五十三歳の景子は、地域の小さな演奏会で、学生時代の恋人を見つけた。
五十五歳の彼の名前は、受付でもらった薄いプログラムの三番目にあった。同じ名字の人だろうと思い、もう一度見た。名前の読みも、覚えているものと同じだった。
景子がこの演奏会へ来たのは、職場の同僚に一枚余った券を譲られたからだった。会場は駅前の文化センターで、二百人も入らない。舞台には一台のピアノと、鉢植えの花が置かれていた。
開演前、景子は携帯電話を鞄へしまった。昔の相手が出ると知っていたら、服をもう少し考えたかもしれない。そう思った自分に驚き、膝の上のプログラムを広げ直した。
学生時代、彼はよくピアノを弾いていた。音楽を専門に学んでいたわけではないが、学内の練習室を借り、友人の発表に伴奏をつけた。景子は授業が終わると、その部屋の前へ寄った。
速い右手を見ているのが好きだった。指が動くたび、自分の知らないものを簡単に作り出しているように見えた。景子が褒めると、彼は同じところばかり聴いているねと言って笑った。
卒業後は勤め先が離れ、会う回数が減った。長く電話をする時代ではなく、手紙も途中から続かなくなった。最後に会った日は、駅前で昼食を取った。どちらから別れを言ったか、景子ははっきり覚えていない。続けるための具体的な約束を、どちらも出さなかったことだけ覚えていた。
彼女はその後結婚し、仕事も何度か変わった。昔の恋人を思い出すのは、たまたま似た曲を耳にしたときくらいだった。思い出の中で彼の手は、ずっと若いままだった。
舞台へ出てきた彼は、左側の椅子へ座った。右側には、景子より少し年上に見える女性が座った。二人は小さくうなずき合い、演奏を始めた。
彼はピアノの左手を担当していた。右手は別の演奏者だった。片手ずつの連弾を、景子は初めて目の前で聴いた。低い音が舞台の床を通ってくるように、椅子へゆっくり届いた。
彼の右手は膝の上に置かれていた。景子は一度そこを見て、そのあとで顔を上げた。演奏の途中で何があったのか考え続けるのは、今聴こえている音を聞き逃すことのように思えた。
曲の終わり、二人は同時に鍵盤から手を離した。彼は隣の演奏者を見て笑い、彼女も少し大きく息を吐いた。拍手が起き、景子も手を叩いた。プログラムの端が膝から床へ落ちたが、すぐには拾わなかった。
次の演奏者が出るまでの短い時間、低い音が頭に残っていた。学生のころ、右手の動きばかり見ていた自分は、何を聴いていたのだろうと考えた。
終演後、景子は受付の近くで迷った。声をかけずに帰ることもできる。彼の生活を知らずに、いきなり昔の名前で呼ぶのは気が引けた。
彼のほうが先に気づいた。廊下で知人と話していた顔が止まり、それから確かめるように景子を見た。
「久しぶり」
声は記憶より低かった。景子は自分の名前を言いかけて、彼が分かっていることに気づき、笑った。
連弾の相手も紹介された。地域の音楽教室で知り合い、半年ほど一緒に練習しているという。彼女は二人が昔の知り合いだと聞くと、今日は少し休めるでしょうと彼に言い、先に会場の片づけへ戻った。
景子は演奏がよかったと伝えた。彼は礼を言い、今の連弾が楽しいと話した。病気のあと、右の指が動きにくくなったという。自分一人で昔と同じ曲を弾こうとしていた時期は、あまり面白くなかったと付け加えた。
景子は、昔のように弾けないのは残念だと言いかけた。彼が先に、合わせる相手がいると別の音になる、と楽しそうに話したので、その言葉を飲み込んだ。
目の前の人が今していることへ、自分の記憶から勝手に点数をつけるところだった。
二人で近くの店へ入った。喫茶店の奥には古いピアノが置かれていたが、蓋は閉じていた。彼は窓側へ座り、景子は向かいの椅子へ鞄を置いた。
何から話せばいいか迷い、二人はまず共通の友人の近況を確かめた。知っている名前の半分は、どちらも今どうしているか知らなかった。
彼は以前の仕事を続けているが、通い方や担当を変えたという。音楽教室へ通う時間は、その変更でできたものだった。昔は一人で弾くことが好きだったのに、今は相手の予定と合わせて練習するのが面白いらしい。
景子は自分の仕事を話した。書店の事務をしながら、週末には店頭にも出る。売れ筋より、探しものを持った客と話すのが好きだと伝えると、彼は景子らしいと言った。
「そうかな。昔は、あまり人に話しかけなかったよ」
「そうだった?」
二人は笑った。昔から知っているということは、今を全部知っていることではない。彼が覚えている自分と、自分が覚えている自分も違っていた。
コーヒーが来てから、景子は今、夫と別居していると話した。隠すつもりはなかったが、会ったばかりの昔の恋人にその話をする意味を、少しだけ考えた。
彼は理由を急いで聞かなかった。景子が、暮らし方を一度分けて考えたかったと言うと、そのままうなずいた。
