三十八歳の亮子は、英会話教室で隣になった人の名前を、一か月間、間違えて呼んでいた。
佐藤ではなく、佐東だった。発音は同じなので問題ないが、名札を書く日に、堂々と違う字を書いた。隣の人の名前を聞いて紹介する練習で、亮子は自信を持ってペンを走らせた。彼が紙を覗き込んでから小さく笑ったので、ようやく間違いに気づいた。
「すみません。ずっと、藤の字だと思ってました」
四十一歳の彼は、糖の字でなくてよかったと言った。亮子が笑うと、講師が英語で何の話か尋ねた。名字の漢字を説明するのは二人の語彙では難しく、砂糖という単語だけが、黒板の横で大きく響いた。
以来、二人の間でだけ、彼の呼び名はシュガーになった。
教室は駅前の雑居ビルの三階にあった。水曜の午後八時から九時十五分まで。亮子は会社から直接来るので、毎回、鞄の中に夕食代わりのパンの袋が入っていた。佐東は何をしている人なのか、最初の授業で聞いたはずなのに、亮子はうまく思い出せなかった。
彼の名前を知ったつもりで、漢字も仕事も確かめていなかった。それを、言葉の勉強をしている場所で気づいたのが、少しおかしかった。
亮子が英語を習い始めたのは、海外出張に備えるためだった。勤務先で扱う部品の展示会へ、翌年、同行する可能性があった。決定ではないが、上司に候補だと言われたとき、行きたいと答えていた。
そのあとで、大学を出てから英語をほとんど使っていないことを思い出した。若い同僚は動画を見て自然に覚えているように見える。亮子は自己紹介の三文にも、家で何度も練習が必要だった。
佐東は授業でよく間違えた。過去形を忘れ、旅行の話を未来の予定にしてしまう。だが間違えたあとも話を続けた。亮子は一つ間違えると、その先を全部失くしたように黙ってしまう。
ある夜、二人で道順を説明する課題をした。亮子は交差点の先と言いたかったが、交差点が出てこなかった。佐東は、絵でもいいですか、と講師へ聞いた。彼女は笑って白紙を渡した。
亮子が描いた四本の線を、佐東は指でたどった。店の名前だけ英語で言うと、彼はたどたどしく、ここで合っていますか、と聞いた。
「合ってます」
亮子は日本語で答えてから、慌てて言い直した。講師は二人が到着できたことを褒めた。正しく言えたことより、伝わったことを先に見てもらったのが新鮮だった。
帰りの階段で、佐東は地図を捨てずに手帳へ挟んだ。
「次、同じ課題が出たら使えますね」
「こんな地図で?」
「僕は着けましたから」
亮子はそれから、水曜の夜を少し楽しみにするようになった。
五月になり、佐東は二週続けて教室を休んだ。亮子はいつもの席を一つ空けて座り、途中で来るかもしれないとドアを見た。別の受講者がそこへ座っていいかと聞き、亮子はもちろんと答えた。
授業の内容は変わらなかった。仕事の予定を説明し、聞き取れない部分を繰り返してもらう。けれど、佐東ならここで困った顔をしただろうと思うたび、自分が授業の何を待っていたのかが分かった。
連絡先は知らなかった。教室へ問い合わせるような用事でもない。亮子は家で課題をしながら、名前を正しく覚えたことと、その人の暮らしを知ることの間には、まだ距離があると思った。
三週目に来た彼は、父親が脚を骨折して、実家の片づけを手伝っていたと話した。佐東は電気設備の会社で働いていて、現場の予定を移すのが難しかったという。
「大丈夫でしたか」
「だいぶ。父より、物をどかすほうが大変でした」
彼は笑ったが、目の下に疲れがあった。亮子は自分の期待を急に恥ずかしく思った。彼が来ない水曜を、勝手に自分の寂しさだけで測っていた。
課題のプリントを余分にもらっていたので、亮子は渡した。待っていたとは言わず、抜けたところです、と言った。佐東は丁寧に礼を言い、来られてよかった、と続けた。
それは教室のことか、亮子に会えたことか。確かめるには早い気がしたが、どちらでも、うれしい言葉だった。
授業の課題で、休日の予定を英語で尋ね合った。亮子は、何もないと答えた。本当はクリーニングを取りに行き、布団を干し、冷蔵庫を片づけるつもりだった。何もない、というのは、彼に誘われる余地があるという意味だった。
佐東は土曜の午後は空いている、と答えた。それから何か言いかけて、辞書を開いた。ずいぶん長く探していた。講師が次の組を指名し、二人の練習はそこで終わった。
亮子は自分から誘えばよかったと思った。けれど、何も予定がないという答えを、相手が自分と同じ意味で言っているとは限らない。授業の中で断られたら、隣の席へ戻るのが難しくなりそうだった。
帰り支度をしていると、佐東が辞書を閉じた。亮子は何の単語を探していたのか尋ねた。
「断っても気まずくならない、って」
彼は紙の辞書の角を揃えた。
「誘い方の例文はあるんですけど、そのあとのことがなくて」
亮子は、笑っていいか迷った。それほど慎重に誘おうとしてくれたことがうれしく、同時に、二人が同じところで足踏みしていたのがおかしかった。
