三十二歳の美都は、海で泳げるふりをした。三十五歳の恋人、慶に、できないことを知られたくなかった。まだ付き合って一か月で、ほかにも隠している小さなことがあった。
旅行の相談をしたとき、慶が海は好きかと尋ねた。美都は好きだと答えた。それは嘘ではない。冬の海を眺めるのも、波の音を聞くのも好きだった。ただ、泳ぐことと海を好きでいることを、彼は一緒に考えただろう。そう思った時点で付け足せばよかったのに、彼女は次の話題へ進んでしまった。
二人は友人の紹介で知り合った。慶はよく笑い、人の話を途中で結論へ運ばない人だった。美都が仕事の失敗を話しても、自分ならどうするかをすぐに言わなかった。それなのに、彼女は失敗した自分のままで会うことに慣れていなかった。
出発の前夜、美都は鞄へ水着を入れた。何年も着ていないものだった。試しに身につけると、肩の紐が少しきつい。買い直す時間はなかった。そもそも泳がないと伝えればよかった。その簡単な選択が、荷物を詰めるにつれて遠くなった。
携帯に慶から、明日はゆっくり行こう、と連絡が来た。彼女は楽しみ、と返した。楽しみであることも、本当だった。
八月最後の土曜、二人は各駅停車に乗った。窓の外に海が見えると、美都は思わず身を乗り出した。慶も隣から覗き込み、写真を撮るでもなく、しばらく眺めていた。
「遠くまで来た感じがするね」
「まだ一時間なのに」
慶は、旅行に慣れているわけではないと話した。仕事の出張では移動の順番が決まっているが、遊びの行き先を決めるのは苦手なのだという。美都は、自分も準備が得意ではないと言いかけた。しかし、海の家の営業時間も、列車の時間も自分が調べたので、いまさら違う気がした。
駅から浜まで歩く道で、彼は地図を何度も見た。美都はまだそれを慎重さだと思っていた。細い道を曲がると、急に波の音が大きくなった。海の家の看板には、最終営業日が翌日だと書かれていた。
二人は荷物を預け、昼食の時間を決めた。更衣室の鏡の前で、美都は水着の肩紐を直した。隣の親子が日焼け止めを塗り合っている。自分だけが試験を受けに来たような気持ちになっていることが、おかしかった。
外へ出ると、慶はもう待っていた。彼女の姿を見て、来てよかったね、と言った。きれいだとか似合うとか、そういう返事を用意していた美都は、少し拍子抜けした。それから、彼が海へ一緒に来たことを喜んでいるのだと分かった。
砂は熱く、波打ち際は冷たかった。足首に水が触れるところまでは進めた。その先で足が止まった。
沖には黄色い目印が浮かんでいた。泳ぐ人たちは、あそこへ行って戻ってくる。美都はその距離を見ただけで、胸の内側が固くなった。子どものころ、水泳教室で足のつかない場所へ進めなかった。誰かに押されたわけでも、溺れたことがあるわけでもない。ただ水の下へ体が沈む感じが、どうしても怖かった。
慶が隣へ来た。彼は海へ入らず、美都の顔を見て、少し待って、と言った。浜の端にある貸し浮輪の店へ歩いていく。美都は自分のために持ってきてくれるのだと思い、言い訳を考えた。
戻ってきた彼の手には、浮輪が二つあった。
「泳げないの、俺も」
美都は、彼が念のため嘘をついてくれたのかと思った。そんな気遣いをさせたことが、さらに恥ずかしかった。
「少しは泳げるんでしょう?」
「少しって、足を離すところまで入る?」
彼は真面目に尋ねた。美都が首を横に振ると、慶は、それなら俺も同じくらい、と答えた。浮輪を持つ指に力が入っている。演技には見えなかった。
「海が好きか聞いたから、泳ぐつもりなんだと思って」
「海の近くで、だらだらしたかった」
美都は笑い、笑った拍子に肩が下がった。
「私、泳げるって思われたくて、何も言わなかった」
「俺も、先に言えばよかった」
二人で足の届くところだけを歩いた。監視員の見える範囲で、腰より深くは入らないと決めた。浮輪があるから遠くまで行けるのではなく、近い場所で落ち着くために借りたものだった。
小さな波が来るたび、慶は真剣な顔で浮輪をつかんだ。美都も足を踏ん張り、それから二人で笑った。沖を泳ぐ人の姿は、見ているだけできれいだった。あちらへ行かなくても、今日の海が少なくなるわけではなかった。
浜へ戻ると、二人の足には細かい砂がついていた。慶が借りた場所へ浮輪を返す間、美都は日陰でタオルを広げた。海へ入っていた時間は短かったが、体は思ったより疲れていた。
昼は海の家で焼きそばを食べた。麺にかかった青のりが風で飛びそうになり、二人で皿を押さえた。慶は、この程度の波でも怖かった、と言った。美都は同じだと答えた。怖かったと言っても旅行が台無しにならないことを、その返事で初めて確かめられた。
「ほかにも、できないことある?」
慶はからかう調子ではなく、食後に何をするか聞くように尋ねた。
美都は、自転車にも乗れないと言った。小学校のころ練習して転び、やめたままだった。大人になってからは、乗れない理由を説明するのが面倒で、必要な場面を避けてきた。
