三十歳の理沙は、惣菜屋で空の袋を受け取って帰った。
玄関の鍵を回したところで、今日はずいぶん荷物が軽いと思った。弁当箱まで軽くなったのかと考え、そんなはずはないと、靴を脱いでから袋を開いた。入っていたのは箸と、小さな紙のおしぼりだけだった。
疲れていたので、腹が立つより、おかしかった。透明な袋を透かして部屋の灯りを見た。中身を確かめるだけのことを、どうしてしなかったのだろう。
理沙は雑貨会社で仕入れの事務をしていた。月末のその日、納品数の間違いが続き、夕方から電話ばかりしていた。自分の帰宅が一時間遅れた原因を、誰かの確認不足だと思っていた。その自分が、空の袋を十分も提げて歩いたのである。
店に電話すると、店主は何度も謝った。受け渡し台に弁当が残っている、まだ温かいので届けたい、と言う。閉店間際の店へ一人で届けさせるのも気が引け、理沙は戻ることにした。
玄関で脱いだ靴が、もう足に馴染まなかった。いったん家へ入ってからもう一度出るのは、最初から遠回りするより面倒だった。それでも、冷蔵庫の中に夕飯になるものがないことを知っていた。
店の扉を開けると、三十四歳の男性客も、空の袋を持っていた。彼の袋には箸が二膳入っていた。それを店主に見せながら、少し困った顔で笑っている。
「あ、もう一人のお客さん」
店主が言い、理沙は何となく会釈した。同じ目に遭ったからといって知り合いになったわけではない。それなのに、帰り道を引き返した人が自分だけではないことに、妙な安心があった。
台所の受け渡し台に、二人分の弁当が並んだままだった。会計と袋詰めの担当が、それぞれ相手が入れたと思ったらしい。奥にいた若い店員が、何度も頭を下げた。
「大丈夫です。私も持ったときに気づかなかったので」
理沙が言うと、男性客も同じことを言った。ただ店主は、それでは困るんです、と自分に言い聞かせるように答え、弁当を一つずつ見せてから袋に入れた。
おわびにと、余った唐揚げも足してくれた。理沙は受け取りながら、明日ここで働く若い店員が、今日のことでひどく責められなければいいと思った。口には出さなかった。自分が仕事で確認を求めるときの声を、少し思い出した。
店を出て、男性が笑った。
「今日は、箸だけで夕飯にするところでした」
「私は、おしぼりまでありました」
「それは豪華ですね」
理沙は思わず声を出した。昼から張っていた肩の辺りが、笑いに合わせて緩んだ。店の看板が消え、路面に落ちていた明かりが一つなくなった。
男性は川のほうを見た。遊歩道にはまだ人影があり、犬を連れた人や、駅へ向かう人が通っていた。
「帰ると、また冷めますね」
「そうですね」
二人は近くの川のベンチで食べた。男性が先に座る場所を指し、理沙は街灯の近いほうを選んだ。隣には一人分ほど間を空けた。知らない人と食事をするというほど大げさではなく、弁当の温かさに追いつくために、同じ場所に座った。
名前を尋ねるまでに、唐揚げが二つなくなった。彼は圭吾と名乗った。近所の印刷会社で働いていて、この店には週に一度か二度来るという。
「理沙です。私は、今日が三回目」
「慣れてきたところで、ずいぶんな歓迎を」
「店の人より、私のほうが驚いてなかったかもしれない」
理沙が仕事の話を少しすると、圭吾は、自分も今日は印刷の色を何度も確認したと話した。言われなければ分からない程度の差を、見る人は分かる。それを確かめたあとで、弁当が入っていないことには気づかなかった。
「見るようにしているところしか、見てないんですね」
圭吾はそう言って、唐揚げを半分に割った。理沙はその言葉を、反省のためではなく、今日起きたことの説明として聞いた。
食べ終わっても、二人はしばらく座っていた。川は暗く、向こう岸のマンションの窓が細い線になって揺れている。理沙は一人暮らしを始めて四年になるが、ここで弁当を食べたことはなかった。
「近いのに、来たことがなかったです」
「僕も、通るだけです」
圭吾の弁当箱には、漬物が一切れ残っていた。嫌いなのかと思って見ていると、彼は最後に食べるのだと言った。
「いちばん好きなものを、残すんですか」
「好きというより、これで終わると片づいた感じがするので」
「私は先に食べます。口の中を変えたいから」
その程度の話をゆっくりできることが、新しかった。会社では何を決めるための会話かを、いつも考えていた。友人と会えば、限られた時間に近況を詰め込んだ。目の前の人は理沙のことを何も知らず、急いで知りたがる様子もなかった。
圭吾は、引っ越してきてまだ半年だと話した。以前は別の県の工場に勤めていた。今の会社へ移った理由は、家族のためでも、夢のためでもなく、交代勤務が体に合わなくなったからだという。
「理由を聞かれると、もう少し格好のいいことを言いたくなるんですけど」
「眠れるようになりました?」
「はい。夜に寝て、朝に起きるだけで、だいぶ違いました」