「一度、ちゃんと日本語で誘ってほしいです」
言うと、佐東は顔を上げた。
「土曜、コーヒーを飲みに行きませんか」
「行きたいです」
二人はそこで初めて、連絡先を交換した。登録する名前の漢字を、亮子は彼に見せて確かめた。佐東は合っていますと答えたあと、自分の画面を伏せた。何を登録したのか、亮子は聞かなかった。
土曜は昼前から雨になった。亮子は一度、約束を次の週へ延ばそうかと思った。初めて二人で会う日に、髪が濡れ、靴の中まで湿るのは嫌だった。しかし雨なら断りやすいという考えの下に、緊張から逃げたい気持ちがあると分かった。
駅へ着くと、佐東は改札の外で待っていた。教室では作業着に近い上着だったのに、今日は襟のあるシャツを着ていた。その違いだけで、亮子は彼の顔を見るのが照れくさくなった。
店は駅から五分ほどのところにあった。彼が選んだのは、音楽の小さい喫茶店だった。二人で英語を練習する必要はないと分かっていても、静かな店なら聞き返しやすいと思った、と彼は説明した。
注文してから、二人は教室の話をした。講師の旅行の話、いつも一番に答える受講者のこと。話題が尽きかけたとき、亮子はカップを見た。
彼は砂糖を入れなかった。亮子は二つ入れた。
「シュガーなのに」
「自分には厳しいので」
その冗談があまりに下手で、亮子は笑いすぎた。佐東も笑い、今のは英語ならもっと滑ったでしょうね、と言った。
笑ったあと、亮子は緊張していたと話した。佐東は、自分も店を選ぶのに三軒歩いたと答えた。
「そんなに?」
「隣の席が近いと、話しにくいかと思って」
彼が慎重なのは言葉を知らないからだけではなかった。相手の居心地を考えると、決めるまでに時間がかかる人なのだろう。亮子はそれを、頼りなさと取り違えずに知りたいと思った。
佐東が英語を習う理由は、仕事ではなかった。数年前、外国から来た客に機器の使い方を聞かれ、説明できず、同僚を呼んだ。その客は何度も礼を言ったが、彼は自分の知っていることを自分の言葉で渡せなかったのが心残りだったという。
「次に同じことがあるかは、分からないんですけど」
「次がなくても、私の地図は読めました」
亮子が言うと、彼は笑った。
亮子は出張の候補になっていることを話した。まだ上司の返事を待っていて、自分から確認するのも怖い。期待していると思われるのが恥ずかしかった。
「行きたいんですよね」
佐東は聞いた。
「行きたいです。でも、できないことが多くて」
「僕、今日の店を聞かれて、詳しいですって言いそうになりました。実際は調べただけなのに」
亮子は彼を見た。
「できる人に見せたくなるんですね」
「はい。知らないって言ったほうが、楽なこともあるのに」
彼が自分の話をしてくれたので、亮子は説得された気分にならなかった。月曜、上司へ進み具合を聞いてみようと思った。出張の結論は、佐東との時間とは別に、自分で確かめることだった。
二杯目を注文するか迷い、亮子は時間を聞いた。佐東は夕方に父親へ電話する約束があると言った。亮子は、ではあと三十分、と答えた。相手の都合を聞くことは、会いたくないと言われることではなかった。
帰り際、礼を英語で言うと、佐東は紙ナプキンを一枚取り、彼女の名前を正しい漢字で書いた。
「覚えてました。最初から」
亮子はその紙を、一度畳んで、鞄のいちばん小さいポケットに入れた。捨てるつもりで置かれた紙が、帰り道には大事なものになっていた。
月曜、亮子は上司に出張の予定を尋ねた。まだ調整中だが、行くなら担当商品の説明をまとめてほしいと言われた。確約ではなかった。それでも、待つ間に自分で進められる仕事ができた。
水曜の授業で、亮子は先週の出来事を話した。知らない単語が出てきたところで止まり、簡単な言葉へ変えて続けた。佐東は隣で、初めて聞く話のように聞いていた。月曜の夜に連絡してあったのに、先回りして言葉を助けなかった。
帰りの階段で、彼は上手に伝わっていましたね、と言った。亮子は、途中、三回間違えましたと答えかけてやめた。
「最後まで聞いてくれて、ありがとう」
そう言うと、佐東は手すりから手を離し、今度は自分が日曜の予定を聞いてもいいかと尋ねた。亮子には洗濯と買いものの予定があった。
「午後三時からなら、空いてます」
何もないという言い方をせずに答えた。彼と会うために、自分の暮らしを空白にする必要はなかった。駅まで歩く間、二人は次の店を相談した。甘いものもある店がいい、と亮子は言い、佐東は砂糖なしのコーヒーがあれば、と答えた。
鞄の小さなポケットには、まだ紙ナプキンが入っていた。次に会う日まで、折り目を伸ばさず、そのままにしておこうと思った。
好みは同じではなかった。まだ知らない漢字も、聞き取れない気持ちもある。それでも、分からなければもう一度尋ねられる相手と、亮子は同じ夜道を歩いていた。