三十一歳の梨央は、ジャズ喫茶でいつも一人分の注文をした。
水曜の夜、仕事帰りに駅を一つ通り過ぎる。地下へ降りる階段は急で、壁には古い演奏会のポスターが貼ってあった。店の名前は小さな真鍮の板にしか書かれていない。初めて来た日は、営業しているのかさえ分からず、扉の前で電話を見るふりをした。
今では入口に近い二人席が、自然に落ち着く場所になっていた。薄いコーヒーとチーズトースト。読もうと持ってきた本は、たいてい二ページで閉じた。
同じ夜に来る男性がいた。梨央より少し年上に見え、奥の壁際に座る。彼も本を持っていたが、ほとんど開かなかった。生演奏の日、曲が終わると二人とも少し遅れて拍手をした。まだ音が残っているところへ、手を入れたくない。そのためらいが同じなのだと、梨央は勝手に思っていた。
名前を知らないことは、不便ではなかった。職業も、家族も、ここへ来るまでの事情も知らない。店の外で会えば気づくかどうかも分からない。それくらいの距離を、梨央は大切にしていた。
三年前に婚約を解消してから、一人で過ごす時間を取り戻すのに苦労した。好きな音楽まで相手に説明する癖が残り、どこへ行くにも、誰かが納得する理由を探した。この店では、ただ座っていればよかった。
ある夜、男性が来なかった。空いた席に別の客が座り、曲の途中で伝票を落とした。梨央は音のせいではなく、いつもの位置にいつもの人がいないことを気にしている自分に驚いた。
次の水曜、彼は右手に包帯を巻いて現れた。梨央は会釈しかできなかった。階段の扉を押さえる彼へ、店主が、無理するなよと声をかけた。
帰り際、梨央は同じ扉の前で彼と一緒になった。
「お先にどうぞ」
彼が左手で扉を開けた。梨央は礼を言い、階段の途中で、手は大丈夫ですか、と尋ねた。
「料理で。たいしたことはないんです」
初めて近くで聞く声は、思っていたより低かった。外へ出ると、彼は左、梨央は右へ向かった。たったそれだけの会話が、帰りの列車でも何度も蘇った。
話しかけたからといって、次も話さなければならないわけではない。翌週、梨央はそう自分に言い聞かせた。彼が包帯の取れた手を少し上げると、結局、笑ってしまった。
五月の終わり、店主が入院した。店の入口に、手書きの休業予告が貼られた。手術の予定があり、しばらく店を閉めるという。最後の営業日は、娘さんが手伝いに来て、予約なしの小さな演奏会を開くと書いてあった。
梨央はその日、仕事を早く切り上げた。いつもの席は空いていたが、店内は普段よりずっと混んでいた。壁際の席には花束が置かれ、男性の姿はなかった。
開演の直前、扉が開いた。男性は満席の店内を見渡し、店主へ小さく手を振って帰ろうとした。梨央は考えるより先に、向かいの椅子を引いた。
「ここ、空いてます」
声が少し大きくなり、近くの客が振り向いた。男性は驚いた顔で礼を言い、鞄を膝に置いたまま座った。
「いつも、この席ですよね」
「そちらも。奥の」
二人は、互いをちゃんと見ていたことを、そこで初めて認めた。
彼はコーヒーを注文した。梨央はトーストを半分食べ終えていた。気を遣わせるかと思ったが、彼は夕食を済ませてきたと言った。何でも同じにしなくていいことに、梨央は少し安心した。
演奏が始まると、会話は途切れた。同じ音を向かい合って聞くのは、別々の席で聞くのとは違った。彼の指がテーブルの下で拍子を取る。難しい曲になると、少し眉を寄せる。梨央は、自分も同じような顔をしているのだろうかと思った。
休憩の間、好きな曲の話をした。彼は録音に入った咳払いや椅子の音が好きだと言った。
「その場に人がいた感じがして」
「私、拍手の直前が好きです」
「終わったか、まだ分からないところ?」
梨央はうなずいた。説明しなくても伝わったことがうれしかった。
店主は閉店の挨拶で、必ず戻るとは言わなかった。まず身体を治すこと、そのあとで店をどうするか考えることを話した。客たちは大きく拍手した。梨央も手を叩いたが、いつもの帰り道がなくなる寂しさを隠せなかった。
地上に出ると、湿った風が吹いていた。二人は、名乗るタイミングを逃したまま歩道に立った。地下であれほど話したのに、明るい街灯の下では、また顔見知りへ戻ったようだった。
「店、再開するといいですね」
彼が言った。梨央はうなずいた。それだけでは次がいつになるか分からなかった。再開しなければ、二度と会えないかもしれない。その可能性が、急に具体的になった。
「待っている間、別の店にも行きませんか」
彼は一度、地下への階段を見た。
「いいんですか」
「いいんです。私が誘ってるので」
言ってから、梨央は頬が熱くなった。彼は笑わず、うれしいです、と答えた。
三十五歳だという彼は、直樹と名乗った。仕事は印刷会社の営業で、店に来始めて一年ほどになる。梨央も名前を伝えた。連絡先を交換する手つきが互いにぎこちなく、それまで平気だった沈黙が、少しだけ落ち着かないものになった。
