三十四歳の杏奈は、別れた人の写真を消していた。
日曜の午後、洗濯物を畳む途中で携帯の容量がいっぱいになった。新しい写真を保存できません、と画面に出た。それが、三年間の整理を始めるきっかけだった。
最初の一枚は簡単だった。飲み会で酔った彼が、知らない人の肩を抱いている写真。次は、杏奈が目を閉じてしまった自撮り。その次は旅館の朝食だった。焼き魚の皿の向こうに彼の手があり、その隣に、彼女が気に入っていた青い湯飲みが写っていた。
一緒に写ったものを消すたび、好きだった旅行や料理の写真も失った。彼の顔だけが記憶ではなかった。駅の階段で見つけた猫、寒い日に食べたうどん、初めて自分で運転した海岸の道。そのほとんどに、彼の一部が入り込んでいた。
別れた理由は一つではない。仕事を辞めてほしいと言われたこと、断ると将来を考えていないと責められたこと。話し合うたび、彼の望む暮らしが「二人のため」と呼ばれた。最後は杏奈が、自分のために別れたいと言った。
だから後悔していないはずだった。それなのに写真を消す指が止まると、まだ彼を好きなのではないかと疑った。
夜になっても洗濯物は半分残っていた。杏奈は携帯を伏せ、畳みかけのシャツをもう一度広げた。写真の中では笑っていた自分が、全部間違っていたようになるのが嫌だった。
月曜、同僚の佐伯と昼休みが一緒になった。三十七歳の彼は、社内報の写真を選んでいた。杏奈は記事の校閲を頼まれ、食堂の隅で画面を見せてもらった。
「これ、背景の看板が切れてますね」
「人の表情を優先したら、切れました」
佐伯は二枚の写真を並べた。一枚は構図が整い、もう一枚は人が自然に笑っていた。彼は迷った末、後者を選んだ。
杏奈は、消していた写真のことを話した。誰かに相談するつもりはなかったのに、背景という言葉から、話が続いてしまった。
佐伯は削除の助言をしなかった。消したほうが前へ進めるとも、思い出は残すべきだとも言わなかった。
「景色だけ、切り取れませんか」
「切ったら、変になる写真もあって」
「じゃあ、変にならないものだけでも」
簡単な返事だった。全部同じ扱いにしなくてもいい、と言われた気がした。
帰宅後、杏奈は海岸の写真を開いた。彼を切り取ると、自分の肩も少し欠けた。肩のない自分は、無理に一人で来たふりをしているようで嫌だった。元に戻し、別のフォルダへ移した。
料理だけの写真は切り取れた。青い湯飲みは残り、彼の手は消えた。何も問題は起きなかった。胸が痛むかと思ったが、好きだった色をまた見られて、少しうれしかった。
消すか残すかを、一晩で決めなくてもよかった。杏奈はフォルダに「保留」と名前をつけた。期限を設定しなかった。
翌週、佐伯は社内報の校了紙を持ってきた。切れた看板の写真は、見開きの隅に小さく載っていた。杏奈が選んだ見出しと、思ったよりよく合っていた。
「写真、少し整理できました」
「よかったです」
彼はそれ以上聞かなかった。杏奈は、その距離に助けられた。同情されたくない日も、誰かに聞いてほしい日もある。相手が全部を決めずにいてくれると、自分から話す場所を選べた。
昼休み、二人で会社の近くの公園へ行った。桜はまだ硬い蕾だった。佐伯は古いフィルムカメラを持っていた。父親から譲られたもので、撮れているか現像まで分からないという。
「それ、怖くないですか」
「失敗しますよ。よく」
「やり直せないのに」
「だから、見てるだけの日もあります」
彼はカメラを構えず、枝を見上げた。杏奈は、何でも残さなくてもいいのだと思った。彼といる時間を証拠にする必要もなかった。
その帰り、杏奈の携帯に元恋人から連絡が来た。預けたままの本を返してほしいという。忘れていた荷物が、まだ部屋にあった。画面を見たまま立ち止まると、佐伯は先に会社へ戻ると言った。問い詰めるような目をしなかった。
杏奈は本を送ると返した。会う必要はなかった。それだけの返事を書くのに、五分かかった。
本を箱へ詰めると、一冊の間から旅行の切符が落ちた。写真を撮った海岸へ行った日のものだった。彼女が長い列に並んで買い、彼は駅前で飲みものを探していた。楽しかったことを思い出した次の瞬間、その晩に口論したことも蘇った。
一つの旅行が、幸せか不幸かのどちらかになるわけではない。そう頭では分かっていても、自分の選択が正しかったと証明するために、悪い記憶ばかり集めたくなった。
杏奈は箱を閉じる前に、切符を取り出した。彼の本に挟まっていたけれど、自分が持っていてもいいものだった。台所の引き出しに入れ、発送の伝票を書いた。
週末、友人の菜月が遊びに来た。大学からの友人で、別れた直後も杏奈の話を聞いてくれた人だった。保留のフォルダを見せると、菜月は、まだ全部あるんだ、と言った。
その言い方に悪意はなかった。それでも杏奈は身構えた。
「戻りたいわけじゃないよ」
「うん、分かってる」
「でも、旅行は好きだった。あのときの自分まで嫌いになりたくない」
