三十七歳の千里は、旅先で恋人と食べものを分けるのが苦手だった。
自分の分は、自分で選びたい。三十九歳の修は、二種類食べられるほうが得だと言った。付き合い始めたころは、その違いをよく笑った。千里が頼んだものを修が一口味見し、修の皿から彼女も少しもらう。付き合っている感じがするねと、彼が言ったこともあった。
千里はそのとき、自分もそうだとは言わなかった。だが、違うとも言わなかった。一口くらいで、せっかくの食事を面倒にしたくなかった。
二人で初めて二泊の旅行を決めたとき、千里は景色より、三日間の食事のことを少し心配した。修のほうは、道中で食べたいものを地図に書き込み、楽しそうに送ってきた。
行き先は海に近い小さな城下町だった。初日は列車で移動し、午後に古い町並みを歩く。二日目はローカル線で隣の市へ行き、最終日はゆっくり帰る。宿と列車を決めたあとは、無理に予定を詰めなかった。
千里は一人の旅行なら、昼を簡単に済ませ、歩いていて見つけた店でお茶をする。修は名物を食べそびれるのが嫌で、早めに店を決める。どちらの旅も悪くない。二人で行くなら少しずつ合わせればいいと思っていた。
初日の昼、駅前で修が二つの店を候補に出した。一方は魚、もう一方は肉の料理だった。千里が魚を選ぶと、修はその店へ入ることにした。
「じゃあ、違う定食にしよう」
彼は言った。千里は窓の外に出ていた、煮魚の定食を食べたかった。修は焼き魚も気になっているらしい。
彼女が同じ煮魚にすると言うと、彼は二種類頼めば両方食べられると笑った。その言い方に悪気はなく、千里もその場ではうなずいた。
料理が来ると、修は先に自分の魚を半分に分けた。千里も煮魚を崩し、取り皿へ移した。形がきれいなまま自分のペースで食べたい、という小さな願いを言うには、すでに遅い気がした。
午後は町を歩いた。古い店の軒先に、丸い焼き菓子が並んでいた。千里は一つ買おうとしたが、修はほかにも食べるから半分ずつにしようと言った。
二人で一つを買い、石のベンチに座った。修が割って渡してくれた半分は少し小さかった。偶然だと分かっていた。けれど千里は、自分がこの小ささを気にしていることに、さらに嫌な気持ちになった。
彼はおいしいと言い、次の店の案内を見ていた。千里は食べ終えても、もう一つ欲しいと言えなかった。一緒に食べると決めたあとで、自分だけ追加すれば、足りなかったと責めるように見えるかもしれない。
その夜、宿では並んだ料理をそれぞれの膳から食べた。千里はゆっくり箸を動かし、好きなものを最後に残した。修は、まだ食べないのと尋ねた。
「最後に食べるのが好きなの」
そう答えると、彼はうなずいた。それだけだった。自分の食べ方を説明することは、案外難しくないのかもしれなかった。
寝る前、修は明日の列車で駅弁を食べようと言った。千里はいいねと答えた。明日はちゃんと自分で選ぼうと思いながら、宿の窓に映る自分の顔を見た。
小さな違いが、旅行の二日目には、少し大きくなっていた。
朝、千里は静かに茶を飲みたかった。修は昨夜調べた店の写真を見せ、どこへ行くか考えていた。千里は返事をしていたつもりだったが、彼に、興味ないかなと聞かれた。
「今は、朝ご飯を食べたいだけ」
言い方が冷たくなった。修は携帯をしまい、黙った。千里は謝るべきか迷い、何に謝るのか分からないまま味噌汁を飲んだ。
駅までの道でも、会話は少なかった。修は歩幅を合わせていた。彼が気を遣っていることは分かったが、それを見てまた自分の希望を引っ込めたくはなかった。
売店には駅弁が何種類も並んでいた。千里は煮物とご飯の入った、同じ大きさの仕切りがある弁当を選んだ。修もそれを手に取ったあと、隣の包みを見た。
「違うのを買おう。半分ずつ食べればいいし」
千里は弁当を持つ手に力を入れた。
「私は、同じのでいい」
「でも、それだと一種類しか食べられないよ」
修は不思議そうだった。千里は、ここで黙ればまた昼食の間じゅう不機嫌になると思った。
「一人で全部、食べたい日もある」
口にすると、思っていたより声が大きくなった。売店の人が包装紙を揃えている音がした。修は弁当を持ち直し、取るつもりじゃなかったと言った。
二人は同じ駅弁を二つ買った。ホームの端のベンチで、列車を待った。千里は紙袋を膝に置き、何を話すか考えた。
「分けるの、嫌だった?」
修が聞いた。
「いつもじゃない。でも、いつも分けることになるのは、嫌だった」
千里は言った。修は、言ってくれればよかったと答えかけ、口を閉じた。
「言いにくかった?」
今度はそう尋ねた。
千里はうなずいた。一口を惜しんでいる人に見えたくなかった。相手がくれると言っているのに、自分は渡したくないと言うのも冷たい気がした。だが、欲しい量や食べる順序を毎回変えることも、自分には小さな我慢だった。
