三十三歳の拓海は、三十六歳の恋人、侑に夜景を見せたかった。
展望台を予約し、夕飯の店を決め、窓の近くの席を取った。予約確認の画面を保存してから、当日の天気を調べた。晴れの予報だったが、雨が降った場合に備えて、駅から濡れずに移動できる道も調べた。
侑の誕生日は三週間前だった。拓海の仕事が立て込み、当日は短いメッセージしか送れなかった。侑は、落ち着いてからでいい、と言った。責める調子がなかった分だけ、拓海は立派な埋め合わせが必要だと思った。
二人は付き合って二年になる。別々の家に住み、平日の夜か週末に会う。拓海が予定を組むことが多く、侑はそれを楽しんでくれた。水族館へ行った日、川沿いの市場を歩いた日。どの日にも、拓海が撮った侑の写真が残っていた。
だが最近は、写真を見返すと自分が何を食べたか思い出せなかった。侑が楽しんだかどうかを確かめることに忙しく、自分の感想を置き忘れていた。
拓海は広告制作会社で働いていた。担当する店の開業が早まり、資料の確認も撮影も、一週間ずつ前へ動いた。上司から頼まれると、できます、と答えた。そのあとで、自分の予定を夜へ、休日へずらした。
木曜の午後、同僚が作った画像に間違いを見つけた。本人は別の仕事で席を外していた。拓海は自分で直し、何も言わずに送った。礼を言われると、すぐだったから、と答えた。本当は昼食を食べ損ねていた。
帰りの電車で、侑から夕飯を食べたかと連絡が来た。拓海は食べたと返した。駅の売店で買ったゼリーを、食事に数えても嘘ではないと思った。
その夜、予約した店から電話があった。窓際は二時間制になるという。拓海は了解し、そのあとのバーを探した。侑は高いところが好きだと言ったことがある。夜景の続きが見える店なら、きっと喜ぶ。
予約を終えたとき、午前一時を過ぎていた。拓海はまだ開いていた仕事の画面へ戻った。好きな人のために使う時間まで、締め切りのある作業になっていることには、気づかないふりをした。
土曜、拓海は約束より三十分早く着いた。展望台へ上がる前に店の入口を確認し、侑へ駅からの案内を送った。すぐに、道は分かるよ、ありがとう、と返ってきた。
侑は薄い青のシャツを着ていた。拓海が以前、一緒に選んだものだった。久しぶりにゆっくり会えるのがうれしく、拓海はようやく少し肩の力を抜いた。
展望台へ向かうエレベーターで、侑は最近眠れているかと聞いた。拓海は、まあまあ、と答えた。今日ぐらい、仕事の愚痴を言う人になりたくなかった。
上階へ着くと、まだ西の空に明るさがあった。川の曲がり方が地図と同じ形で見える。拓海は予約した時間が正しかったと安心した。日が沈み、街の灯りが増えるまで、二人で見ていられる。
侑は到着してから、何度も拓海を見た。
「外、きれいだよ」
拓海が言うと、侑はうなずいた。すぐ、また、こちらへ視線を戻した。拓海は少し位置を変え、ガラスの反射が少ない場所を指した。
侑はそちらへ歩いたが、写真を撮ろうとはしなかった。拓海は気に入らないのかと思った。仕事を早く終わらせたことまで、言いたくなった。
「俺の顔、何かついてる?」
聞くと、侑は困ったように笑った。
「今日は楽しそうだなと思って」
拓海は返事に詰まった。準備がうまくいったか確かめる顔を、侑は見ていたのだった。
「いつも、楽しくなさそう?」
侑は首を振りかけ、ゆっくり止めた。
「疲れてるのに、元気なふりしてる日がある」
拓海は手元の水を飲んだ。自動販売機で買ったばかりの水は、喉を通るとひどく冷たかった。この一か月、無理をしていた。今日も完璧な恋人でいたかった。
「仕事の話ばかりしても、つまらないだろ」
「全部話せとは言ってない。疲れてたら、座ろうって言ってほしい」
展望台の隅にはベンチがあった。拓海はその存在を知っていたが、眺めのいい窓際を離れるのが惜しかった。今座れば、夕日が沈むところを見逃すかもしれない。
侑は一人で先に座り、隣を空けた。拓海も腰を下ろすと、膝から下が急に重く感じられた。立っていられたのは、疲れていなかったからではなかった。
「誕生日、ちゃんと祝えなかったし」
拓海は言った。
「今日は、ちゃんとしてるよ」
「でも、予約したのも、遅くなってからで」
「遅かったことを、今夜ずっと埋め続けなくていい」
侑の声は穏やかだった。拓海は、それでも不機嫌になられたほうが楽だったかもしれないと思った。謝る相手がいれば、何をすればいいか分かる。何もしなくていいと言われると、自分がここにいる理由まで薄くなる気がした。
「何か用意しないと、会いたいって言いにくいんだよ」
初めてそう言った。侑はしばらく黙り、それから、自分も会いたいと思って来ている、と答えた。
食事の店には予定どおり入った。窓際の席からは、展望台より近くに灯りが見えた。拓海は料理が出るたび侑の反応を見そうになり、自分の皿へ目を戻した。
前菜の柑橘が思ったより酸っぱく、思わず顔をしかめた。侑が笑った。
