四十三歳の由衣は、別れた恋人へ手紙を書いた。なぜ傷ついたか、なぜ黙っていたか。便箋は七枚になった。
書き始めたのは夜の十時だった。台所を片づけ、翌日の服を出し、それでも眠る気になれずに机の引き出しを開けた。便箋は、旅先の小さな文具店で買ったものだった。青い罫線の端に、葉の絵が一枚だけ描かれている。
恋人と別れてから二か月たっていた。連絡先は消していない。返す物は互いに返し、金銭の貸し借りもなかった。終わったと他人に説明するには、十分に終わっている関係だった。
それなのに、流しでコップを洗っていると、あのときこう言えばよかったという言葉が浮かんだ。電車を降りる直前、言えなかった返事の続きが頭の中で始まることもあった。
彼に電話をするつもりはなかった。声を聞けば、相手がどんな調子で答えるかを先に考え、自分の話を短くしてしまいそうだった。
紙なら、途中で遮られない。由衣はペンの蓋を開け、彼の名前を書いた。
二人は六年付き合っていた。一緒には住んでいなかったが、由衣の部屋には彼のマグカップがあり、彼の家には由衣の古い傘があった。
別れを切り出したのは由衣だった。大きな喧嘩をしたわけではない。休日の過ごし方を話していたとき、彼がまた、由衣はどちらでもいいだろうと言った。
彼は旅行へ行きたがっていた。由衣はその週末、一人で展覧会を見に行くつもりだった。何年も待っていた作家の展示だったが、そのことを彼へ話していなかった。興味のない顔をされるのが嫌だった。
「どちらでもよくない」
由衣が答えると、彼は驚いた。ならそう言ってくれればいいのに、と言った。その返事は正しかった。けれど、正しいことだけで片づけたくないほど、由衣には積もっているものがあった。
以前、見たい映画を挙げたとき、彼は長すぎると言った。食べたい店を選ぶと、並ぶのは嫌だと言った。由衣も反対したことはある。それでも、自分の希望を説明する前から、相手が断る理由を探すようになったのはいつだったのだろう。
便箋の一枚目に、由衣はその展覧会のことを書いた。まだ会期中で、結局一人で見に行ったことも書いた。彼が嫌いだったからではない。彼が来ない日を、自分の予定として楽しめたことにほっとしたのだと、ようやく文章にできた。
二枚目には、楽しかったことを書いた。
初めて一緒に行った海は、風が強く、二人とも砂をかぶった。彼が借りた車の窓を閉め忘れていたからだった。由衣が怒り、彼が謝り、それから二人で座席を掃除した。帰りに入った食堂の魚が、おいしかった。
その日の写真は残っていた。別れた直後、削除しようとしたが、由衣は消さなかった。あのとき楽しかったことまで、間違いにする必要はないと思ったからだった。
ただ、楽しかった記憶を一つ思い出すたびに、戻るべきなのかと考えてしまうのには困った。
由衣は二枚目の終わりへ、戻るつもりはありません、と書いた。相手への宣言というより、自分が次のページを書くために必要な一文だった。
三枚目には、怒っていることを書いた。別れ話のとき彼が、もっと早く言えばよかったのにと繰り返したこと。由衣が以前にも話したと答えると、そんなに深刻だと思わなかったと返したこと。
そこで手が止まった。由衣自身も、深刻に受け取られないよう笑って話していた。そのほうが、彼を困らせずに済むと思っていた。
彼が気づかなかったことと、自分が隠したことを、同じ文へ押し込めたくなかった。彼女は段落を分け、それぞれ書いた。紙は思っていたより広かった。
四枚目に来たころ、日付が変わった。
由衣はお湯を沸かした。彼のために買った大きなマグカップはもうなく、自分が長く使っている小さなカップへお茶を入れた。熱いうちには飲めず、机の隅へ置いた。
彼がいない部屋は静かだった。寂しくないかと聞かれれば、寂しかった。テレビの感想をすぐに言う相手がいないことも、二人分の料理を作りかけることも、まだあった。
四枚目には、その寂しさを書いた。戻りたいわけではなくても、いなくなってほしくなかった部分はある。その矛盾を、相手の返事で消してもらいたいのだろうか。
五枚目には、自分が謝りたいことを書いた。分かってほしいと思いながら、彼が何を不安に感じていたかを、十分には聞かなかった。彼もまた仕事の変化に疲れていたのに、由衣は予定を決める彼の強さを、余裕だと思っていた。
だから別れなくてよかった、という結論にはならなかった。事情を知れば、傷ついたことがなくなるわけでもなかった。
由衣は書いたところを読み返した。相手を納得させる文章としては、ずいぶん散らかっていた。自分の気持ちとしてなら、その散らかり方が正確だった。
六枚目は短かった。
『本当は、何を言ってもらいたかったのか、自分でも分かりません』
そのあとに何度か言葉を書き、線を引いた。好きだと言ってほしかったのか。謝ってほしかったのか。六年間は無駄ではなかったと、彼の口から聞きたかったのか。
どの返事をもらっても、また会うつもりはなかった。ならば、この手紙を受け取った彼は、何をすればよいのだろう。
由衣は七枚目に、最後に会った日のことを書いた。駅前で傘を返した。彼は、使っていてもいいのにと言った。由衣は、もう一本あるからと答えた。本当はその一本がなくても、返しただろう。
