四十二歳の唯は、花火大会の席を恋人の聡に取ってもらった。
二人で出かける大きな行事は久しぶりだった。四十四歳の聡は、発売日の昼休みに席を予約し、場所の地図を唯へ送った。川に近い区画で、打ち上げ場所がよく見えるという。
唯は画面を開き、何度も拡大した。仕事の予定表へその日だけ赤い丸をつけ、雨天時の日程も小さく書き込んだ。遠い夏の予定が、自分の暮らしの中に一つできたことがうれしかった。
「浴衣、着ようかな」
電話で言うと、聡は似合いそうだと答えた。それから、帰りは歩くから靴も持ってきたほうがいいかもしれない、と付け加えた。唯は現実的な人だと思って笑った。
二人は三年前から付き合っていた。それぞれ仕事があり、唯には近くに住む母親の用事もあった。聡も週末に会社の行事が入ることが多い。会えないわけではないが、遠出を決めるとどちらかが予定を変えなければならなかった。
最近は唯の家で夕飯を食べ、翌朝は別々の仕事へ出ることが続いていた。それも嫌いではない。ただ、帰宅して最初に洗濯機を回し、食事のあとで明日の支度をする間に、二人の時間が細切れになっていた。
花火の話を出したのは唯だった。子どものころ、家族で河原へ行った記憶がある。大人になってからはテレビで見るばかりで、腹に響く音をしばらく聞いていなかった。
聡は、大きな音は少し苦手だと言った。それでも、行ってみようと答えてくれた。唯はその一言がうれしく、予約まで任せた。
開催の前の週、聡は最寄り駅を間違えないよう、昼間に一度下見をした。写真が送られてきたとき、唯はそこまでしなくても、と笑ってしまった。電話の向こうで彼の返事が少し短くなり、慌ててありがとうと付け加えた。
今思えば、二人とも楽しみにしていることを、少し違う形で表していた。
当日、唯は浴衣をやめ、歩きやすい服で出かけた。昼の予報では、夕方から雲が増えるという。折りたたみ傘と薄い上着、聡が勧めた靴を鞄へ入れた。
待ち合わせの駅へ着くと、聡はすでにいた。開始時間よりずっと早い。手には二人分の飲み物と、厚いレジャーシートがあった。
「早すぎたかな」
「夕方になるの、待てるからいいよ」
唯は答えた。二人で屋台を見て歩き、焼きとうもろこしを一本買った。聡は食べるのが下手で、歯に挟まったと何度も水を飲んだ。唯は笑い、写真を一枚撮った。
予約した席は土の上だった。聡は区画の番号を何度も確認した。唯が、ここで合っていると言っても、彼は川の向こうを見て、打ち上がる角度を確かめていた。
周りの人も少しずつ座り始めた。小さな子どもが光る玩具を振り、隣の若い二人は弁当を広げた。唯は空を見上げた。風が変わり、昼の熱が引いていく。
「やっぱり来てよかった」
彼女が言うと、聡はようやく座った。二人で並んで空を見ているだけで、もういつもと違う夜だった。
打ち上げの直前、雨が降った。
最初は頬に一粒当たっただけだった。近くの人が傘を開き、その音が次々に広がった。川面が細かく波立ち、遠くの照明がぼやけた。
場内放送が入り、しばらく開始を見合わせると告げた。唯は上着をかぶり、聡と荷物をまとめた。シートの端に水がたまり、持ち上げると二人の靴へ流れた。
もう少し待てばやむかもしれない。そう思っている間に、次の放送が入った。その日の花火は延期になった。日程は改めて案内するという。
周囲からため息が漏れた。誰かが小さく残念だと言い、誰かは子どもの手を引いて立った。唯も立ち上がったが、靴がぬかるみに沈み、片足だけ抜けそうになった。
聡が手を貸してくれた。唯はお礼を言い、足元を見た。持ってきた靴に履き替える場所さえ、今は見つからなかった。
「ごめん」
聡が言った。
「大丈夫」
唯は答えた。雨は彼が降らせたものではない。それは分かっていた。けれど、その言葉で自分の残念さまで消えたことにしなければならないようで、胸の奥が固くなった。
駅までの道は混んでいた。唯は傘を差し、聡は濡れたシートを丸めて持った。彼は段差があるたび足元を気遣い、その合間に謝った。
「せっかく来たのに」
「うん。でも大丈夫」
同じ返事を繰り返すほど、唯は不機嫌になっていく自分が嫌になった。気を遣ってくれている人に、どうして腹を立てているのだろう。
橋を渡る前、道が少し広くなった場所で、唯は足を止めた。聡もすぐに振り返った。
「大丈夫じゃない。見たかった」
聡の顔がこわばった。彼は何か言おうとしたが、唯は首を振って続けた。
「でも、それはあなたのせいじゃない」
雨が傘の布を叩いた。二人の周りを、帰る人が流れていった。
「謝られると、私が残念って言えなくなる。あなたを許さない人みたいになるから」
聡は濡れたシートを持ち直した。しばらくして、残念だよな、と言った。
唯は、その普通の言葉にうなずいた。
「すごく、楽しみにしてた」
「俺も。下見したときから、早く見せたかった」
