三十歳の直は、住んでいる建物の屋上で、隣室の伊藤と顔を合わせた。どちらも女性で、一人暮らしだった。
直が引っ越してきたのは四月の終わりだった。転職で通勤の沿線が変わり、初めて住む町へ来た。部屋の窓からは隣の建物の壁が見える。内見のとき、屋上に洗濯物を干せると聞いて決めた。
休みの日に洗濯機を二度回すと、持ってきた洗濯ばさみでは足りなかった。タオルの端を結んで留めようとしていると、先にシーツを干していた三十三歳の伊藤が、小さな籠を差し出した。
「これ、使ってください」
「返すの、どちらのお部屋へ?」
直が聞くと、伊藤は直の隣の番号を言った。二人は少し驚いて笑った。壁一枚を隔てて暮らしていても、空の見えるところまで上がらなければ、互いの顔を知らないままだった。
洗濯ばさみを返したのは、その日の夕方だった。直は数を確かめ、隣の扉をノックした。伊藤は髪をひとつに結び直しながら出てきた。
直が礼を言うと、彼女はどういたしましてと答えた。それだけで閉まる扉の向こうに、少しだけ本棚が見えた。漫画と仕事の本が混ざり、床に小さなクッションがあった。自分と同じ間取りでも、違う部屋だった。
次に会ったのも屋上だった。直のタオルが風で飛び、給水タンクの柵に引っかかっていた。伊藤が物干し竿をずらして取ってくれた。
直は、また助けてもらったと言った。伊藤は、風が強い日はここに留めるといいと、屋上の低い場所を教えた。言われてみれば、彼女の洗濯物はいつも同じ場所に並んでいた。
二人は洗剤の話をした。近くの店で同じものが買えなくなったこと、よく乾く日は柔軟剤の匂いが強くなること。屋上では風が会話を少し途切れさせ、そのたびに二人とも顔を近づけて聞き返した。
直はその時間を、休みの日の楽しみにするようになった。
伊藤は図面を扱う仕事をしていた。家で作業をする日もあり、平日に屋上へ来ることもあるという。直は雑貨を扱う会社で、受発注の仕事をしていた。休みは決まっていたが、出勤する時刻が少し早かった。
すれ違う生活なのに、屋上では時々会えた。今日は来るだろうかと考えながら、直は洗濯を始めた。会いたいから待っているのだと気づくと、洗濯が言い訳になっていることを少し恥ずかしく思った。
伊藤はよく笑うが、話しかけるのは直からのことが多かった。質問には丁寧に答え、直が聞き返すと、自分の話も少しずつ増えた。屋上で話すのが嫌ではないのだろう。それ以上のことは、分からなかった。
直は以前、女性と付き合っていた。引っ越しの前に別れた相手とは、思っていることを相手が察してくれるまで待ってしまった。自分の望みを言ったら、相手の気持ちが小さいことまで分かってしまいそうだった。
今度は違うふうにしたいと思っていた。それなのに、伊藤と会うたび、何か貸してもらう理由がないか探していた。借りたものなら返しに行ける。用事があれば、扉をノックしても迷惑ではない気がした。
梅雨が近づいた日、二人は乾きかけた洗濯物を一緒に取り込んだ。風が湿り、遠くに雨の幕が見えた。直は籠を抱えたまま、伊藤へ声をかけた。
「いつもお世話になってるので、お礼に夕飯でもどうですか」
言ったあとで、自分の声が少し高かったと分かった。
伊藤は、今週は忙しいと言った。直は笑って引き下がった。彼女は何か続けようとしていたが、雨が一粒落ち、直は慌てて階段へ向かった。
部屋へ戻ると、タオルの端が濡れていた。直は室内の物干しへ掛け直した。断られたことより、何でもなかった顔で帰ってきた自分に疲れた。
忙しいだけかもしれない。そう考えたあとで、社交辞令を言わせたのだと思った。自分が隣人であることを理由に誘ったから、はっきり断りにくかったのかもしれない。
次の週から、屋上へ行く時間をずらした。伊藤の洗濯物がない時間を選び、手早く干して戻った。窓の外に晴れ間が見えても、空を見上げるのが少し億劫だった。
夜、隣の扉が開く音がすると、直は自分の部屋で足音を立てないようにした。気まずいのは自分だけかもしれないのに、建物全体が狭くなったように感じた。
一週間後、郵便受けにメモが入っていた。
『あの日は仕事でした。来週なら』
小さく名字と連絡先が書いてあった。直は廊下で二度読み、そのあとで部屋に入った。断られたときに自分が言ったことも、ようやく思い出した。いつが空いているか聞かず、分かりましたとだけ答えたのだ。
都合を断られたことを、自分を断られたことにしていた。
直は携帯へ番号を入れ、メッセージを書いた。まず謝ろうとして、消した。誘ったこと自体を謝れば、せっかく返ってきた誘いまで取り消すようだった。
『ありがとうございます。火曜か木曜なら、仕事のあとに行けます』
送ると、伊藤から木曜がいいと返ってきた。店は建物から少し離れた食堂にした。同じ町に住んでいるだけで、二人で出かけたことはまだなかった。