別れ際、彼が何かを言いかけた。由衣は聞こえないふりをして改札へ入った。聞いてしまえば帰れなくなると思った。電車では座らず、扉のそばで窓に映る自分を見ていた。
そこまで書くと、もう先へ進めなかった。七枚目には半分ほど余白があったが、無理に結びの言葉を置かなかった。
読み返すと、相手に分かってほしいことと、自分が知りたいことが混ざっていた。由衣は封をせず、机の上へ置いた。
翌朝は仕事へ行った。由衣は出版社で図版の使用許可を確認する仕事をしていた。決められた形式の文章を送り、返事が来たら日付を記録する。仕事の手紙には、何を尋ね、どんな返事が必要かがはっきりしていた。
昼休み、彼女は昨夜の便箋を思い出した。あれは返事を頼むための文章なのか、ただ読んでもらうための文章なのか。その区別をつけようとすると、また相手の負担ばかり考えてしまう。
夕方、同僚が確認の返事を待っている間に、別の作業を進めようと言った。由衣はうなずき、自分の仕事へ戻った。何かが終わるまで次を始めてはいけないわけではない。その当たり前の順序が、私生活では分からなくなっていた。
帰宅しても、手紙は封筒へ入れなかった。机を使うときだけ重ね、終わればまた広げた。書いた直後の文章を、そのまま誰かへ渡さずにおけることが、少し心強かった。
一週間後、一枚目を読み返した。書いたときほど怒っていなかった。展覧会の図録をもう一度開きたいと思った。七枚目は、まだ同じように悲しかった。
気持ちは全部まとめて薄くなるのではない。由衣はそれぞれのページを、違う速さで読み終えた。
休日、友人の早苗に会った。手紙を出すか迷っていると話すと、早苗は中身を見せてとは言わなかった。
「出したら、どうなってほしい?」
由衣はすぐに答えられなかった。彼が分かってくれたらと思う。でも、分かったと返してきても、それを信じられるか分からない。
「自分の言葉が、向こうに届いてない気がするの」
「今までの分も?」
由衣はうなずいた。早苗はしばらく黙っていた。店の人が空いた急須を下げ、湯を替えて戻ってきた。
「出さない選択も、返事なんじゃない」
早苗はそう言って、由衣のためにお茶を替えた。
何も伝えないまま終わるのが、自分の逃げのように感じていた。けれど由衣は、別れたいとは伝えた。その言葉だけで、十分に自分の希望を表していたのかもしれない。
手紙を出さなければ、彼に全てを理解してもらう機会はなくなる。その代わり、自分が返事を待つ時間も新しく始めずに済む。由衣は、今は後者を選びたいと思った。
帰宅して、七枚の順番をそろえた。捨てるつもりはなかった。昨夜までの自分が書いた言葉を、出さないと決めたから不要だとは思えなかった。
由衣は最後の余白へ日付を書き、封筒に入れた。封はしなかった。宛名も書かず、箱へしまった。箱には展覧会の半券や、旅行先で買った小さな地図が入っていた。
机の上が空くと、思っていたより明るく見えた。由衣は窓を開け、冷えたカップを洗った。彼のことを考えない一日がすぐ来るとは思わなかったが、机の広さは自分のために使えた。
翌月、以前から誘われていた読書会へ行った。初めての場所で人の名前を覚えるのは疲れた。上手く話そうとして、帰り道に何度も自分の発言を思い返した。
それでも次の会にも参加した。感想が違っても、誰かが別の本を紹介してくれる。理解されることだけを目的にしなくても、人と過ごす時間は続けられた。
そこで、四十六歳の直人と知り合った。彼とは好きな本の種類が違った。由衣が長い小説を読む間に、彼は短い随筆を何冊も読む。話していると、自分が読んでいない頁のことを聞くのが楽しかった。
連絡先を交換しても、由衣はすぐに恋人を作るつもりではなかった。直人も急いで予定を決めようとはしなかった。会う理由が本の話だけではなくなってきたことには、二人とも少しずつ気づいていた。
半年後、引き出しの整理で箱を見つけた。由衣は封筒を開け、七枚を机へ並べた。
最後まで読むと、あの日の自分に、よく書いたねと思えた。今なら違う言い方をする部分もあった。けれど、直す気にはならなかった。当時の言葉として残っていることに、意味があった。
七枚目では、やはり少し悲しかった。悲しくなくなってからでなければ、新しい人に会ってはいけないわけではない。由衣はその頁をゆっくり重ねた。
直人から、週末の予定を聞かれていた。読書会のない週に、二人で街を歩かないかという誘いだった。返事を急ぐ必要はなかったが、会いたいと思った。
以前なら相手の都合に合わせて何時でもと言ったかもしれない。その日は午前に見たい展示があった。由衣はそれを自分の予定として残し、午後ならと返信した。
『土曜の午後、二時くらいはいかがですか。駅の西口で』
二行の返事を書いたあと、彼女は画面を閉じた。返事が来るまで、箱の残りを片づけるつもりだった。新しい時間を始めるために、古い手紙を捨てる必要はなかった。
窓から入る光が、便箋の葉の絵を透かした。由衣は七枚を封筒へ戻し、今度は箱の隅へしまった。手の届く場所にあっても、毎日開かなくていい。
便箋七枚で見送った恋のあとに、二行で始められる時間もあった。どちらも自分が選んだ言葉だった。由衣は机を拭き、土曜に持っていく鞄を椅子へ掛けた。