三十四歳の杏子が夜行バスに乗ると、隣の席には三十七歳の恋人が座っていた。窓際を空けておいた彼の膝に、旅行会社から届いた旅程表が載っている。杏子は礼を言って通った。礼を言う声が、他人へのものみたいに硬かった。
集合場所には別々に来た。昨日までは二人で早めに駅へ行き、夕飯を食べてから乗る予定だった。杏子は売店のパンを鞄に入れたまま、彼が夕飯を済ませたか聞けずにいた。旅行をやめなかっただけで、仲直りをしたわけではない。
発車の案内が流れる。彼が荷物棚に手を伸ばしたが、杏子は自分で置いた。重たい鞄が一度つかえ、それでも助けを求めなかった。座るとき彼の肘に触れ、体を窓へ寄せた。
けんかの原因は、港町で過ごす二日間の予定だった。彼は朝市も展望台も古い灯台も、全部回れる順序を考えていた。杏子はそれを見て「楽しみ」と言った。実際は、繁忙期が明けたばかりで、知らない町の喫茶店に半日座っていたかった。
言えばよかった、と杏子も思う。けれど彼が何度も電車の時刻を調べ、宿へ電話するのを見ていると、違う希望を出すのがわがままに思えた。木曜日、仕事帰りに彼が「歩きやすい靴にしてね」と言ったとき、とうとう、旅行まで仕事みたいに管理されたくない、と言ってしまった。
彼は旅程表を畳んだ。「先に言ってくれたらよかったのに」。その正しさがいちばん痛くて、杏子は「言える感じじゃなかった」と答えた。彼は自分だけが悪者になったと言い、二人とも、自分がした親切の勘定を始めた。
車内が暗くなる。杏子は貸し出しの薄い毛布を膝にかけた。窓の外ではサービスエリアの看板だけが、暗闇の上を滑っていく。彼が読書灯を消した。目を閉じても眠れなかった。
一時間ほどして、彼が小さな声で寒くないかと聞いた。杏子は、大丈夫、と答える準備をしていた。人に頼らなければ責められない。今日はずっと、その狭い理屈の中にいた。
「寒い」
声に出すと、ただ寒い人になれた。彼は自分の毛布を渡した。杏子は受け取り、広げかけて、半分を彼の膝へ戻した。座席の肘掛けに薄い布の山ができる。
「それだと、そっちが短い」
「足は大丈夫。肩だけ」
彼はそれ以上言わなかった。謝罪の代わりに毛布を渡されたくはない。でも、けんかしている間の優しさまで拒まなくてもいい。そのことに気づくまで、杏子は三つのトンネルを数えた。
隣から小さく腹の鳴る音がした。杏子は鞄のパンを取り出した。包みが思ったより大きな音を立て、二人とも前の席を見た。杏子が一つ差し出すと、彼は口だけで、ありがとう、と言った。暗い車内でクリームパンを半分ずつ食べた。甘さが舌に残り、昨夜からずっと固まっていた顎が少しゆるんだ。
それでも話し合いはしなかった。周りは眠っている。静けさを借りて結論を急ぐのは違う、と杏子は思った。彼も何か言いかけて、水の蓋を閉めるだけにした。
明け方の休憩で、二人はバスを降りた。駐車場の照明の下で、彼の顔はひどく疲れて見えた。自分だけが傷ついて眠れなかったわけではなかった。売店で温かいお茶を二本買い、外のベンチに並んだ。座面は冷たく、湯気は出ないのに、ボトルを持つ指から少しずつ温まった。
「昨日の話、着いてから、もう一度してもいい?」
杏子が聞くと、彼はうなずいた。
「移動中は、うまく話せないと思う」
「私も。今言っておきたかっただけ」
バスへ戻るとき、彼は先に階段を上り、後ろを振り返った。手は出さなかった。杏子も、助けてもらうか試すようなことはしなかった。狭い通路を、それぞれの足で歩いた。
港町に着くと、市場へ向かう人がバス停の横を通り過ぎた。宿に荷物を預け、二人は近くの食堂へ入った。旅程表では市場で朝ご飯を食べるはずだった。彼はかばんから紙を出しかけ、杏子を見た。
「今日は、ここでいい?」
「うん。ここがいい」
出汁の匂いのする店で、焼き魚の定食を頼んだ。向かい合うと、夜中には見えなかった互いの目の下の影がよく見えた。杏子は、仕事が忙しかったことを話した。どれほど忙しかったかではなく、毎日何を後回しにしていたかを話した。夕飯も洗濯も、疲れたと伝えることも。
「旅行の相談をするときまで、楽しそうにしなきゃって思ってた」
彼は箸を置いた。
「それは、俺にそうしてほしかったってこと?」
杏子はすぐ答えず、味噌汁の椀に触れた。そうだと言えば楽だった。しかし彼が強いた笑顔と、自分が勝手に仕事の続きをしていた笑顔を、一つにしたくなかった。
「してほしいと思われてる、と決めてた。あなたにも、見て分かってほしかった」
彼は、自分は計画することで役に立とうとしていた、と話した。杏子が予約や支払いを手早く済ませるので、せめて楽しい部分を用意したかった。予定が埋まるほど、旅行を喜んでもらえると思っていた。
「でも、確認するのが怖かったんだと思う。何もいらないって言われたら、何のために調べたんだろうって」
二人とも自分の努力を、断られる可能性から守ろうとしていた。杏子はその言い方を口には出さなかった。分析の正しさを競えば、また同じところへ戻る。