理沙は、それなら十分な理由だと言った。言ってから、自分にもそう言えたらいいと思った。最近、忙しい部署から異動したいと考えていたが、逃げたと思われるのが怖く、誰にも話していなかった。
圭吾は次の質問を待たずに、理沙の袋を指した。風で飛びそうになっていたのである。彼が押さえ、理沙が弁当箱を入れた。その短い共同作業が、込み入った話の続きより心地よかった。
帰り道の分かれ目で、圭吾は礼を言った。
「一人だったら、きっと家まで持って帰って、冷たいまま食べてました」
「私もです」
連絡先を聞くには、少しだけ勇気が足りなかった。圭吾も鞄を持ち替えたが、それ以上は言わなかった。理沙は、また、と挨拶し、家へ向かった。
翌朝、理沙は取引先へのメールを書き直した。確認をお願いします、という一行の前に、食い違っている数字と、こちらで確認した範囲を書いた。相手に優しくしようと思っただけではない。何を確かめればいいかを、自分もはっきりさせたかった。
昼、同僚に昨夜の話をすると、連絡先を聞かなかったの、と驚かれた。理沙は笑ってごまかした。偶然に会った人とのことを、すぐ恋の話にしてしまうのが惜しかった。とはいえ、その日の帰りに惣菜屋の前を通ったのは、普段の道順ではなかった。
店は休みだった。シャッターに貼られた定休日の紙を、理沙は初めて読んだ。会いたいかどうかを自分に聞くより先に、木曜は休みなのだと覚えた。
次の日は残業になり、週末は友人と会った。圭吾の顔を思い出すたび、好きな食べ物を最後に残す人ではなく、最後の味を決めている人なのだ、と考えた。覚えていることがそんなに小さいのが、かえってうれしかった。
月曜の朝、理沙は上司に面談を頼んだ。異動の希望をすぐに出したわけではない。今の担当量が続くと難しい、と具体的に話した。返事は簡単ではなかったが、言っただけで辞める人として扱われることもなかった。昼休み、会社を出ると、空気が少し冷えていた。
その夜、理沙は惣菜屋へ寄った。店主は顔を覚えていて、先日は、と頭を下げた。理沙は今日も同じ弁当を頼み、袋へ入るところを二人で確かめた。
「箸、二膳いただけますか」
言ったあとで、自分が期待していることに気づいた。使わなければ家で取っておけばいい。それだけのことなのに、店主が箸を入れる音が、やけに大きく聞こえた。
外で圭吾が待っていた。最初は別の人かと思った。前の晩と違い、明るい色の上着を着ていたからだ。彼は理沙を見ると、弁当の入った袋を持ち上げた。
「今日は、中身があります。でも、よかったら」
彼が川のほうを指した。理沙は自分の袋を少し持ち上げた。
「私も、そうしようかと思っていました」
歩きながら、圭吾は先週と同じ時間を選んだことを打ち明けた。何度も店の前へ来たわけではない、と付け足してから、それは言わなくてよかったですね、と笑った。
理沙も、木曜に前を通ったことを話した。互いの遠回りが分かると、偶然を装わなくてよくなった。今日は何時まで大丈夫かと圭吾が聞き、理沙は九時前には帰りたいと答えた。彼は分かりましたと言った。その返事だけで、座っていい時間が自分のものになった。
川のベンチは空いていた。少し風があり、二人は温かいお茶を自動販売機で買った。理沙は面談のことを全部は話さず、今日は、言いにくいことを一つ言えたとだけ話した。
「言ったあと、どうでした?」
「何も一気には変わらなかったです。でも、言う前に戻りたくはないです」
圭吾はうなずいた。答えを教えてくれないことが、理沙にはありがたかった。彼も今日の仕事について、失敗ではなく、うまく刷れた紙の色を話した。夜の空に近い青だという。理沙は袋越しに空を見て、透明なものにも、見る場所で色がつくのだと思った。
帰りの時間が近づくと、理沙は残った唐揚げを包み直そうとした。圭吾は、無理に食べなくていい、と言い、それから余計なことだったかもしれないと口を閉じた。
「明日の朝に、取っておきたいんです」
理沙が答えると、彼はうなずいた。理沙は、何かを残す理由まで先回りして説明しなくてもよかったのだと思った。こうして小さく言い直せる相手を、最近あまり持っていなかった。
遊歩道の端で、自転車が一台止まった。乗っていた女性が空を見上げ、薄い上着を羽織っている。いつもなら帰宅の道で通り過ぎるだけの人の動きを、理沙はゆっくり眺めた。この町には、自分が急いでいる間も、誰かが座って夕飯を食べる時間が流れていた。今夜はその中に、自分もいた。
食べ終える前に、今度は理沙が連絡先を尋ねた。圭吾は鞄から携帯を出し、その画面に彼女の名前を入力した。読み方を確認され、理沙はゆっくり答えた。
袋の底に、使わなかった箸が一膳残った。今度は間違いではなかった。もし会えたらと思って、自分で頼んだものだった。その細い紙袋を、理沙は弁当箱とは別に、鞄の内ポケットへしまった。