四十六歳の麻衣と五十歳の夫は、長い間、寝る前に「電気消すよ」とだけ言い合っていた。
言うのは、先に眠るほうだった。返事は短いことも、聞こえないこともあった。結婚して二十二年になり、その五文字は、時計の針が動くのと同じくらい当然のものになっていた。
麻衣は寝る前の読書が好きだった。昼間は仕事で人に会い、帰宅してからは洗濯や食事の支度がある。布団に入って本を開くと、ようやく誰にも用事を聞かれずに済む気がした。
夫は朝が早く、平日はすぐ眠った。麻衣が本を閉じるころ、彼はもう寝息を立てていた。互いに違う時刻で一日を終えることにも、二人は慣れていた。
ある夜、夫がそれを言わずに寝た。
麻衣は明かりをつけたまま、本を読んだ。山場に来ていたので、あと少しだけと思った。隣で夫が寝返りを打ち、顔を反対側へ向けたことには気づいたが、何も言われなかった。
翌朝、夫は眠れなかったと言った。食卓には麻衣が作った卵と、前夜の煮物があった。彼は箸を持たず、コーヒーのカップを両手で包んでいた。
「言ってくれれば」
麻衣が言うと、夫はいつも言っても返事がないと答えた。
「昨日は言ってないでしょう」
「昨日だけのことを言ってるんじゃない」
その返事に、麻衣も箸を置いた。自分が毎晩、夫を眠らせない人であるように言われた気がした。彼が先に寝る日は本を途中で閉じているし、遅く帰れば音を立てないようにもしていた。
小さなことで、喧嘩になった。出勤の時間が迫り、互いに言い切れないまま立ち上がった。麻衣が弁当を渡すと、夫は礼を言わずに鞄へ入れた。玄関の扉が閉まったあとで、彼も何か言うべきだったと思っているかもしれないと考えたが、追いかける気にはなれなかった。
仕事中、麻衣は何度か朝の会話を思い出した。夫が言っていた「いつも」は、どの夜を指すのだろう。思い出そうとしても、いつもの夜は似た形で重なっていた。
昼休み、同僚が同じ説明を二度して、やっと麻衣が返事をした。ぼんやりしていたと謝ると、同僚は、忙しいと聞こえてても入ってこないよね、と笑った。
その言葉に、麻衣は少し居心地が悪くなった。本に集中しているとき、夫の声は確かに聞こえていた。だが、言葉として返す前に次の行へ目を移し、そのまま忘れることがあった。
帰宅すると、流しに朝のカップが残っていた。夫が飲み終えたのは麻衣が家を出る直前だった。普段なら小さく腹を立てて洗う。それを今夜はそのまま置き、まず自分の鞄を片づけた。
夫は少し遅れて帰った。二人とも挨拶はしたが、夕飯の間、箸と食器の音ばかりがした。煮物を出しても、彼は黙って食べた。
麻衣は、朝と違う怒りが湧いてくるのを感じた。夫には、自分の声を聞いてほしい。それなのに自分の毎日の問いは、いつも返事がないまま台所へ戻ってきていた。
「私も、返事してもらえないこと、あるよ」
彼女は言った。
夕飯の感想に返事がないことを話した。明日の帰りが遅いか聞いても、テレビを見たまま曖昧にうなずくこと。洗濯するものはあるかと尋ねたあとで、夜遅くに作業着が出てくること。
夫は、全部一緒にするなと言いかけ、黙った。麻衣は言い過ぎたかと思ったが、並べて初めて分かることもあった。どれも一つずつなら、怒るほどのことではない。それで、言わないまま溜まっていた。
「煮物、おいしいと思ってるよ」
夫は言った。
「今日だけじゃなくて」
「それ、聞こえないの」
麻衣が返すと、彼は困ったような顔をした。
思っているだけで足りることと、足りないことがあった。二人とも相手の気持ちがないと思っているわけではない。あるなら分かる形で渡してほしいと、小さな場面で何度も思っていた。
夫は、帰宅したあと少しの間は頭が仕事に残っていると言った。テレビを見ていても内容は覚えておらず、ただぼんやりしていることが多いという。
麻衣は、自分も本を開くと家の用事から離れたくなると話した。相手を無視しようとしていたわけではない。それでも、聞かれたほうが返事をしないたび、声をかけた側には置き去りにされた感じが残った。
「今は聞けない、でもいいのか」
夫が尋ねた。
「それなら、あとで聞くって言って」
麻衣は答えた。聞いていないのにうなずかれるより、待つかどうか自分で決めたかった。
話が終わるころには、お茶が冷めていた。夫は立ち上がり、急須に湯を足した。麻衣は流しのカップを見て、朝の分が残っていることを伝えた。
夫は、それを自分が使ったことを思い出し、洗った。麻衣はもう一度不満を説明せず、食卓に残った小鉢を運んだ。片づけが早く終わると、二人とも少し拍子抜けした顔をした。
その夜、夫は寝室へ行く前に、まだ読むのかと尋ねた。麻衣はあと十分ほど読みたいと答えた。彼は先に寝ると言い、枕元の小さな灯りを使ってほしいと頼んだ。
読書灯は何年も前からあったが、引っ越しの箱に入れたまま使っていなかった。二人で物置から探し、延長コードを出した。こんなことで済む部分もあったのだと、麻衣は笑った。
