真帆が指輪を外したのは、彼と会うためではなかった。
洗面所の鏡の前で、三十六歳の自分を見た。薬指の跡は思った以上に深い。外した輪を鞄に入れかけ、やめて、家の引き出しに置いた。
朝、夫の裕一は出張用の鞄を廊下に置いたまま、台所で麦茶を飲んでいた。昨夜帰ってきたのを真帆は知っている。鍵の音で目を覚まし、寝たふりをした。話をしたいと伝えてから三日、二人は日程の確認だけを繰り返していた。
「土曜、空いてる?」
真帆が聞くと、夫は冷蔵庫の予定表を見た。
「午前なら。午後は車の点検」
「点検、ずらせないかな」
裕一は初めて振り向いた。真帆は朝食の皿を持ったまま、手が冷たくなるのを感じた。
「すぐには終わらない話だと思う」
「分かった。連絡する」
それ以上は言えなかった。夫が出ていったあと、真帆は二人分の皿を洗った。どちらの皿に卵が多かったか覚えていない。結婚したばかりのころは、夫の好きな焼き加減を覚えたことがうれしかった。いつからその知識が、自分ばかり覚えていることの帳簿になったのだろう。
夫には夫の帳簿があるはずだった。毎月の支払い、壊れた給湯器、義母の通院。自分の孤独を正当化するために、彼のしてきたことまで消したくはなかった。だからといって、今までの生活に何も問題がなかったとも言えない。その両方を同じ机に置くことを、真帆は長く避けていた。
昼休み、片桐からいつもの店に変更しようという連絡が来た。奥に仕切りのある静かな料理店だった。真帆はラウンジのままでお願いしたいと返した。周囲に人がいる場所で、自分の言葉を最後まで言いたかった。
『何か記念日だっけ』
返ってきた冗談を見て、指が止まった。二人には記念日と呼べる日がいくつもあり、カレンダーにはどれも書かれなかった。出会った日、初めて仕事以外の電話をした日、彼が真帆の名前を名字なしで呼んだ日。真帆は覚えている。覚えていることが、相手に選ばれた証拠になると思っていた。
『話したいことがあります』
短く送り、午後の会議に戻った。新商品の見積書に数字を入れる間も、返事を確かめたい気持ちは消えなかった。これを終わらせると決めても、好きだった体の癖まで今日中に終わるわけではないのだと知った。
金曜の十九時。ホテルのラウンジで、片桐は窓に背を向けて座っていた。二人とも既婚者だった取引先での出会いから、一年。仕事の話で始まった食事は、いつの間にか、誰にも言えない約束になっていた。
「今日は遅くなれる?」
片桐はメニューから目を上げずに言った。
「今日は、お茶だけ」
その声が自分でも驚くほど平らで、真帆は膝の上で手を握った。
夫との会話が途切れるたび、彼からの通知を待った。自分を見てくれる人がいる。それだけで、生活の中の孤独に名前をつけずに済んだ。
けれど片桐にも、真帆の知らない帰る場所がある。彼が電話を伏せるたび、真帆はその事実を見ないふりをした。
片桐は紅茶の種類を勧め、真帆の顔色を見た。彼のそういう細かな気づかいに、何度も救われた。担当していた企画が通らなかった夜、夫には仕事の話をする元気がないと言われた。片桐は資料を開き、真帆の考えた見出しを一つずつ読んだ。うれしかった事実まで、後悔の色に塗りつぶすのは違うと思った。
「この前の提案、通った?」
「一部だけ。春から試すことになった」
「よかった。君ならできると思ってた」
真帆は礼を言った。以前なら、その言葉だけで今夜会いに来た意味があった。今日は、その励ましを仕事の成功として受け取って、それ以上の約束に置き換えないようにした。
「来週なら、僕、少し時間が取れるんだけど」
「来週の約束はしない」
片桐の手がメニューの端で止まった。拒絶の言葉をもっと柔らかくできたかもしれない。けれど、柔らかくするたびに自分の意志が薄くなることを、真帆は知っていた。
「何かあった?」
「明日、夫と話すの」
片桐の指が止まった。
「僕たちのことを?」
「私たち夫婦のことを」
「別れるの?」
片桐は声を落とした。真帆は首を振りかけ、やめた。
「まだ決めてない。私だけで決めることと、二人で話すことが混ざってるから」
「僕は、急がなくていいと思う」
「あなたに待ってもらう話ではないの」
言い方がきつく聞こえたのか、彼は背もたれから身を起こした。真帆は膝の上の手をほどいた。
「責めに来たんじゃない。私も、会いたくて会ってた」
「それなら」
「会いたい気持ちがあることと、続けていいことは、同じじゃなかった」
片桐は目を伏せた。彼の左手には指輪があった。真帆はそれを見るとき、これまでその人の家庭を想像しないようにしてきた。今夜も知らない相手の性格や暮らしを勝手に描くことはしなかった。ただ、その向こうにも返事を待つ人がいる。それだけを見落とさずにいたかった。
二つの『私たち』の間には、広い川があった。今夜初めて、その幅を正確に測れた。
ウェイターが紅茶を運んできた。白いカップの取っ手に添えた手を、片桐が見た。