修は、家では昔から何でも分けて食べたと話した。親と外食すると、少しずつ違う皿を頼む。それが楽しい食事の普通の形だったという。
「一緒にいるなら、そうするのがいいと思ってた」
千里は、自分の家では逆だったと答えた。好き嫌いも食べる量も違ったので、注文はそれぞれだった。分けたいときだけ勧める。それで寂しいと思ったことはなかった。
普通の違いは、言わなければ相手に見えない。千里は紙袋の端を折り、修の顔を見た。彼が同じ弁当を選んだことまで、後悔しなくていいと思った。
「それ、もともと気になってたんでしょう」
彼はうなずき、少し笑った。
列車では、向かい合わせではなく、窓際に並んで座った。千里は包装紙を丁寧に開き、箸を割った。修も同じものを開けた。中身は同じでも、二人は違うところから食べ始めた。
千里は好きな煮物を最後に残し、修は最初に食べた。彼が次に何を食べるか、初めてゆっくり見る気がした。いつもは自分の皿から分ける量を考えていて、隣の人の食べ方まで見ていなかった。
「そこの卵、甘いね」
修が言った。千里はまだ食べていなかったので、あとで確かめると答えた。彼の感想を聞いても、すぐ同じ味を口に入れる必要はない。
千里は煮物を食べ終え、ご飯を最後に少し残した。修は先に食べ終え、外を見ていた。二人が同時に箸を置かなくても、昼休みは同じ列車の中で続いていた。
食後、修が空き箱をまとめて持つと言った。千里は渡した。分けて食べないからといって、何も一緒にできないわけではない。窓の外の白い橋を指すと、修も顔を寄せて見た。
その日の午後、二人は別々に見たい場所へ行った。千里は小さな染物の店を見たく、修は港の展示館へ入りたかった。一時間後に喫茶店で会うことにした。
別行動は喧嘩の続きではなかった。修が時計を見て、一時間で足りるかと聞いてくれたから、千里ももう少し欲しいと答えられた。二人は集合を三十分遅らせた。
染物の店で千里は手ぬぐいを一枚買った。修の好みかは分からず、自分のものだけ選んだ。彼へのお土産を買わなければ、離れて過ごした埋め合わせができないとは思わなかった。
待ち合わせの喫茶店へ着くと、修は先にいた。展示館の話をしたくて待っている顔だった。千里も手ぬぐいを広げ、店の人に聞いた染め方の話をした。
修は自分の見た船の模型について説明した。千里には名前が分からないところもあったが、彼が何を面白がったかは分かった。一緒に見なかったものを話す時間も、旅行の中に置けた。
二人はそれぞれ飲み物を頼んだ。修はケーキも選び、千里へ欲しいか尋ねた。彼女は今日は要らないと答えた。彼は了解と笑い、最後まで一人で食べた。千里はその様子を見て、少し肩の力が抜けた。
旅は別れ話にはならなかった。二人が別の人間であることを、いくつか確認する時間になった。
二日目の晩、宿へ戻ってから、千里は昼の売店で強い声を出したことを謝った。修は、気づかずに決めていたのは自分だと答えた。
「でも、嫌なとき、あのくらい言わないと伝わらなかったのかな」
千里が尋ねると、彼は少し考えた。いつも嫌なのではないなら、毎回聞いてみればいいのだろうと言った。千里も、我慢を溜めてから一度に話すより、そのときの分だけ伝えてみると答えた。
互いの性格を今夜変えようという話にはならなかった。修はたぶん、次の旅でも名物の写真を集めるだろう。千里も、自分の選んだものを最後まで食べたい日がある。その違いをなくす代わりに、選ぶ前に少し話す。
窓の外で終電の音がした。二人は明日の時刻を確かめ、荷物を半分だけまとめた。千里が買った手ぬぐいを見て、修はいい色だと言った。貸してとも、自分も欲しいとも言わない感想が、彼女にはうれしかった。
最終日の朝、修は昼食をどうするか尋ねた。千里は、列車へ乗る前に店を見て決めたいと答えた。彼は、混んでいたら売店でもいいかと聞いた。二人はそのくらいの幅を決め、先の味までは予約しなかった。
帰りの列車で、千里は自分のデザートを一口、修に勧めた。旅行の前に写真で見ていた小さな焼き菓子だった。彼は、いいのかと聞いてから受け取った。
千里はその一口を惜しいとは思わなかった。自分で選び、自分で食べ始めたものを、今、隣の人にも食べてほしかった。残りが少なくなることより、彼の顔を見るのが楽しみだった。
修は思ったより酸っぱいと言った。千里もそこが好きと答えた。同じものを食べても、同じ感想にする必要はない。それでも、好きなところが重なることはうれしかった。
分けないことを許されたあとでなら、分けたいと思う瞬間もあった。それを得した量だけで数えない人と、もう一度旅行したかった。
帰宅して荷物をほどくと、駅弁の包みを一枚残していたことに気づいた。千里は折り目を伸ばし、旅の切符と一緒に手帳へ挟んだ。二つ同じものを買った昼食が、いちばん話した昼食になったことを、しばらく覚えていたかった。
手帳を閉じると、隣の椅子から修が次の町の話を始めた。千里は地図を覗き込んだ。