三十七歳の里奈は、恋人の家の冷蔵庫で、自分が作ったマーマレードを見つけた。
三か月前のものだった。瓶の蓋に貼った白いラベルには、里奈の字で日付と小さな橙の絵がある。中身は半分以上残っていた。
四十歳の雅人は、パンを焼きながら、瓶に気づいた彼女の顔を見た。
「ごめん。甘いもの、あまり食べなくて」
里奈は瓶を持ったまま、彼を見た。
「好きって、言ったよね」
「作ってくれたのが、うれしかった」
トースターが鳴った。雅人は焼けたパンを取り出し、皿に載せた。里奈の手の中の瓶は冷たかった。怒るより先に、指が冷えていることを感じた。
二人が付き合い始めたのは一年前だった。友人に連れられた読書会で隣の席になり、同じ小説の結末について、まったく違う感想を話した。雅人は登場人物が町を出たことに安心し、里奈は置いていかれた側が気になった。
帰り際、雅人がその続きも聞きたいと言った。里奈はうれしかった。料理が得意だとも、気が利くとも、まだ知られていない相手に誘われたことが、ひそかに新鮮だった。
それなのに、初めて彼の部屋へ行く日、里奈は菓子を焼いた。二回目には夕飯の材料を買い、三回目には作り置きの惣菜を持っていった。雅人は毎回、うれしいと言ってくれた。
里奈はその言葉を、次に何を作ればいいか考える合図にした。好きな人の役に立つことは、会いたいと口にするより簡単だった。
マーマレードを煮たのは、春先の休日だった。実家から届いた橙が多く、自分一人では使い切れなかった。皮を刻みながら、雅人の朝食の食卓を想像した。瓶に詰めるころには、分けたいという気持ちより、自分を思い出してほしいという願いが強くなっていた。
翌週に渡すと、雅人は蓋を開け、スプーンの先で少し味を見た。おいしい、うれしい、と彼は言った。里奈はその二つを同じ意味で受け取った。
冷蔵庫の前で、里奈は瓶を棚へ戻しかけた。戻せば今の会話をなかったことにできそうだった。しかし、また次に見つけるだけだと思い、台所の流しに置いた。
「無理して食べてた?」
雅人は少し迷い、最初の二回はパンに塗ったと答えた。
「甘いものが嫌いっていうほどじゃない。でも、毎朝は食べない」
「だったら、言ってくれれば」
「せっかく時間をかけて作ってくれたから」
里奈は、その言い方を責められなかった。自分も昔、恋人からもらった飾りを好みではないと言えず、何年も棚に置いていた。相手を傷つけまいとした沈黙が、相手の次の贈りものを増やしていた。
雅人が皿を食卓へ運んだ。里奈は座らず、ほかに食べ残したものがないか探しそうになった。自分の好意の消費量を調べる人になっている。それに気づき、冷蔵庫を閉めた。
パンは少し冷めていた。里奈は何も塗らずにかじった。雅人も向かいに座り、しばらく二人とも食べることだけをした。
「捨てるの、嫌だったんだ」
雅人が言った。
「食べなかったことが消えるわけじゃないのに」
里奈はうなずいた。残しておくことにも、雅人なりの困り方があったのだろう。それでも瓶を見つけたときの寂しさは、簡単には引かなかった。
中身を処分して瓶を洗う間、雅人は言い訳をしなかった。里奈も、もう作らないとは言わなかった。お湯を使うと、ラベルの端が少し浮いた。
「次は、何なら食べる?」
里奈は、いつものように解決しようとした。
「何か作らなくても、来てほしい」
その返事に、里奈は水を止めた。
手ぶらで訪ねたことがなかった。料理や贈りものを持たない自分には、居場所がない気がしていた。雅人の部屋に泊まる日も、先に洗面所を拭き、食器を片づけてから休んだ。それを頼まれたことは一度もなかった。
「何もしてないのに、いていいって、落ち着かない」
里奈は初めて言った。
雅人は布巾を出し、洗った瓶を受け取った。
「僕は、何も持たずに君の家へ行ってる」
「それは、いいの」
「僕も、そう思ってる」
同じことを言われて、里奈は少し笑った。人には簡単に許していることを、自分だけの条件にしていた。
ただ、その場で全部が変わるとは思えなかった。何かしている間は、相手の顔色を見なくて済む。黙って座った自分が歓迎されているか確かめるほうが、里奈には難しかった。
その午後、里奈は実家へ電話をした。マーマレードの話をするつもりはなかったが、母に橙は使えたかと聞かれ、うまく返事ができなかった。
母は、昔はもらった野菜を全部調理しなければ失礼だと思っていた、と話した。使い切れずに困っていると父に言われてから、今は送る前に量を尋ねるという。
「要るかって聞くのは、冷たい気がしてたのよ」
里奈はその言葉に覚えがあった。聞けば断られる可能性がある。役立つものを渡すという形の中に、断られたくない自分もいた。
「次、私には少しでいい」
里奈は言った。
「分かった。余ったら別の人に聞くから」
母はあっさり答えた。里奈が受け取る量を減らしても、二人の関係が薄くなるわけではなかった。