二人で残念がっても、雨はやまなかった。それでも唯は、聡の傘に少し近づいた。失敗した案内をした人と、それを慰める人ではなく、同じ夜を見損ねた二人になれた。
近くの店で、焼きそばを持ち帰った。雨宿りの客が多く、店内で食べる席はなかった。待つ間、聡は店先でシートを畳み直し、唯は上着についた泥を拭いた。
「うち、寄っていく?」
唯が聞いた。聡は、靴を乾かす場所を借りたいと答えた。
彼女の部屋で新聞紙を敷き、濡れた靴を並べた。上着を掛け、タオルを渡す。いつも夕飯の前に洗濯機を回す部屋へ戻ってきたのに、その夜は二人とも台所へ急がなかった。
焼きそばは少し冷めていた。二人は床に座って食べた。聡の靴下に穴があるのを見つけ、唯が笑うと、彼は花火よりそっちを覚えないでくれと言った。
「もう覚えた」
唯は笑い、スマートフォンの写真を見せた。昼にとうもろこしを食べていた聡の顔は、思っていたより楽しそうだった。花火を見なかったからといって、その顔までなくなるわけではない。
聡の鞄から、買ったままの小さな線香花火が出てきた。屋台の近くで見つけ、帰りにどこかでできるかと思ったという。唯のベランダでは使えなかったので、来週、火気を使える場所へ行くことにした。
「また雨だったら?」
唯が尋ねた。
「そのときは、また考える」
聡は答えた。唯は、それでいいと思った。
翌日、延期後の日程が発表された。唯の仕事と重なっていた。休みを替われないか一度聞いてみたが、難しかった。彼女は聡に、行けないと連絡した。
彼は了解と返したあと、余った席はどうしようかと尋ねた。唯は自分の分を譲っていいと答えたが、その文章を見直した。聡が誰かと楽しむのを嫌がっているように見えるかもしれない。
電話をかけ、行けなくて残念だが、聡が見に行くのは構わないと伝えた。彼は会社の友人に聞いてみると答えた。二人で見られなかった花火を、二人とも見てはいけないものにしなくてよかった。
そのあと、聡から線香花火は土曜で大丈夫かと確認が来た。唯はカレンダーを開き、夕方なら空いていると返した。
予定を一つ失ったあとにも、別の予定は作れる。埋め合わせとして大きなことを用意せず、袋に残った小さな花火を持って出かける。それを思うと、唯は少しうれしくなった。
水曜の晩、唯は母の家で食事をした。花火の話をすると、母は雨で残念だったねと言った。その一言に、唯は思ったより長く話し込んだ。予約した席のこと、夕方の川の匂い、靴が抜けそうになったこと。話すうちに、楽しみにした時間とがっかりした時間が、どちらも自分のものとして並んだ。
「次は見られるといいね」
母が言った。唯は、そうだね、と答えた。母も聡も、花火を打ち上げ直すことはできない。それでも聞いてもらうことで、残念だった夜を終わらせられる部分があった。
帰宅してから、聡へその話をした。彼は少し黙り、昔、家族旅行で雨が降ったときも、自分が謝っていたと話した。行きたいと言い出したのが自分だったからだという。
「楽しみにしてって言うのが、約束するみたいになるんだよな」
「楽しみにはするよ。晴れたらって、一緒に言えばいいのかも」
唯が答えると、彼は笑った。次の土曜の予報を、二人は電話越しに見た。晴れの印だったが、もう何度も確認しなかった。
電話を切る前、唯は雨の夜の焼きそばがおいしかったと伝えた。聡は、靴下のことじゃなくてよかったと答えた。覚えているものが一つに決まらないことが、唯にはうれしかった。
土曜はよく晴れた。二人は使用できる広場を確かめ、水を入れた容器と片づけの袋を持って出かけた。昼の熱が残る地面へ並んでしゃがみ、日が落ちるのを待った。
聡が最初の一本に火をつけた。小さな火の玉が先にでき、細い光が静かに散った。唯は大きな花火より、こんなに近くで見ていられることに驚いた。
「動かしたら落ちるよ」
聡が言うので、唯は余計に手を固くした。先に落ちたのは彼女のほうだった。聡は勝ち負けのように笑った。
次は彼のがすぐ落ちた。唯は笑い返し、残りの本数を数えた。二人分を平等に分けるほどのことでもなかったが、最後の一本は一緒に持ってみた。
それは上手くいかなかった。手を動かすタイミングが合わず、光が大きくなる前に落ちた。聡が謝りそうな顔をしたので、唯は、今のは二人とも下手だったと言った。
彼は声を出して笑った。唯も笑い、袋を畳んだ。大きな音はしなかった。夜空にはいつもどおりの星が、街の明かりに薄くなっていた。
帰り道、聡が延期された大会の写真を送るか尋ねた。唯は見たいと答えた。自分が見られなかったことと、彼が見たものを教えてほしいことは、同時にあってよかった。
見えなかった大きな花火より、この日の互いの横顔のほうを、二人はよく覚えていた。唯は帰宅して、カレンダーの赤い丸を消さなかった。その横に、小さく線香花火、と書き足した。
書き終えると、聡へ写真を送った。丸の中に残った二つの日付を見て、今度は彼から、また何か考えよう、と返ってきた。