最初に行った店は、思ったより音が大きかった。料理の注文を伝えるのにも声を張り、二人は同時に聞き返した。梨央が選んだ店だったので、彼女は申し訳なくなった。
「ここ、外れでしたね」
直樹は首を振った。
「音楽を聞くにはいいと思う。でも今日は、話したかったんですよね」
その言い方で、梨央は自分が何を期待していたかを知った。店を評価するふりをして、初めての約束がうまくいくかを気にしていたのだ。
二人は一曲だけ聞いて外へ出た。近くの定食屋で、魚の焼ける音を聞きながら夕飯を食べた。音楽の話はほとんどしなかった。梨央の通勤電車、直樹の料理の失敗、二人とも観葉植物を枯らしたことがある話。知らないことが、いくらでもあった。
六月は予定が合わなかった。直樹は繁忙期に入り、梨央は父の通院に付き添う週末が続いた。一度、約束の前日に直樹から延期の連絡が来た。丁寧な文面だったが、代わりの日は書かれていなかった。
梨央は返事をしながら、これで終わるのだろうと思った。昔の婚約者は、忙しいと言い始めてから、彼女と過ごす時間を少しずつ減らした。その記憶を、目の前にいない直樹へ重ねていることには気づいていた。
それでも、別の日を提案するのは怖かった。断られる前に諦めれば、傷つかないという癖が残っていた。
三日後、直樹から電話をしてもいいかと来た。梨央は駅のベンチに座って電話を受けた。
「先の予定が決まらなくて、日を言えませんでした。でも、会いたくないみたいな連絡になったと思って」
梨央は、少しそう思いました、と答えた。無理に明るく言わなかった。
「待ってくださいって言うのも、勝手かなと」
「私も、自分で予定を入れます。でも、決まったら教えてほしいです」
直樹は分かりましたと言った。約束を取れたわけではなかったが、梨央は帰りの電車で気持ちが軽くなった。曖昧なことを全部、自分の価値の問題にしなくてもよかった。
次に会ったのは二週間後の日曜だった。昼のレコード店で待ち合わせ、試聴機を交互に使った。直樹が薦めた演奏を、梨央はあまり好きになれなかった。正直に言うと、彼は、どこが、と面白そうに聞いた。
「きれいすぎる気がする」
「なるほど。俺は、そのきれいさが好きなんだな」
意見が違っても、二人の間に冷たいものは流れなかった。梨央は彼の選んだ盤を買わず、自分で見つけた古い録音を買った。直樹も別の一枚を選んだ。袋を二つ持って店を出ることが、なぜかとても親しいことに思えた。
帰り道、直樹は、店に通う前は別の街に住んでいたと話した。長く付き合った相手と別れ、引っ越してきたのだという。梨央は自分の婚約の話を、簡単に伝えた。どちらも詳しい事情を尋ねなかった。
「一人でいるのが嫌だから、誘ったわけじゃないんです」
梨央は、言わなくてもいいことかもしれないと思いながら言った。
「一人で行く店も、これから持っていたい」
直樹はうなずいた。
「俺も。全部一緒だと、話すことがなくなりそうだし」
その返事に、梨央は思わず笑った。誰かと付き合うことを、生活の隙間を全部埋めることだと考えていた時期があった。今は、空いた場所を残したまま、隣に座る人を選んでもいい。
駅の改札で別れる前、直樹は次の休みを聞いた。梨央は手帳を開いた。父の通院と、一人で映画を観る予定の間に、まだ何も書いていない午後があった。そこへ彼の名前を書き込むことは、ほかの予定を消すことではなかった。
休業から三か月目、店の再開を知らせる葉書が届いた。営業日は週三日、演奏会は当分なし。店主の身体に合わせた、小さな再出発だった。
梨央は葉書の写真を直樹へ送った。彼からも、ほとんど同じ写真が届いた。二人は笑う顔の絵文字を一つずつ送り、水曜の夜に行くことを決めた。
当日、梨央は仕事で少し遅れた。地下の扉を開けると、直樹はいつもの奥の席ではなく、彼女の座っていた二人席にいた。向かいの椅子には何も置いていなかった。
店主は少し痩せていたが、声は変わらなかった。二人を見ても何も言わず、向かい合う二つの席へ水を置いた。
「先に頼んでてもよかったのに」
梨央が言うと、直樹はメニューを差し出した。
「今日は、何にするか聞きたくて」
梨央はいつものコーヒーにしようとした。それから、壁の新しい品書きに気づいた。店主の娘が焼いたというレモンケーキがあった。
「これも。半分じゃなくて、一つ食べたい」
「じゃあ、俺も一つ」
同じものを選んだのは、たまたまだった。分けても分けなくてもよかった。ここに来る理由を失うのが怖くて誘った夜から、二人は、店がなくても会う時間を作っていた。
レコードの針が降りた。店主はカウンターで静かに椅子へ座った。以前と違うところは、いくつもあった。違っていても、この場所へ戻ってこられた。
梨央は初めて、隣の注文を待ってからメニューを閉じた。直樹が顔を上げるまでの短い間に、急いで言葉を入れる必要はなかった。音楽が終わる直前のように、次に続くものを、二人で待っていられた。