夜の余白YORU NO YOHAKU
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長めの短編 74 / 雨の夜 / 約11分

ひとつ前のバス停

遠回りの理由を、聞いてみた。

*

三十九歳の静香は、仕事帰りのバスで、同じマンションの四十二歳の男性と会った。

エントランスでは、何度も挨拶をしていた。名前は相沢という。宅配の箱が同じ日に届いたとき、管理人に呼ばれているのを聞いた。静香は、彼がいつも紺色の鞄を右肩に掛けていることと、エレベーターの扉を最後まで押さえて待つ人であることしか知らなかった。

その日、彼は車内で静香に気づくと、軽く会釈をした。並んだ二人掛けの席が空いていたが、静香は斜め後ろへ座った。近所の人という距離を、どこまで縮めていいのか分からなかった。

相沢は、マンションにいちばん近い停留所の一つ手前で降りた。静香へもう一度会釈し、鞄を直して通路を進む。その後ろ姿を、静香はなんとなく見送った。

翌週も、その翌週も同じだった。彼が一つ手前で降り、静香は最後まで座っている。バスを降りれば、二人は同じ建物へ帰るはずだった。

静香は一年前から一人で暮らしていた。母との同居を終えて借りた部屋は、通勤には便利だったが、近所に知り合いはほとんどいなかった。母は妹の近くへ移り、自分も少し身軽になりたいと、新しい習い事を始めていた。

自分で望んだ一人暮らしだった。それなのに、夕飯を買ってまっすぐ帰る日が続くと、一日の中に誰かと雑談した記憶がないことに気づいた。仕事では商品の納期や仕様をたくさん話す。その声が途切れたあとは、家まで黙っている。

だから相沢が会釈をしてくれると、少しうれしかった。ただ、彼はいつも一つ手前で降りる。静香はそのことに、勝手な説明をつけ始めた。

同じマンションの人と帰るのが面倒なのかもしれない。どこかで買いものをしているのかもしれない。別の誰かと会うのかもしれない。どれも聞いたことのない話だったが、考えるほど、最初の説明が正しいような気がした。

一度、彼が降りる前に携帯を見たので、静香も画面へ目を落とした。気づかなかったふりをするためだけに、天気予報を開いた。晴れの印が並んでいる。必要のない情報を見る自分が、おかしかった。

その夜、母から電話が来た。習い事の帰りに友人と食事をしたという。静香は、楽しそうだね、と言った。母は、話しかけるのに三週間かかったと笑った。もともと気軽に友人を作れる人だと思っていたので、少し驚いた。

雨の夜、相沢がいつもの降車ボタンを押した。

窓には水が斜めに流れていた。停留所からマンションまでは、屋根のない坂を上ることになる。静香はその道を想像し、思わず声をかけた。

「今日は、近くまで乗ればいいのに」

相沢は驚いて振り向いた。静香は、自分の行動を指図したように聞こえたかと慌てた。

「すみません。雨、強いから」

「そうですね。今日はそうします」

彼は立ちかけた姿勢から座り直した。運転手へ降りませんと伝える声は穏やかで、静香は少し安心した。けれど、余計なことを言った気もした。降りる理由があったなら、邪魔をしたことになる。

次の停留所に着くまで、二人とも黙っていた。静香は鞄から傘を出し、濡れたまま乗る人たちの靴を見ていた。

バスを降りると、相沢は自分の傘を広げた。静香も広げたが、片方の骨に布が引っかかった。彼が持ちましょうかと言い、彼女は鞄を少し預けた。直して返してもらうのではなく、両手が空いたので、自分で布を戻せた。

「いつも、あちらで降りますね」

歩き始めてから、静香は聞いた。今さら別の話題を探すより、気になっていたことをそのまま聞いてみたかった。

「駅前の菓子店に寄るんです。古い駅のほうの」

「毎日?」

「母が好きで。買わなくても、今日は何があったか、話すんです」

相沢の母は、別の県で一人暮らしをしていた。電話をすると天気と食事の話だけになり、最近は用件がないと掛けにくかったという。ある日、子どものころに買ってもらった店の菓子の話をすると、母が妙に詳しく覚えていた。

今は、店のショーケースに何が並んでいたかを、夜の電話で話す。栗の菓子が出ると秋だと分かり、いちごが小さくなると、そろそろ終わりだと教えてもらう。相沢自身は甘いものを毎日は食べないが、見るだけでも話題になるらしかった。

「買わないのに入っても、大丈夫なんですか」

「最初は気まずかったです。今は店主が、今日は見るだけだねって」

静香は笑った。彼にも、最初は気まずかった場所がある。そのことに、理由もなくほっとした。

マンションの入口で、二人は傘の水を払った。相沢は雨に濡れた靴のつま先を見て、今日は店へ寄らなくてよかったと笑った。静香は、自分を避けるために降りているのだと思っていたことを、少し恥ずかしく感じた。

けれど、相沢が何も知らない彼女の思い込みを訂正する義務はない。聞いて初めて分かったことを、聞く前から知っていたはずの話にしなくてよかった。

「どんなお菓子が、お母さんは好きなんですか」

エレベーターを待ちながら聞くと、彼は蒸した栗のお菓子だと答えた。静香は、そんなものがあることも知らなかった。

翌週、静香は仕事を少し早く終え、例の菓子店へ入った。古い駅の向かいにある店は、通りから少し奥まっていた。窓には、相沢が言った栗の菓子と、薄緑色の小さな箱が並んでいる。