食べ終わっても、話は終わらなかった。店が混み始めたので会計をし、海沿いへ出た。市場のにぎわいは道一本向こうにあった。岸壁の手すりに、乾いた塩が白く残っていた。
彼が旅程表を開いた。杏子はそれを破ったり、全部白紙にしたりするのは違う気がした。好きだと言った灯台は、今も見たかった。ただ、今日中でなくてもよかった。
「明日の午前中、灯台。今日は、宿で少し寝たい」
「夕方の船は?」
「起きて、元気だったら。予約が必要なら、今回はやめる」
彼は携帯で調べた。予約は不要だった。必要のない決断を、一つ先送りにできた。
宿のチェックインまで時間があり、二人は海の見える喫茶店へ入った。杏子は椅子に深く座り、彼は靴紐を結び直した。店の壁の時計が十一時を指していた。旅行が半日終わっていたのに、見た観光地は一つもなかった。
杏子がそう言うと、彼は笑いかけ、それから「俺は少し惜しい」と言った。
杏子は胸の内で反論を用意した。けれど、惜しいという感想は、自分を責める言葉とは限らない。彼は窓の外を見ながら続けた。
「調べたから、やっぱり行きたかった。でも、今から全部回りたいわけじゃない」
「私は今、ほっとしてる。あなたが惜しいって言ってくれたのも、ほっとした」
彼は意外そうにした。杏子も自分で意外だった。口に出なかった不満が後で大きくなる怖さを、二人はもう十分味わった。
ここで一つだけ約束を決め直した。疲れた日に、不満をためて笑わないこと。何でも即座に言う、といった立派すぎる約束はやめた。うまく説明できない日は「今日は返事を決められない」でよいことにした。
喫茶店を出る前、杏子は持ってきた小さな手帳を開いた。仕事の予定ばかりが書かれていて、休みの日には斜線しかなかった。彼がそれを見て、休む日も仕事みたいだと言った。からかう口調ではなかった。
「空白にしておくと、何か入れなきゃと思うの」
杏子が答えると、彼は自分の旅程表を見下ろした。余白を埋めないと不安になるのは、二人とも同じだった。埋めたいものの種類が違うだけで、何も予定しない時間への耐性はどちらにも少なかった。
杏子は今日の日付の横に、喫茶店、と書いた。彼は何を飲んだかも書いたらと言った。杏子はコーヒーの名前を尋ね、彼はメニューをもう一度開いた。予定表が記録帳になると、時間の使い方を採点されている感じが薄くなった。
宿へ向かう途中、小さな雑貨屋があった。杏子が窓の中を見たので、彼が立ち止まった。入ってみると、旅の記録を綴じる小さなノートが並んでいた。二人は一冊を手に取り、買うか迷って、買わなかった。家に余っている紙で十分だという結論になった。それでも、何かを一緒に選ぶ感覚が戻ってきたことはうれしかった。
店を出たあと、杏子は昨日の強い言い方を謝った。彼の計画を仕事みたいだと呼んだことも。彼は謝罪を遮らず、最後まで聞いた。
「俺も、先に言えって責めた。聞ける機会は何度もあったのに」
ここで抱き合えば、旅行のきれいな場面になるのかもしれない。杏子はそう思いながら、ただ彼の隣を歩いた。謝ったあとも少し気まずい。その気まずさがなくなるまで待てることのほうが、今は大事だった。
宿の玄関に小さな段差があった。彼が先に荷物を運び、杏子は自分の靴を揃えた。部屋に入ると、窓の外に港が見えた。写真で見た景色と少し違ったが、どちらもがっかりしたとは言わなかった。想像より広い空が、二人の持ってきた予定の上に静かに開いていた。
宿で昼寝をすると、目が覚めたのは夕方だった。彼は窓辺で本を読んでいた。杏子が眠そうな声で時間を尋ねると、彼は本に指を挟んだ。
「船、最終があと四十分。俺は行きたい。杏子は?」
「今日は、海辺を歩くくらいがいい」
言ってから緊張した。彼は少し考え、一人で船に乗ってもいいかと尋ねた。杏子はうなずいた。夕飯の時間と場所を決め、別々に部屋を出た。
防波堤を歩きながら、杏子は海上の小さな船を探した。彼がどこに座っているかは分からなかった。それでよかった。自分の静かな時間が、誰かの楽しみを奪ってできたものではないのがうれしかった。
夕飯で彼は船から見た赤い灯台の写真を見せた。杏子は岸で拾った丸い石を見せた。互いの知らない一時間が、食卓の上に置かれた。昨日のけんかを無駄だったとは思わなかったが、必要だったと美化する気もなかった。次は、こんなに傷つけ合う前に話したかった。
翌朝は一緒に灯台へ行った。坂を上りきる手前で杏子が休みたいと言い、彼は石垣に腰を下ろした。風が強く、二人の髪が同じ方向へなびいた。言わなければ分からなかったことが、言えば簡単にできる。杏子は息を整えてから、その小ささを覚えておこうと思った。
帰りのバスでは、別々の毛布を使った。彼の肘が触れても、杏子は避けなかった。隣にいるだけでは解決しないことがある。でも、解決の途中でも隣にいていい。窓に映った二人は少し眠そうで、行きよりずっと自然に寄り添っていた。杏子は二人の間の小さな温度を、仲直りの速さで測るのをやめた。