「指輪、どうしたの」
「置いてきた」
彼の目に一瞬だけ浮かんだ期待を、真帆は見逃さなかった。以前の自分なら、うれしかっただろう。
「あなたに選んでもらうためじゃないよ」
言ってしまうと、胸の奥に小さな空き地ができた。そこには、誰かの返事を待たない自分が立っていた。
「仕事はどうする?」
彼が尋ねた。
二人の会社の取引は続く。真帆は担当者を替えるために私情を詳しく話すつもりはなかったが、次の案件はチームの共有窓口を使うと決めていた。
「業務の連絡は会社のアドレスにして。個人の連絡先は、今日で終わりにしたい」
「そこまでしないと、だめかな」
「私には、必要」
相手を罰するために線を引くのではなかった。優しい近況報告が一通来れば、それを返す理由をいくらでも探してしまう。真帆は自分を、決心した途端に強くなれる人として扱いたくなかった。
「嫌いになったわけじゃないんだね」
片桐が言った。その問いに答えると、また同じ場所へ戻る気がした。それでも真帆はうなずいた。
「好きだった。でも、その気持ちを続けるために誰かを見ないでいるのは、もうできない」
紅茶はすっかりぬるくなっていた。カップを持ち上げると、指輪のない指が軽い。自由になったというほど明るい感覚ではない。逃げる場所を一つ、自分で閉じた重さもあった。
片桐は何度も口を開きかけた。真帆も、優しい言葉を渡したかった。好きだったことまで、嘘にしたくはない。
「会えてよかった」
それだけは、本当だった。
「でも、これ以上は会わない」
彼は静かにうなずいた。引き留められなかったことに傷つき、引き留められなかったことに安堵した。その両方を持ったまま、真帆は席を立った。
ラウンジを出ると、廊下の大きな鏡に二人分の椅子が映った。もう誰も座っていないのに、真帆は振り返らなかった。エレベーターの到着を待つあいだ、鞄の中の電話を取り出したくなった。たった今別れた人が何を考えているか、確かめたかった。
真帆は代わりに、家で話すことをメモに書いた。自分がしたこと。夫に隠してきたこと。夫との生活で苦しかったこと。それらを一つの因果関係に並べないよう、別々の行にした。孤独だったから仕方がなかった、と言ってしまえば、夫には何も選べなくなる。
明日、彼が怒るかもしれない。話をやめたいと言うかもしれない。真帆が用意した順番では進まないだろう。それでも、聞いてほしいことだけを渡して、相手の返事から逃げることはできなかった。
駅までの地下通路で、家族連れとすれ違った。誰も真帆の顔を見ていない。世界が何も変わらず動いていることに安堵し、少しだけ取り残された気持ちになった。自分の中で起きた終わりは、自分で持って帰るしかない。
改札の前で、携帯が震えた。夫からだった。
『明日はちゃんと聞く。何時がいい?』
許せるのか、別れるのか、まだ分からない。自分にも謝るべきことがある。話すことは、一晩では足りない。
『十時。朝ごはんのあとで』
真帆は返信した。
乗った電車は少し混んでいた。真帆は扉の脇に立ち、窓に映る自分を見た。朝と同じ服で、同じ鞄を持っている。何かを決めた人の顔に、特別な印がつくわけではない。
片桐の連絡先を開いた。最後に届いていたのは、ラウンジの席が窓際だという案内だった。短い文の上には、食事の写真や、雨を気づかう言葉や、返せなかった日の謝罪が積もっている。全部を今すぐ消すことはできなかった。真帆は通知を切り、やり取りを見えない場所へ移した。これで平気だとは思わない。明日の自分がまた読み返したくなることも、分かっていた。
電車が地上に出たとき、真帆は高校時代の友人へ連絡した。詳しいことはまだ話せないが、来週、少し会えないかと送る。友人は子どもの送迎があるので昼なら、と返してきた。真帆はその現実的な返事に救われた。秘密を聞いてくれる都合のいい相手を求めるのではなく、自分とは別の暮らしのある人に、時間を頼む。そんな当たり前のやり方を忘れていた。
『水曜、お昼を一緒に食べたい』
送ってから、真帆は窓の外を見た。駅名が一つずつ過ぎる。家まであと二駅だった。
裕一にすべてを話したあと、今の家に住み続けられるかは分からない。実家に戻ることも、別の部屋を借りることも、考える必要がある。真帆はその不安を、片桐との別れを取り消す理由にはしないと決めた。一人で選ぶとは、誰の助けも借りないという意味ではない。ただ、選んだ結果を誰かのせいにしないことだった。
いつも彼と会ったあとは、香りを落としてから帰った。今夜は駅前の花屋で足を止め、白いスイートピーを一本買った。
花屋は一本でも丁寧に紙を巻いてくれた。真帆はそれを鞄に入れず、手に持った。帰宅してから飾る瓶を洗うことを考えた。まず今夜、自分でできることが一つある。それだけで足を前に出せた。何かの終わりに花を買ってもいい。自分のために買う花に、誰の許可もいらなかった。