当日、直は待ち合わせの前に一度帰宅し、着替えた。洗濯物を干すためではない服で会うのが、少し落ち着かなかった。伊藤も、いつもと違う小さな鞄を持っていた。
「道、迷いませんでした?」
直が聞くと、彼女は笑った。
「同じところから来たから」
二人は並んで歩き始めた。屋上より近い距離だった。
初めての夕飯で、伊藤は直が辛いものを苦手だと知った。直は、伊藤が人見知りであることを知った。
店のメニューを見ながら、伊藤は初対面の人と話すと何を聞けばいいか分からなくなると言った。仕事では必要なことを聞けるが、雑談になると、相手に踏み込みすぎないか考えるらしい。
「屋上では、ずいぶん話せてましたね」
直が言うと、伊藤は洗濯物があるからと答えた。
「話が止まっても、干してればいいので」
直は声を出して笑った。自分が借りる用事に頼っていたように、彼女も洗濯物のある場所を頼りにしていた。
二人は料理を一品ずつ選んだ。伊藤が辛いものを頼んでも、直は同じものを食べる必要がなかった。直の頼んだ卵料理を見て、伊藤は昔よく作っていたと言った。その話から、学生時代に住んでいた町や、一人暮らしを始めたときの失敗の話になった。
直は引っ越しの理由を少し話した。転職のことと、前の恋人と別れたこと。相手が女性だったと自然に伝えると、伊藤は静かにうなずいた。そのあとで、自分も今は誰とも付き合っていないと言った。
その返事の意味を、今夜一度で決めなくてもいい。直はお茶を飲み、彼女が次に話すことを待った。
食堂を出ると、雨が降っていた。二人とも傘を持っていた。同じ屋根へ入る必要がないことに、直は少しだけ残念な気持ちになり、それから可笑しくなった。
帰る道で伊藤は、今日の食事のお礼を言った。直は自分こそと答えたあとで、立ち止まりそうになった。またお礼のやり取りだけで終えるつもりだった。
建物の前に着いたとき、直は傘を閉じた。
「また、あなたとごはんが食べたい」
お礼という言葉を抜いた。
伊藤は少し目を丸くして、うれしいと答えた。
「私も。今度は、こちらから誘ってもいいですか」
直はうなずいた。借りたものの返却日ではない、次の約束が一つできた。
階段を上がり、二つの扉の前で別れた。部屋へ入ってから、直は食事の代金を少し多く払ってもらっていたことに気づいた。すぐ連絡しようとして、次に会ったときに相談すればいいと思い直した。
洗濯ばさみは、最初の一回で返し終わっていた。そのあとの用事まで、貸し借りの帳簿につけなくてよかった。
金曜の帰り、直は駅の花屋の前で足を止めた。伊藤の部屋の窓辺に似合いそうな小さな鉢があった。買って渡せばまた会える、と思ったところで、自分の考えに苦笑した。
花が好きかどうかも知らない。水やりが必要なものを、隣に住んでいるというだけで増やしていいかも分からない。直は鉢の名前だけ覚え、そのまま家へ帰った。
夜、伊藤へ花屋で見たものの話を送った。彼女は植物の世話が苦手で、以前サボテンも枯らしたと返した。直は買わなくてよかったと思い、代わりに店の前の写真を送った。写真なら、枯らす心配がない。伊藤から笑っている顔の絵文字が届いた。
しばらくして、彼女が飼ってみたい動物の話を始めた。建物では飼えないので、休日に猫の写真集を見ているという。直は本屋で猫の表紙を見ると、伊藤のことを考えそうだと伝えた。返事は少し遅れ、うれしい、という短い言葉で届いた。
直は携帯を伏せた。まだ彼女のことをほとんど知らない。けれど、知らない部分を借りものや贈りもので急いで埋めずに、質問してみることはできた。次に食事をするとき、好きな本を尋ねようと思った。
その夜は久しぶりに早く眠れた。隣の扉が閉まる音を聞いても、自分の部屋で小さくなる必要はなかった。二つの部屋の間には壁があり、その壁をなくさなくても、言葉を交わせる方法ができていた。
日曜の午後、直は屋上へ上がった。風は弱く、シーツがゆっくり膨らんでいた。伊藤は手すりのそばで、取り込んだタオルを畳んでいた。
「今日は、時間ずらさなかったんですね」
彼女が言った。直は返事に詰まり、伊藤は小さく笑った。
「急に会わなくなったから、ちょっと気になってました」
直は、自分だけが彼女を気にしていたわけではないのだと知った。気まずくなっていたと正直に言うと、伊藤は自分も、断り方が足りなかったかもしれないと思っていたと答えた。
どちらも言葉を補わず、相手の沈黙を自分で説明していた。直は洗濯ばさみを二つ外し、自分の籠に戻した。
次の店の話をした。伊藤は辛い料理もあるが、そうでない料理も選べる店を調べたという。直は、一緒に行きたいと答えた。何を食べるかより、彼女が自分と出かける時間を考えてくれたことがうれしかった。
洗濯物を取り込んだあとも、二人は少しだけ空を見た。直はもう、返すものを探さなかった。
籠を抱えて階段を下りるとき、直は先に歩く彼女の名を呼んだ。話したいことが、また一つ浮かんでいた。