった。線が引いてあるので、と言われ、彼女はそうですよねと答えた。
店を出てから、その線を写しておいてよかったと思った。本としての値段と、自分がそこで過ごした時間は、同じものではない。圭一はわずかな代金を二人で分けようとし、香澄は、帰りに飲み物を買おうと言った。
公園のベンチで缶を開けた。空いた場所へ入れる新しい本を探すのではなく、二人で何もしないまま座っていた。圭一は、資格の勉強をしていたころもここで休んだことがあると言った。香澄の知らない彼が、今の景色の中に少し現れた。
「持ってなくても、話せるね」
香澄が言うと、圭一はうなずいた。三冊残したから話せたのか、七冊手放したから話せたのかは、分からなかった。ただ、どちらも捨てられなかった人同士で、今日はこのベンチまで来ていた。
一か月後、二人は駅前の書店で料理の本を買った。香澄が書店へ入ったのは文庫本を探すためで、圭一は雑誌の立ち読みをするつもりだった。料理の棚を通りかかったとき、同じ写真の前で足が止まった。
湯気の立つ煮込みが、大きな皿に載っていた。作り方を読むと、特別な材料は要らない。休日の午後に二人で作れそうだった。
「本は増やさないんじゃなかった?」
香澄が聞くと、圭一は、必要かどうか決めてからなら増えてもいいだろ、と答えた。彼女は笑った。減らすことを二人のルールにしたいわけではなかった。
帰って本を置くと、二十センチの空白は少し狭くなった。それでもまだ余っていた。圭一は空いた場所へ指を入れ、あと何冊とは言わなかった。
その日作った煮込みは少し水分が多く、写真とは違う見た目になった。二人はパンを添え、これはこれでおいしいと食べた。レシピの余白には、次は水を減らす、と香澄が書いた。圭一は、その横にパンを忘れないこと、と足した。
二人で買った本には、最初の日から二人の文字があった。
棚を掃除するとき、香澄は残った隙間を指一本で撫でた。すぐ埋めなくても、ここは二人の家だった。昔の自分が選んだ本と、圭一が持ってきた時間と、これから増える何かの間を、布巾の先が静かに通っていった。