「今の顔のほうが、感想が分かる」
拓海も笑った。予約した店だから、何でもおいしいと言う必要はなかった。魚の皮が香ばしいこと、パンが小さすぎること。自分の感想を口にすると、侑の感想も、褒め言葉以外の形で返ってきた。
食事の途中、仕事の連絡が来た。拓海は画面を伏せたが、数分後にまた見た。侑は、急ぎなら確かめて、と言った。
確認すると、月曜の朝までに返せばいい内容だった。拓海は了解と打ちかけ、週明けに確認します、と書き直した。それだけのことで、指先に力が入った。
「返すの、怖い?」
侑が聞いた。
「返さないのが、怖い」
そう言うと、自分でも違いがよく分かった。何かできる人でいれば、必要とされる。休むことは、その席を空けることのように思っていた。
侑は、自分の職場で休みを取った日の話をした。心配して連絡を見続けていたら、代わりを任せた人から信用していないのかと聞かれたという。
「休むのも、一人で決めるだけじゃ難しいんだなと思った」
拓海はうなずいた。今夜すべてを直す約束はできないが、月曜に仕事の量を相談することはできそうだった。
食後、侑は帰りに寄る予定だったバーを断ってもいいかと聞いた。拓海は少しだけ残念だった。調べた時間や、席を押さえた手間が頭をよぎった。
「嫌だったわけじゃないよ」
侑が言う前に、拓海は分かっていると答えた。それから、分かっているけど少し残念、と言い直した。
「夜景の続きが、見える店だった」
「また、そこだけ行こう」
拓海は店に電話をして、事情を簡単に伝えた。予約を取り消しても、今夜の食事まで失敗になるわけではない。電話を切ると、鞄が少し軽くなったようだった。
外へ出ると、思ったより風が冷たかった。侑が手を差し出し、拓海はその手を取った。街の灯りは上から見るよりばらばらで、道の端には配達の自転車が並んでいた。
二人は拓海の家へ帰った。玄関には、平日に片づけられなかった靴と紙袋があった。拓海が慌てて寄せようとすると、侑は自分の靴を置くところだけ空けた。
「片づけないと」
「明日、手伝おうか」
「明日は寝たい」
言ってから、拓海は笑った。侑も笑い、では明後日でもいい、と答えた。部屋をきれいにする日まで、自分たちを待たせなくてよかった。
照明を一つだけ残し、拓海はソファへ座った。侑が台所で湯を沸かす音がした。何か手伝おうと言う前に、瞼が重くなった。
目を覚ますと、侑が隣で本を読んでいた。膝には薄い毛布がかかっている。時計を見ると、一時間ほど過ぎていた。
「ごめん、寝てた」
「うん」
侑は栞を挟んだ。
「退屈だった?」
「本、読みたかったから」
拓海は本の表紙を見た。侑が前から探していた短編集だった。恋人と同じ部屋にいても、相手の時間を全部自分で用意しなくてよかった。
冷めたお茶を飲むと、侑が温めるかと聞いた。拓海はこのままでいいと答えた。今度は遠慮ではなく、喉が渇いていたからだった。
「今日、楽しかった」
拓海は言った。侑の感想を聞く前に、自分の言葉を置いた。
「景色も、夕飯も。今も」
侑はうなずき、自分も、と答えた。拓海は彼の肩へ頭を預けた。何分そうしていたか、確かめなかった。
翌朝、二人は近所のパン屋へ行った。予定はなかったが、焼き上がりを待つ列に並んだ。拓海は仕事の相談をするため、抱えている作業を紙に書いてみると話した。侑は見せてと言わず、自分も午後に片づけることがあると答えた。
昼にはそれぞれの時間へ戻った。拓海は机の前で、すぐにできると引き受けた仕事の名前を一つずつ書いた。紙は思ったより埋まったが、自分の能力を証明する一覧には見えなかった。誰かと分けるための情報になった。
月曜の朝、拓海は作業の一覧を上司へ見せた。減らしてほしいと口に出す直前まで、もう少し頑張れると思った。だが、一人で終わらせる予定では確認が夜になると説明すると、上司は隣の席の担当者にも声をかけた。すべてがなくなったわけではない。二件を渡し、別の一件の締め切りを確かめ直した。それだけで、帰りの時刻が予想できた。
夕方、拓海は同僚に直した画像のことを伝えた。責めるためではなく、次に同じ確認が要ると知らせるためだった。相手は礼を言い、今週は自分も空きがあると返した。拓海が黙って引き受けている間には、聞こえなかった返事だった。
帰宅してから侑に、今日は自分で夕飯を作れたと送った。立派な報告ではなかったが、彼が聞いてくれた疲れに対する、自分なりの続きだった。
その夜、携帯を開いて気づいた。夜景の写真は一枚もなかった。保存したのは予約の画面ばかりで、侑の横顔すら撮っていなかった。
拓海は一度、惜しいと思った。それから、ソファの隣の温度を思い出した。眠っても終わらなかった夜が、体の中に残っていた。
侑へ、また何もしない日にも会いたい、と送った。返事は、もちろん、だった。拓海は画面を閉じ、まだ少し早い時間に、部屋の灯りを消した。