一緒に住んでいた家では、長く話しても同じところへ戻ることが増えた。離れてみると楽になった部分と、かえって分からなくなった部分があった。景子は今も、先を決め切れていなかった。
「前と違っても、続くものってあるんだね」
彼の演奏を思い出し、景子は言った。彼は少し考えた。
「続けないものもあるよ。そのほうがいいことも」
その言葉は、予想していた励ましとは違った。景子はカップを置いた。
彼は音楽のことだと断ってから、昔弾いていた曲の楽譜を、今は一度しまっていると話した。取り出すかどうかは、あとで決めてもいい。今日演奏した曲を選ぶために、昔の曲全部を守る必要はなかったという。
景子はうなずいた。自分の暮らしを、誰かの回復の物語と重ねなくてよかった。彼が続けたことを、自分も何かを続ける理由に借りようとしていたのかもしれない。
「私のこと、決めてほしくて話したわけじゃないの」
景子が言うと、彼は分かっていると答えた。
「でも、今の話は聞きたかった」
景子は、ようやく笑えた。結論を持たない近況を、そのまま置いておける相手がいることはありがたかった。
店を出る前、彼は次の演奏会の案内を見せた。今度は音楽教室の発表会で、出演者も曲の長さも今日とは違うという。
景子は行きますと答えた。恋か、懐かしさかは、まだ分からなかった。彼も返事の意味を確かめようとはせず、会場の最寄り駅を教えた。
連絡先を交換した。画面に彼の名前が入ると、三十年以上前に手紙の封筒へ書いた字を思い出した。今はすぐ連絡できる。それでも、伝えたいことを選ぶ時間は省けないのだろう。
駅までの道で、二人は学生時代の練習室の話をした。窓が固くて開かなかったことを、彼は覚えていなかった。景子は、終わるまで廊下で待っていたと話した。
「入ってくればよかったのに」
彼が言った。
「邪魔したくなかった」
「知らなかったな」
景子は笑った。あのころの黙っていたことを今明かしても、過去をやり直すわけではない。ただ、昔の自分も、そんなふうに誰かを待っていたと思い出せた。
改札では別々の方向へ向かった。彼は手を上げ、景子も少し遅れて手を振った。
帰宅すると、今の小さな部屋は静かだった。景子は演奏会のプログラムを食卓へ置いた。夫から、家に残した本棚について短い連絡が来ていた。
以前なら、どうするのが正しいか考えながら返事を遅らせただろう。今日は自分が使いたい二段だけ引き取れるかと聞いた。家具を分けることが、そのまま二人の結論になるわけではない。決められることから決めればよかった。
夜、彼へ今日のお礼を送った。演奏のどこが好きだったか、できるだけ具体的に書いた。低い音が隣の旋律を支えるだけではなく、先に道を作るように聞こえたと伝えた。
返事は翌朝だった。連弾の相手にも伝える、とあった。景子はその一文がうれしかった。彼だけの演奏として感想を受け取らず、一緒に弾いた人へも渡す。それが今、彼が楽しいと話した音楽なのだろう。
発表会までの間、二人は一度、昼食を取った。彼の練習が長引き、約束の時刻が少し遅れた。景子は駅の本屋で待ち、彼が着いたとき、見つけた新刊を見せた。
彼は練習で同じところを何度も止めたと話した。隣の演奏者が入る合図を待ちすぎて、かえって合わせられなくなったという。話しながら指で机を叩き、今度は思い出すだけで間違えたと笑った。
景子は、前回の舞台で二人が同時に顔を上げた瞬間を覚えていると伝えた。彼はその場面に来るまでにも、何度も合わない日があったと答えた。楽しそうに見えた時間にも、繰り返した退屈や不満がある。景子は、今の彼を完成した答えのように見ないでいたいと思った。
昼食のあと、彼は夕方まで時間があると言った。景子には家の本を取りに行く予定があった。少し迷ったが、そのまま伝えた。
「また今度、続きを話そう」
彼は答えた。待っていてもらう約束はしなかった。彼女が今の生活で決めることと、二人が久しぶりに会ってうれしかったことを、急いで一つの予定へまとめなくてもよかった。
その日の夕方、景子は元の家から本を運んだ。夫と玄関で顔を合わせ、置いていくものを短く確認した。帰りの道で彼へ連絡しようかと思い、今夜はやめた。自分で終えた用事の重さを、少しだけ一人で持ちたかった。
新しい部屋の棚へ本を並べると、一段だけ空いた。何を置くかはまだ決めず、演奏会の案内をその端に立てた。次に会う理由を置けることと、空いた場所を全部埋めることは、同じではなかった。
次の発表会の日、景子は少し早く会場へ着いた。前回とは違う曲が並び、彼が出るのは後半だった。席を選び、鞄を膝の下へ置いた。
昔、彼の速い右手ばかり見ていたころには、気づかなかった豊かさがあった。鍵盤の低いほうへ耳を澄ませながら、景子は今夜の音を聴こうと思った。知っている曲と同じでなくても、今ここで始まる音だった。
舞台の灯りがつき、景子は静かに顔を上げた。