三十一歳の麻琴は、職場の共用傘立てに入れたビニール傘へ、赤いリボンを結んだ。
似た傘が多く、帰るころには自分のものがなくなっている。誰かが悪気なく取り違えるのだろう。残った傘を使えばいいのかもしれないが、持ち手に傷がある自分の傘を探して、麻琴は毎回、何本も持ち上げていた。
リボンは菓子の箱についていたものだった。机の引き出しを整理していて見つけ、そのまま鞄へ入れてきた。細い赤が白い持ち手に巻かれると、思ったより目立った。
「派手ですね」
後ろから声がして、麻琴は振り返った。三十五歳の同僚、三浦が濡れた傘を畳んでいた。別の部署にいる彼とは、仕事で書類を受け渡すことはあっても、雑談をした記憶はほとんどなかった。
「これなら、間違われないかと思って」
「なるほど」
彼は自分の傘を見て、少し考えた。翌週、その傘には青いリボンがついていた。
三浦は商品の出荷日程を調整する部署にいた。麻琴は問い合わせ窓口で、間に合わないものを間に合うと言わないよう、彼の部署へ確認することが多かった。
彼の返答はいつも短かった。無理なときは無理だと言い、確認するならいつ返事をするか書いてある。麻琴はその簡潔さを頼りにしていた一方で、怒らせたことはないだろうかと考えることもあった。
青いリボンを見つけた朝、麻琴は声をかけた。
「効果、ありました?」
「今のところ、一度もなくなってません」
「まだ今日からですよね」
三浦は少し笑った。麻琴が仕事中には見たことのない笑顔だった。
彼のリボンは、近くの文具店で買ったという。傘のためだけに買いに行ったのかと尋ねると、荷物を送る箱も必要だったと答えた。実家へ古い写真を返すための箱だった。
「写真って、急に送るんですか」
麻琴が聞くと、彼は母親が片づけを始めたと話した。預かっていたアルバムの一冊を、間違えて引っ越しの荷物に入れてしまったのだという。
傘立ての前で話すには少し長い話だった。後ろから人が来たので、二人は場所を譲り、そこで別れた。麻琴は席に着いてからも、三浦の実家にはどんな写真があるのだろうと考えた。
二人は雨の日だけ、傘立ての前で少し話した。
雨の強さ、駅前の水たまり、濡れた靴が乾かないこと。話題はいつも天気から始まり、ときどき少し先まで進んだ。
麻琴は昼休みに会社の近くを歩くのが好きだった。入社したころは毎日同じ店へ行っていたが、ある日、曲がる道を一本変えると、持ち帰りのスープを売る店を見つけた。それから知らない角を曲がるのが習慣になった。
三浦はその店を知らなかった。麻琴が説明すると、彼は次の雨の日に、かぼちゃのスープを買ったと教えてくれた。
「晴れた日じゃなくて?」
「雨なら、外に出る用事が一つあるほうがいいかなと」
その考え方が、麻琴には面白かった。彼女は雨が降ると弁当を買いに行くのも面倒で、会社の売店だけで済ませがちだった。
話をしている間にも、傘立てには人が来た。二人は通行を邪魔しない位置へ少しずつ動き、誰かが会釈すれば会釈を返した。隠しているつもりはなかったが、仕事中の自分とは別の顔を、周囲に見られるのは照れくさかった。
晴れた日には、声をかける理由がなくなった。
廊下ですれ違っても、麻琴は挨拶だけで通り過ぎた。三浦が急いでいるように見えたし、自分も話しかけて何を言うのか決めていなかった。
赤いリボンがなければ、最初の会話もなかったのだろう。そう思うと、天気予報の傘の印が少し楽しみになった。
六月の半ば、麻琴は出荷日についての確認で、三浦と意見が合わなかった。
得意先は翌週の催しに使いたいという。三浦の部署からは、その日程では確約できないと返ってきた。麻琴はもう少し調整できないかと尋ね、三浦は確約できないものを約束できるようには書けないと答えた。
正しい返事だと分かっていた。それでも、自分だけが相手のがっかりした声を聞かなければならないようで、麻琴は腹が立った。
得意先へ電話をしたあと、彼女は三浦宛てに短いメールを書いた。事情は承知しました。次回からは、代替案も併せてご連絡ください。送信してから、責めるような文面だったことに気づいた。
その夕方、雨が降った。
傘立ての前で青いリボンを見つけ、麻琴は帰る時間をずらそうとした。だが三浦が先に声をかけた。
「今日の件、別の商品なら用意できそうです。明日の朝、見積もりを出します」
「ありがとうございます」
それだけ答え、赤い傘を抜いた。三浦も自分の傘を手にしたが、すぐには開かなかった。
「代替案を先に出せなかったのは、こちらの確認不足でした」
麻琴は彼を見た。仕事の話をここでしたかったのだろうか。それとも、自分の返事が冷たかったからだろうか。
「私も、メール、きつかったです。すみません」
言うと、彼は責められたと思ったわけではないと答えた。ただ、確約できないという返事しか届いていないなら、何も考えていないように見えたかもしれないと言った。