菜月は携帯を返し、しばらく黙った。
「私、早く忘れたほうが楽になると思ってた。杏奈に、そうしてほしかったのかも」
二人はお茶を飲んだ。友人の善意を拒絶するのではなく、自分には違うやり方が必要だと伝えられたことが、杏奈には小さな進歩だった。
帰る前、菜月は二人で撮った写真を送ってくれた。杏奈の部屋の床で、洗濯物を背に笑っている写真だった。片づいていない背景が、妙に安心できた。
佐伯から初めて、会社の外で会わないかと誘われたのは三月の終わりだった。写真展の招待券が二枚ある、と彼は言った。杏奈はすぐに返事をせず、翌日でもいいですかと聞いた。
彼はもちろん、と答えた。理由を求めなかった。
家に帰ると、杏奈は保留のフォルダを開いた。新しい人と出かける前に、古い写真を全部消すべきだろうか。そう考えている自分に気づき、携帯を閉じた。誰かと会う許可を、過去の整理からもらう必要はなかった。
翌朝、行きたいです、と返した。佐伯は日時と待ち合わせ場所だけを送ってきた。その具体性がありがたかった。
写真展には、知らない街の日常が並んでいた。壊れた椅子、洗濯物、窓から見える夕暮れ。大きな出来事ではないものが、一枚ずつ丁寧に残されていた。
杏奈は、同じ台所を十年にわたって撮った連作の前で長く立った。椅子が増え、減り、壁の色が変わっていた。最後の写真には人がいなかったが、空っぽには見えなかった。
「時間が、なくならないんですね」
杏奈が言うと、佐伯は写真を見たまま、変わるんでしょうね、と答えた。
出口の売店で、杏奈は台所の写真の絵葉書を買った。佐伯は別の一枚を選んだ。帰りの喫茶店で見せ合うと、彼の選んだのは、曇った窓越しの庭だった。
「きれいに写ってないところが、好きです」
その言い方を聞きながら、杏奈はこの人をもっと知りたいと思った。自分を救ってくれそうだからではなく、何を見るときに足を止める人なのか、知りたかった。
写真展の翌週、社内報の打ち合わせで、杏奈と佐伯は初めて意見が分かれた。工場で働く人の横顔を使いたい佐伯に対し、杏奈は作業の手元が分かる写真を推した。説明する記事なのだから、表情だけでは足りないと思った。
佐伯は自分の選んだ写真をすぐには引っ込めなかった。二人で紙面に置き、見出しを変え、縮小した見本を印刷した。最終的には手元の写真を大きくし、横顔を隣に小さく入れた。どちらかが相手に譲ったというより、二人の案が紙面の上で変わっていった。
「さっき、強く言ってすみません」
会議室を出るとき、杏奈はつい謝った。佐伯は強かったですか、と聞き返した。
「意見が違っただけだと思いました」
その晩、杏奈は自分が仕事の打ち合わせに、恋人との口論の続きを持ち込んでいたことに気づいた。意見を言うと機嫌を損ねる。異なる考えを持つことは、関係を危険にする。そんな身構え方は、相手が変わっただけですぐには消えないのだろう。
次の日、杏奈は謝罪の代わりに、写真を二枚使って分かりやすくなりましたね、と伝えた。佐伯はうなずき、見出しがよかったですと答えた。返事を聞いて初めて、杏奈は前日の会議を一つの終わった仕事としてしまうことができた。
春、佐伯ともう一度公園へ出かけた。会社の集まりの帰りではなく、最初から二人で。桜は半分ほど散り、池の端に花びらが集まっていた。
杏奈は元恋人とよく来た場所を避けていた。この公園にも一度来たことがあったが、今日はその理由で別の場所を選ばなかった。売店のソフトクリームの味も、池にかかる橋も、誰か一人のものではなかった。
佐伯はベンチに座り、杏奈の話を聞いた。仕事で新しい担当を任されたこと、難しそうだけれど引き受けたこと。彼は、忙しくなりますねと言ったあと、何が面白そうなのかを尋ねた。
杏奈は説明した。話しすぎたかと思うほど話したが、佐伯は途中で時計を見なかった。仕事を大事にしている自分を、言い訳せずに見せられた。
帰り際、彼が写真を撮ろうかと聞いた。携帯を手にしたまま、返事を待っていた。
杏奈は一瞬ためらった。撮れば、いつか消すかどうか迷う日が来るかもしれない。その可能性をなくしてから始められる関係はない。
「一緒に写りたいです」
佐伯は少し驚き、隣へ来た。肩が触れた。画面には、まだ慣れない距離の二人がいた。一枚目は佐伯が目を閉じ、二枚目は杏奈の髪が風で顔にかかった。三枚目を撮ったあと、二人は笑った。
その夜、杏奈は新しいフォルダを作った。名前は日付だけにした。永遠とか、最後とか、そういう約束を写真に背負わせたくなかった。
保留のフォルダも残っていた。そこへ新しい写真を隠す必要はなかったし、古い写真を全部消して場所を空ける必要もなかった。容量が足りない分は、外の記録媒体へ移した。
前の三年間は消えていなかった。これから増える時間も、その続きに置いてよかった。杏奈は佐伯へ写真を送り、今日は楽しかったですと書いた。言葉を大きくしなくても、その日の気持ちは十分に伝えられた。