三十六歳の真弓と四十歳の北川は、同じ部署にいた。付き合って半年、社内では誰にも話していなかった。
机は通路を挟んで二つ離れている。資料を渡すときには名字を呼び、会議で意見が違えば最後まで話した。二人とも、そのことで仕事をしにくくしたくなかった。秘密というより、仕事の場所へ持ち込まないための約束だった。
ただ、その約束は、日がたつにつれて少しずつ形を変えた。廊下で会っても長く話さない。昼休みは別の店へ行く。恋人になる前なら気にしなかったことに、理由が必要になった。真弓は、人の目を気にしすぎだと思いながら、一つずつ自分で増やしていた。
北川が異動を願い出たのは、恋愛のためではなく、以前から希望していた仕事のためだった。新しい事業所で、現場の支援に携わる。募集の知らせが出たとき、真弓より先に上司へ相談していた。
その順番が正しいことは、頭では分かった。恋人だからすべてを最初に聞く権利があるわけではない。それでも金曜の夜、彼の部屋で知らされたとき、真弓は、よかったね、と言うまでに少し時間がかかった。
「まだ決まってないけど」
北川は言い、応募書類の入った封筒を机の端へ寄せた。
「決まるといいね」
真弓は今度ははっきり答えた。それは本心だった。本心が一つしかないわけではなかった。
異動が決まったのは三週間後だった。部署では、長く勤めた先輩の退職日と重なるため、送別会を一緒に開くことになった。真弓は会場の手配を担当した。北川の嫌いな食べ物を知っていたが、ほかの参加者と同じように、希望をメールで集めた。
引き継ぎの期間、彼はいつもより忙しかった。昼休みに電話をかけ、終業後には新しい部署との打ち合わせへ行った。二人で帰る約束をしていた夜も、開始時刻が変わり、真弓は一人で食事をした。
『先に食べてて。ごめん』
彼の短い連絡に、真弓は大丈夫と返した。本当に大丈夫な日もあった。疲れて、一人で帰りたい日もある。けれどその日は、会えることを支えに午後を乗り切っていた。そう書けば重くなる気がして、携帯を伏せた。
翌朝、北川は何事もなかったように仕事の質問をした。何事もなかったようにしてほしいと望んでいたのは、真弓のほうだった。返事をしながら、自分の作った決まりに彼を閉じ込めているような気がした。
昼、同僚の澤井が、北川さんがいなくなると困るね、と言った。真弓は帳票の話だと思い、引き継ぎは済んでいると答えた。
「そうじゃなくて、困ったとき、何を聞いても変な顔しないでしょう」
真弓はうなずいた。自分が好きになったところを、同僚も知っている。それを独り占めしたくなったことに、少し驚いた。
その晩、彼と電話で話した。真弓は、異動後にどう会うか、話しておきたいと言いかけた。北川がまだ会社にいると分かり、また今度でいいと引っ込めた。彼は今度ちゃんと聞くと言った。二人とも、今度がいつかを決めなかった。
最後の出勤日、北川の机には小さな箱が置かれていた。私物は思ったより少なかった。マグカップ、充電器、何年も前の資格試験の参考書。真弓が選んだペンは胸のポケットに挿してあり、箱には入っていなかった。
午前中、彼が使っていたファイルの保存先を確認した。真弓は画面の数字を読み上げ、北川はその横でメモを取った。仕事があることが、ありがたかった。寂しい顔をしなくても、彼のそばにいる理由になった。
昼過ぎ、退職する先輩へ花束を渡した。先輩は、明日から朝の電車に乗らなくていいのが信じられない、と笑った。北川も、僕は新しい路線です、と笑った。変わるのは彼だけではない。真弓の机の周りも、来週から別の配置になる。
送別会では、二人は離れた席に座った。真弓は幹事として料理の皿を確かめ、飲み物の追加を頼んだ。北川の隣には若い社員が座り、新しい仕事について質問していた。彼の横顔が生き生きして見えた。
うれしいと思った。同時に、今夜の彼を一番よく知っているのは自分ではないとも感じた。まだ始まっていない仕事のことを、真弓はほとんど知らない。普段の様子を毎日見られることに甘えて、尋ねずに済ませていた。
乾杯のとき、北川は真弓を見なかった。真弓も見なかった。帰りも別々に出た。会費の精算を終えて外へ出ると、退職した先輩がもう一度手を振った。真弓は笑って見送り、駅へ向かう人の流れから外れた。
ビルの横で北川が待っていた。自動販売機の紙コップを二つ持っていた。
「ここで飲むの、最後だね」
真弓が言った。ビルの裏手には、小さな植え込みと、腰掛けられる低い縁石があった。二人は残業の夜に何度もここで会った。恋人になる前は、仕事の愚痴ばかり話した。
北川はコップを渡した。真弓のほうは砂糖を一つ入れたコーヒーで、彼のほうはお茶だった。付き合い始めたころ、彼は真弓に合わせてコーヒーを飲んでいた。胃が重くなると聞いてから、合わせなくていいと話した。その程度のことなら、二人はちゃんと言えた。