麻琴は、自分も得意先と三浦の間で、伝えていない事情があったことに気づいた。催しの日程だけでなく、相手がどんな用途で使いたいか、もっと先に話せたはずだった。
二人は軒下で、明日の確認事項を一つずつ整理した。話が終わるころには、雨が少し弱くなっていた。
「仕事の話、傘がなくてもできますね」
麻琴が言うと、三浦は、それはそうですね、と真面目に答えた。一拍遅れて二人とも笑った。
翌日、代替の商品で注文が決まった。麻琴は結果をメールで知らせた。末尾に、昨日はありがとうございました、と書き、スープの話を加えるか迷って消した。
私用を混ぜたら仕事の返事がしにくくなるだろう。そう思ったのは本当だった。ただ、三浦に個人的な連絡をする勇気がないことも、同じくらい本当だった。
昼休み、麻琴は例の店でスープを買った。店員が、いつもの小さい容器でいいか尋ねた。覚えてもらっていたことがうれしくて、彼女ははいと答えた。
会社に戻ると、三浦が自動販売機の前にいた。目が合い、麻琴は袋を少し持ち上げた。
「今日はトマトでした」
彼は何のことかすぐに分かったようだった。いいですね、と言いかけたところで、同じ部署の人に呼ばれ、会釈して去っていった。
たったそれだけのやり取りを、麻琴は午後になっても覚えていた。傘立て以外で話せたことが、必要以上にうれしかった。
一方で、相手の反応を何度も思い返している自分には困った。何気ない会話に、次の約束まで探してしまう。三浦は雨の日の雑談を、同僚として楽しんでいるだけかもしれない。
以前、麻琴は親切にされるたびに、相手の気持ちを推測して疲れたことがあった。間違えていたら傷つくと思い、結局何も尋ねなかった。あとから友人に、聞いてみればよかったのにと言われても、終わったこととして笑った。
今回は、まだ終わっていない。そこが難しく、同時に少し心強かった。
梅雨が明けるころ、麻琴はリボンを外した。汚れて、端がほつれていた。強く結んだ部分をほどくと、持ち手には薄い赤が残った。
捨てるつもりで机に置いたリボンを、すぐにはごみ箱へ入れなかった。たかが菓子の飾りなのに、何かの役目を終えたように見えた。
その週は晴天が続いた。麻琴は折り畳み傘だけを鞄へ入れ、ビニール傘を会社に置いていた。使わない傘の持ち手を、朝夕確かめる必要もなくなった。
金曜の夕方、三浦が彼女の席まで来た。
「傘、替えたんですか」
麻琴は顔を上げた。仕事の用件だと思って、画面のメールを開きかけていた。
「リボンだけ。もう雨も少ないし」
「そうですね」
三浦はそう言い、何かを続けようとして口を閉じた。手にはいつもの青いリボンの傘があった。今日は雨が降らない予報なのに、持って帰るらしい。
彼が帰りかけたとき、麻琴は、今、何かが終わるのを待っている自分に気づいた。来週また雨が降れば話せる。そうやって天気のせいにし続けることもできた。
「晴れてても、帰りに話しかけていいですか」
声にすると、少し変な質問だった。三浦は振り向き、自分の傘を持ち上げた。
「僕も、これがないと、誘いにくくて」
麻琴は机の横にある鞄を取った。終わっていない仕事があるふりをしなくても、今日はもう帰れた。
「じゃあ、駅まで」
彼が言い、麻琴はうなずいた。
その夜、二人は傘を閉じたまま、駅まで歩いた。歩道は乾いていて、水たまりを避ける必要がなかった。そのぶん、二人の歩く位置を決めるものもなかった。
麻琴が少し遅れると、三浦は速度を落とした。彼女も急がず、仕事の鞄を持つ手を替えた。傘立ての前では聞けなかったことを、ひとつ聞いた。
「休みの日も、あのお店に行くんですか」
「スープの店? 土日はまだ。行ってみたいとは思ってます」
「私もです」
それで会話が止まった。麻琴は、その先を相手にだけ言わせるのはずるいと思った。
「来週なら、土曜は空いてます」
三浦は笑って、じゃあ一緒に、と言った。決まってみれば簡単な約束だった。だが、赤いリボンを結んだ朝からは、ずいぶん遠くまで来た気がした。
駅前の広場で連絡先を交換した。仕事用の宛先なら知っている二人が、私用の画面を見せ合うのは、不思議に照れくさかった。麻琴は三浦の名前を携帯電話へ入れ、間違いがないか彼に見せた。
「合ってます」
彼が答えた。その短い返事にも、仕事中とは違う声の温度があった。
帰宅して、麻琴は鞄から赤いリボンを取り出した。新しいものを買って傘へ結ぶつもりはなかった。目印がなくなっても、これからは話しかけられる。
土曜の予定をカレンダーへ入れると、三浦から、店は十一時に開くと連絡が来た。麻琴は少し早く待ち合わせようと返した。スープを買う前にも、歩きながら話したいことがあった。
約束の前日に晴れの予報を見ても、もう残念ではなかった。麻琴は翌日の靴を選び、傘立てのそばをそのまま通り過ぎた。何かを持っていく理由より、会いたい人の名前が先に浮かんだ。
次の雨まで、待たなくてよくなった。