電話を切ったあと、里奈は冷蔵庫の自分用の瓶を見た。一人では多すぎる量を、毎回作っていた。保存するための料理なのに、保存できるものが増えるほど不安になっていたのかもしれなかった。
翌日、職場で同僚にお菓子を分けようとして、一度尋ねてみた。今は要らない、と言われた。里奈は一瞬身構えたが、同僚はそのあと、先日の映画の感想を話し始めた。菓子が要らない人も、自分とは話したい。それは考えれば当たり前のことだった。
次の週、里奈は本だけ持って雅人の家へ来た。玄関の前で、駅の店へ戻ろうか迷った。手土産の袋がないと、腕の位置が定まらなかった。
雅人が扉を開けた。いつもと同じように、来てくれてありがとうと言った。台所には二枚のパンと、切った果物があった。
「私、何もしなくていい?」
里奈が尋ねると、彼はコップを出してほしいと頼んだ。その普通の用事に、少しほっとした。
頼まれること自体が悪いのではない。頼まれてもいないことを次々に引き受け、自分の席を作ろうとしていたのだ。
雅人はトーストを二枚焼いた。片方に塩とバターを塗った。里奈は少し蜂蜜を使った。好みの違う朝食を、同じ食卓で食べられた。
「甘いの、こっちにはあるよ」
里奈が瓶を示すと、雅人は今日はいいと答えた。彼女はうなずき、自分のパンへ戻った。断られたのは蜂蜜で、自分ではない。そう思うために、今は一度ずつ意識する必要があった。
食後、雅人は本を開いた。里奈も持ってきた文庫本を出した。静かな時間に何か話さなければと思い、数分おきに顔を上げたが、彼はときどき笑い、ときどきページを戻していた。
「面白い?」
里奈が聞くと、彼は途中の一節を読んでくれた。里奈にはまだよく分からず、後で貸してと答えた。分からないまま隣に座っていても、時間は進んだ。
昼過ぎ、里奈が帰ろうとすると、雅人は空いた瓶を窓辺から持ってきた。中には短い鉛筆が数本入っていた。
「使ってもいい?」
「瓶くらい、聞かなくても」
言ってから、里奈は笑った。先週まで、その瓶の使われ方を自分への返事のように見ていたのだった。
雅人は、瓶を戻して光の当たり方を変えた。透明なガラスの底に、鉛筆の先が小さく並んだ。中身が変わっても、作った時間まで無駄になるわけではなかった。
「今度、何か作りたくなったら聞くね」
里奈は言った。
「僕も、食べられる量を言う」
雅人も答えた。
次の月、里奈は自分のために少量のジャムを煮た。瓶は一つで足りた。写真を雅人に送ると、いい色だねと返ってきた。食べたいという意味かと一瞬考え、それから、分ける、と尋ねた。
『少しなら。次に来るとき一緒に食べよう』
里奈は小さな容器へ二回分だけ移した。残りは自分で食べる。誰かの朝食を毎日支えなくても、次に会う一日を楽しみにすることはできた。
その前の木曜、里奈は少し落ち込んだ。頼まれた仕事を引き受けたところ、予定より作業が増えたのだ。自分ができると答えた以上、途中で相談するのは無責任な気がした。帰り道、雅人へ電話をかけ、遅くなるから土曜の食事を作れないと言った。
「土曜、作る約束だった?」
雅人に聞かれ、里奈は足を止めた。たしかに、そんな約束はしていなかった。疲れた自分には、彼に会う資格がないと言っているようなものだった。
「作らなきゃって、また思ってた」
「会いたくないなら、休んで。でも、作れないからなら、こっちで買うよ」
里奈は駅前の花壇に腰を下ろした。少しだけ、仕事の話も聞いてほしいと頼んだ。話し終えると、明日は作業の範囲を確かめようと思えた。雅人が代わりに仕事を減らしてくれたわけではない。それでも、一人で役に立つ人でいなくていい時間が、判断する余裕を戻してくれた。
翌朝、里奈が担当者に相談すると、一部は別の日に回せると分かった。先に言ってくれてよかった、と相手は言った。役に立とうとして黙ることが、いつも相手を助けるとは限らない。
昼休みに雅人へ、土曜は会いたいと送った。彼から、何を食べようか、と返ってきた。里奈は料理の名前をすぐに挙げず、駅前で一緒に選びたいと答えた。選ぶところから二人で始めるのは、考えるより楽しそうだった。
その週末、二人は本を持って公園へ行った。昼食は途中の店でそれぞれ選んだ。里奈は食後に自分のパンの残りを差し出しかけ、雅人が欲しいか尋ねた。彼は少し迷ってから、半分ならと答えた。
断ることも、量を言うことも、会話の続きだった。里奈はパンを割り、彼の選んだ包みの上へ置いた。
帰宅した雅人から、鉛筆を削ったという写真が届いた。あの瓶に、長さの違う鉛筆が並んでいた。里奈は写真を見て、瓶を満たしたものの量を数えなかった。
何かで満たし続けなくても、置いておけるものだった。自分が彼の部屋で座っていた椅子も、来週まで空いたままで、そこにあるのだと思えた。
里奈は次に読む本を鞄へ入れた。台所を見回してからではなく、その本を読みたいという気持ちのまま、次の休日を迎えてみたかった。