「あのときも、退職する人の送別会だった」
北川が、二人で初めて長く話した夜を思い出した。真弓は人事異動の内示を受け、希望が通らなかったことに腹を立てていた。北川は、次にどうするかをすぐに聞かず、コーヒーを買ってきた。それがうれしかった。
「私、まだ同じ席にいる」
真弓は言ってから、彼を責めるように聞こえたのではないかと思った。
「同じ席でも、同じ仕事じゃないだろ」
北川は、彼女がこの一年で担当を増やしたことを挙げた。真弓はその言葉を受け取りながら、評価してほしいわけではないことにも気づいた。
「置いていかれた感じがしたの。変だけど」
言った途端、コップが熱くなったように感じた。彼はすぐに否定しなかった。
「そう思わせたんだな」
「違う。あなたが悪いって話じゃなくて」
「うん。でも、知らなかったから」
真弓は、知られないようにしていたのだから当然だと思った。先に相談してくれなかったこと、会えなかった夜のこと、毎朝姿を見られなくなることを、一つずつ話した。全部を同じ寂しさの中に詰めていたので、自分でも分からなくなっていた。
北川は、応募を先に上司へ話した理由を説明した。募集条件に合うか分からず、確認だけのつもりだった。条件を満たすと分かってから、正式に応募した。その時点で真弓にも話したのだという。
「応援してくれると思ってた」
「応援してるよ」
「うん。それで、寂しいほうまで考えてなかった」
真弓はコップの縁を指で撫でた。応援する人は寂しくなってはいけないと、勝手に決めていたのは自分だった。
明日から連絡が減りそうで怖い、と真弓は言った。北川は、減らさないと約束しかけ、やめた。
「忙しくなると思う。でも、会う日を先に決めたい」
二人は携帯を出し、翌月の休みを比べた。最初に合った土曜は、真弓が母親の家へ行く日だった。彼の最初の休日は、引っ越しの荷物を受け取る予定があった。暮らしを並べてみると、会いたいだけでは空かない場所がいくつもあった。
北川は日曜の午後を指した。真弓は、その日は夕方までなら空いていると答えた。長く会えなくてもいい。決まった時間が一つあるだけで、待つことの形が変わった。
「連絡がないとき、勝手に悪いほうへ考えると思う」
真弓が言うと、北川は、返事が遅れる日はそう伝える、と答えた。ただし毎晩必ず電話をする約束にはしなかった。守れない日が来るたびに、気持ちまで量りたくなかった。
北川にも不安はあった。新しい職場で何ができるか、まだ分からない。希望したからには弱音を吐きにくい、と言った。
「希望して行っても、嫌なことはあるでしょう」
「あると思う」
「その話、してほしい。私は行ったほうがいいって言ったから、後悔するなとか、思わない」
彼はコップを持つ手を緩めた。真弓は、置いていかれることばかり考えて、彼が新しい場所へ一人で入っていくことを、十分に想像していなかった。
会社という共通の話題が減ったら、何を話せばいいのだろう。そう尋ねると、北川は休日にどんな朝食を食べるのか、まだ知らないと言った。真弓は笑った。彼の部屋へ泊まったことはあったが、その翌朝はいつも外へ食べに行っていた。
「一人なら、立ったままパンを食べる日もある」
「僕も。しかも同じ皿を夜まで置いてる」
そんなことを知って、嫌いになるどころか、少し気が楽になった。これから話すことは、減るだけではないのかもしれない。
紙コップが空になるころ、ビルの清掃員が通りかかった。二人は軽く会釈をした。北川は、手元のコップを重ねようとしたが、真弓のコーヒーがまだ少し残っているのを見て待った。
「退職するみたいな気分だ」
彼が言った。会社を辞めるわけではない。それでも、毎日ここへ来て、同じ人に挨拶する生活は終わる。真弓は、退職する先輩が何度も振り返っていた理由を、少しだけ分かった気がした。
「次の仕事の人として、また紹介して」
真弓は言った。彼は笑って、名刺ができたら、と答えた。
真弓は翌月の予定に、場所を決める前の約束を書き込んだ。仕事の会議と同じ色ではなく、自分の休日に使う色を選んだ。北川の画面にも同じ日付が入り、二人の間だけで決めた用事が、初めて先の時間に置かれた。
空になったコップを捨て、二人は駅へ向かった。北川が真弓の手を取った。会社の人が通るかもしれなかった。
真弓は、今日はまだ、と言った。北川はすぐに離した。その手を見て、彼女は安心した。これから変えたい約束と、今夜まだ変えられない約束は、同じ速さで動かさなくてよかった。
角を曲がってから、今度は真弓が手を出した。北川は歩幅を落とし、指を絡めた。新しい部署の話でも、今夜の送別会の話でもなく、次の日曜は何を食べたいかを尋ねた。
真弓は、座って朝食を食べたい、と答えた。午後の約束だった、と二人で笑い、それなら遅い昼食にしようと決めた。仕事の外で、二人の歩く速さを、少しずつ決めていく夜だった。