「最初から出せばよかったね」
「言うのが先だったのかも」
夫は答えた。灯りを小さくするだけでは、聞いてもらえなかった何年かは消えない。それでも今夜の眠りを、昔の不満の証明にする必要もなかった。
夫が電気を消すよと言った。麻衣は顔を上げ、うん、おやすみと答えた。彼の手がスイッチへ伸びるまで待ってから、読書灯をつけた。
翌日の夕飯で、夫は煮物が好きだと言った。麻衣は、味を濃くしすぎたと笑った。
「今日のは、少しだけ」
夫が答えた。おいしい以外の感想が返ってきたので、麻衣は意外な顔をした。その様子を見て、彼も笑った。
「何でも褒めないといけないのかと思った」
「それは違う」
麻衣は首を振った。味が濃いと言われたからといって、作ったことまで否定されるわけではない。二人とも、言えば相手を困らせるかもしれないことを増やしすぎていた。
食後、夫はテレビをつける前に、二十分ほど休みたいと言った。麻衣はその間、自分の部屋で翌日の仕事の支度をした。あとで聞いてほしいことがあると伝えると、彼は時間を決めて台所へ来た。
聞いてほしかったのは、仕事で使う資料の置き場所についてだった。何かを決めてほしかったのではない。ただ、今日一日考えていたことを、家へ持ち帰ったあとで一度口にしたかった。
夫は専門的な内容が分からず、ときどき質問した。そのために話は少し長くなったが、麻衣には話しながら分かることもあった。夫にも、うまく返事ができないから黙る日があったのかもしれないと思った。
数日後、習慣はまた雑になった。
麻衣は本に夢中になり、夫が消灯の声をかけても、すぐには顔を上げなかった。彼がもう一度言い、麻衣は慌てて返事をした。
以前なら、返したでしょうと言い張ったかもしれない。今夜は、最初のは聞き流したと認めた。夫もそれ以上は言わなかった。
忙しい日も、機嫌の悪い日もある。新しい決まりを一度作れば、毎日守れるわけではない。それでも気づいたほうが、言い直せるようになった。
週末、夫が夕飯を作った。麻衣は書類を整理しながら食べ始め、夫の問いに返事をし損ねた。彼がじっと見ているのに気づいて、箸を置いた。
「今、何て言った?」
「味噌汁、薄かったかなって」
麻衣は一口飲み、ちょうどいいと答えた。自分も聞き慣れた相手の声を、家の中の音にしてしまうことがある。作る側と食べる側が入れ替わると、分かることは少し違った。
夫は、返事があると気になることが終わるねと言った。麻衣はその言葉を覚えておこうと思った。返事は相手を褒めるためだけではなく、その問いをいつまでも持たせないためにもあった。
ある土曜、二人は買いものの途中で喫茶店へ入った。夫が飲み物を二つ注文しかけ、麻衣は今日は紅茶にしたいと伝えた。彼は、いつもコーヒーだから、と笑った。
「私も、あなたの頼むものは決めつけてるかも」
麻衣が言うと、夫はメニューを見直し、季節の飲み物を選んだ。甘すぎると少し後悔し、麻衣に一口勧めた。麻衣にはその甘さがちょうどよかった。
家では何年も同じカップを使っている二人が、違う味を選ぶ。大げさな変化ではなかったが、今日聞かなければ知らなかったことが、一つ増えた。
帰りに夫が図書館へ寄るか尋ねた。麻衣は本の返却日を思い出し、家に置いてきたと笑った。夫は取りに戻る時間もあると答えた。用事の数ではなく、相手が今日何をしたいかを聞くことから、午後の順序を決められた。
ひと月後、麻衣は古い写真を整理していて、二人がまだ若かったころの旅の写真を見つけた。二十代の自分は、何かを話している途中の顔で写っていた。夫はカメラの向こうで、どんな返事をしていたのだろう。
彼に見せると、宿を探して迷っていたときだと覚えていた。麻衣はすっかり忘れていた。写真の場所について二人の記憶は食い違い、結局、地図を開いて確かめた。
同じ時間を過ごしても、残るものは違う。その違いを知るには、やはり話すしかなかった。長く一緒にいれば察せることが増えるのと同じくらい、確かめずに決めてしまうことも増える。
その夜、麻衣は寝る前に、写真をもう少し見ようかと誘った。夫は明日は早いから、日曜にしようと答えた。麻衣は日曜の予定表に小さく書いた。断られたのは今夜の時間で、話そのものではなかった。
本を開くと、夫が隣で布団を直した。麻衣はしおりの位置を確かめ、読書灯の角度を変えた。
「電気消すよ」
「うん。おやすみ」
毎晩の五文字が、合図として働いた。特別に優しい声に変わったわけではない。麻衣が本から顔を上げ、夫がその返事を聞く。それだけの短い往復を、今は二人とも省かなかった。
暗くなった部屋で、麻衣は一ページだけ読んだ。続きを楽しみに本を閉じると、隣から小さく寝息が聞こえた。二人の間に、もう一度、声を置く場所ができていた。
麻衣は明日の目覚ましを確かめ、静かに瞼を閉じた。