静香が迷っていると、店主は味の違いを説明してくれた。栗のものは残り二つで、一つは予約が入っているという。彼女は残った一つと、季節の菓子を二つ選んだ。

相沢へ渡そうと思ったのは、会計のあとだった。母親に送るためではない。彼自身が好きなものを、まだ一つも知らないことに気づいたからだった。

同じバスへ乗れなかったら、次の日に自分で食べればいい。そう思って袋を鞄へ入れた。それでも停留所に相沢の姿を見つけたとき、胸が少し跳ねた。

彼は静香の袋に目を留め、店へ行ったんですかと聞いた。

「あのお店の、季節のやつ。感想、教えてください」

小さな袋を渡すと、彼は代金を払うと言った。静香は、今度、自分の分を買ってくれればいいと答えた。

「じゃあ、お返しを選ぶのに、好みを聞かないと」

「栗なら、大抵好きです」

「母と同じだ」

それを言った彼も、言われた静香も笑った。二人は一つ手前で降りた。今日は晴れていた。バスを見送ると、店まで続く細い道の先に夕日の色が残っていた。

菓子店の扉を、相沢が開けた。店主は静香を見て、今日は二回目だね、と笑った。彼女は少し照れながら、気になるものがまだあったので、と答えた。

相沢は店主と短く話し、母に伝える新しい菓子の名前を確かめた。静香は隣で聞いていた。その日の電話で、彼が一緒に来た人のことを話すかどうかは分からない。それでも、今日見た景色の中には確かに自分もいるのだと思った。

店を出ると、彼は栗の菓子の袋を静香へ渡した。

「最後の一個、予約してたんです。これをどうぞ」

「自分の分じゃないんですか」

「それは、来週でも買えます」

彼が遠慮しているのかと考え、静香は袋を開けなかった。相沢は、こちらももらったから、と彼女から受け取った菓子を軽く持ち上げた。物の数は同じでも、二人とも自分で選ばなかったものを持っている。それが、思っていた以上に楽しかった。

帰り道、静香は母との暮らしの話をした。一人で住むようになって、夕飯の量がまだうまく決まらない。二人分作ってしまうのではなく、一人分なら何でもいいと思い、同じものばかり買ってしまう。

相沢は、自分もそうだと答えた。よく使う鍋が一つだけになり、残りは戸棚の奥に入ったままだという。二人は、料理をする人としない人の話ではなく、一人だと省略してしまうことを話した。

「今度、菓子じゃなくて、ご飯でもどうですか」

相沢が言ったのは、マンションが見えてからだった。静香はうなずき、それから一つだけ聞いた。

「お母さんに、まだ電話する時間、大丈夫ですか」

彼は少し笑い、今日は少し遅くなると先に伝えれば大丈夫だと答えた。誰かの用事があることと、自分と会う気持ちがないことは、同じではなかった。

その夜、静香も母へ電話をした。いつもなら、変わったことはないと答えてから、仕事の忙しさを少し話す。今日は菓子店で見た薄緑の箱について話した。母は中身を当てようとして、いくつか菓子の名前を挙げた。

静香はそのやり取りの途中で、用事がなくても電話をしてよかったのだと思った。母が一人暮らしを始めて楽しそうだからと、自分から寂しい話はしないようにしていた。そう気遣っていることさえ、母には伝えていなかった。

「今度、こっちへ来たら寄ろうよ」

そう言うと、母は来月なら行けると答えた。静香はカレンダーに印をつけた。相沢と知り合ったから増えたのは、彼に会う予定だけではない。自分の暮らしを人に話してみようという、小さな気持ちも戻ってきていた。

食事の約束は、金曜になった。相沢は小さな定食屋を選び、静香は近くの喫茶店を調べた。どちらも行ったことのない店だった。彼が全部を知っている道を歩くより、二人で初めての場所を探してみたかった。

その日は仕事が長引き、静香が約束に遅れた。彼女は事情を送り、相沢から、店に入って待っていますと返事が来た。急いで着くと、彼は先にお茶を飲んでいた。

静香は謝り、食事をしながら仕事の話を少しした。相沢も自分の話をした。いつも静かな人だと思っていたが、よく笑うし、自分の失敗には少し大げさな身振りがつく。マンションの前で会釈するだけでは分からなかったことが、皿の減る速度と一緒に増えていった。

帰りのバスでは、自然に隣の席に座った。菓子店の停留所が近づくと、相沢は降りようかと聞いた。静香は、今日はもう閉まっていますよ、と答えた。

二人はマンションにいちばん近い停留所まで乗った。遠回りをする日があっても、まっすぐ帰る日があってもいい。彼がボタンを押すかどうかを、静香はもう自分への返事として数えなかった。

バスを降りて並ぶと、相沢が来週の季節菓子は何だろうと言った。静香は、それなら一緒に確かめに行こうと答えた。二人の帰り道には、降りる場所を選べるだけの、小さな楽しみができていた。

了Thank you for reading.

もう少し、夜のつづきを。

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ABOUT THIS LIBRARY

恋の、その先の余白。

「夜の余白」は、成人同士の恋愛と日々の心の動きを描く、オリジナル短編の書庫です。再会、秘密、別れ、そして新しい一歩。眠る前のひとときに、ひとつの物語を。

全130篇を無料でお読みいただけます。約10分で楽しめる短編を中心に、さまざまな恋の物語を集めました。作品はAIを用いて制作しています。露骨な性描写は含みません。

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運営名:夜の余白
初版:2026年10月21日
更新:2026年10月23日
収録:恋愛短編130篇(うち読了目安10分以上100篇)