「じゃあ、さっき見たレンタサイクルはやめよう」
慶はすぐに言った。練習すればいい、と続けなかったことが、彼女にはうれしかった。
「慶は?」
「地図が読めない。正確には、向きを変えると分からなくなる」
美都は駅からの道を思い出した。慎重に確認していたのではなく、本当に分からなくなっていたのだ。
「今度から、そう言って」
「美都もね」
彼女はうなずいた。それから、実は予約の確認を何度も見直すことも話した。失敗を防ぐためというより、失敗する自分を見られるのが怖くて、同じ画面を開き続ける。
慶は、自分も店を選ぶとき、相手が気に入らなかった顔を想像して決められなくなると話した。楽しませなければと思うほど、予定が細かくなる。今回ゆっくり行こうと言ったのは、自分にも言い聞かせるためだった。
食後、二人は防波堤の手前にある遊歩道を歩いた。砂浜より静かで、遠くの売店から音楽が聞こえた。美都は海へ来る前に考えていた自分の姿を思い出した。水の中で自然に笑い、彼に何も心配させない人。そういう人になれたら好かれると思っていた。
目の前の慶は、日焼け止めを塗り忘れた膝を気にしていた。彼女も肩紐の跡が痛かった。完璧ではない二人の午後は、想像していたよりずっと穏やかだった。
休憩に入った喫茶店で、店員が本日のおすすめを説明した。知らない果物の名前が出て、美都は分かったふりをしそうになった。慶がどんな味ですかと尋ねた。店員は一口分を小皿にのせてくれた。知らないと答えたことで、午後に新しい味が増えた。
「聞くの、上手だね」
美都が言うと、慶は、仕事だと聞けなくなることもある、と笑った。知らないと困る場面ほど、知らないと言えない。それは二人ともよく知っていた。
「今日、私が足を止めたとき、どう思った?」
「同じかもしれないって。少し、ほっとした」
美都は目を上げた。助ける人と助けられる人に、最初から分かれていたわけではなかった。二つの浮輪を抱えて戻ってきた彼にも、言い出せた安堵があったのだ。
喫茶店を出る前に、美都は海の家へ電話をかけた。朝に預けた袋には、濡れた水着とタオルが入っていた。受け取りが少し遅くなることを伝えると、慶が横で、電話してくれてありがとうと言った。二人とも袋を忘れていたわけではないが、相手が気にしているだろうと、確認を任せかけていた。
「こういう連絡は、私ができるから」
言ってから、それを引き受けたくない日も言おうと思った。得意なことを一つ渡すと、ずっとその役になりそうで、今までは何でも半分ずつを望んできた。でも今日、慶は浮輪を借り、美都は店の人に尋ねた。半分の形は、その都度変わっていい。
慶は、自分は荷物を持つくらいしかできていない、と言いかけた。美都は、さっき待ってくれたでしょう、と答えた。足が止まった彼女を、進めとも戻れとも急かさなかった。その時間も、確かに受け取っていた。
窓の向こうで、海の家が看板を片づけ始めていた。季節の終わりが、客の数よりも店じまいの手つきに表れていた。二人は次の夏も、と軽く約束しかけ、まず次の休日を相談することにした。
帰り道、二人は案の定、駅への道を間違えた。来た道の店を覚えているつもりだったが、一本違う通りへ入っていた。慶は携帯の地図を回し、また分からなくなった。
美都は、あそこの店で聞こうと言った。彼女も初対面の人に声をかけるのは得意ではない。それでも、分からないまま歩くより、今日は聞ける気がした。
小さな乾物屋の女性が、裏道を教えてくれた。途中の石段を上れば駅が見えるという。慶が二人分の荷物を持ち、美都は教わった角を一つずつ確かめた。息が切れたところで、慶が急がなくても次があると言った。
美都は立ち止まった。自分で調べた列車に乗れないことを、旅行の失敗にしようとしていた。彼女は時刻表を開き、次の列車が二十分後に来るのを確かめた。
「じゃあ、ゆっくりでいいね」
口に出すと、その二十分が罰ではなく余白になった。
夕日の時間に、なんとかホームへ着いた。予定の列車には乗れなかったが、次の列車が来た。待つ間、慶は紙袋から土産の煎餅を出した。一枚ずつ分けると、口の中に醤油の香りが広がった。駅まで間違えずに来ていたら、ここで食べなかったかもしれない。
美都は家へ帰ったら、泳げなかったことを友人に話そうと思った。できたことだけを並べなくても、楽しかった旅行の説明はできる。慶が浮輪を二つ抱えて戻ってきた姿は、きっと何度でも笑って思い出せる。
電車の窓が、夕日を受けて赤くなった。二人で座ると、慶は荷物を足元へ寄せた。美都は眠くなってもいいかと聞き、彼は、自分も寝るかもしれないから降りる駅の少し前にアラームをかけようと答えた。
頼っても全部を預けなくていい。一緒に考える方法は、そんな小さなことにもあった。
慶の腕に、浮輪の跡が赤く残っていた。美都はその跡を軽く指でなぞった。彼が笑い、触れた指を握った。できないことの話は、そこでしばらく途切れた。