三十九歳の校正者、紘子は、恋人からの手紙に誤字を見つけた。
『君といると、気が休まらない』。
誕生日の夜、台所の小さなテーブルで、そこだけ三度読んだ。便箋は薄い灰色で、罫線に沿って並ぶ文字の最後が少しずつ下がっていた。四十一歳の和臣は、普段なら「着いた」「あと十分」としか送ってこない。二年付き合って、手紙をもらうのは初めてだった。
続きには、会うと元気になる、長く一緒にいたいとある。文脈からすれば明らかな間違いだった。それなのに紘子の目は、その一行へ繰り返し戻った。
ケーキの箱を畳んでいた和臣が、どうしたと聞いた。紘子は何でもないと答え、便箋を封筒へ戻した。祝ってもらった晩に、赤字を入れるようなことはしたくなかった。
「明日の朝、早いんだっけ」
「配送の立ち会い。七時には現場」
「じゃあ、早く寝たほうがいいね」
言ってから、自分もまだ一緒にいたかったと気づいた。和臣は素直に時計を見て、食器を流しへ運んだ。引き留める代わりに、紘子はシャツの袖口が濡れると注意した。
翌朝、和臣を送り出してから仕事部屋に入った。出版社から届いた再校には、組版の乱れと固有名詞の表記揺れが残っていた。紘子は一本の鉛筆を削り、二時間かけて疑問点を拾った。曖昧な箇所には確認の付箋をつける。推測だけで正解にしてはいけない。その仕事の決まりを、彼の手紙にも使えばよかったのだ。
昼休み、編集者の新田から電話があった。紘子が指摘した一文について、著者は元のままにしたいという。
「読みづらいのは承知だそうです。でも、この人物は、ここでうまく話せないんですって」
紘子は原稿を開いた。確かに、息を継ぎ損なうような文章だった。主語を補えば通る。その補われた文章では、人物の焦りが消えることにも気づいた。
「分かりました。誤読の可能性だけ共有して、戻しましょう」
電話を切ったあと、彼女は手紙を取り出した。仕事であれば確認できることを、恋人にはできずにいる。聞いて本当に気が休まらないと言われるのが、怖かった。
夕方、和臣から配送が予定より遅れたと連絡が来た。紘子は、業者へ事前確認を入れるべきだった、と打ち始めた。送信前の画面に長い文章ができたところで、全部消した。
『明日、少し話せる?』
返事はすぐに来た。何かあった、という短い問いだった。紘子は、手紙のこと、とだけ返した。
翌日の夜、二人は和臣の部屋で向かい合った。テーブルの上には、彼が買ってきた惣菜と、紘子の持参した便箋が並んだ。手紙を差し出すと、和臣は最初の数行を読んで顔を覆った。
「気が休まる、だ。直したとき、変になった」
「最初、何て書いてたの」
「気を遣わなくていい、だった。でも、遣ってないみたいで変かと思って」
書き直しの跡は、よく見ると消しゴムで薄く毛羽立っていた。紘子はとうとう笑った。和臣も笑ったが、彼女が便箋をしまわないので、少しだけ背筋を伸ばした。
「分かってた。たぶん、間違いだって」
「たぶん?」
「でも、少しだけ本当のことも聞きたくなった。私といて疲れるとき、ある?」
和臣は、ない、と言いかけてやめた。窓の外で救急車が通り過ぎた。彼がそれを言い直すまで、紘子は箸を持たずに待った。
「仕事の話をすると、すぐ直し方を考えてくれるだろ。聞いてほしいだけの日もある」
「うん」
「昨日の配送も、俺が確認しなかったと思われるのかなって、一瞬、送るか迷った」
送らなかった文章を見られたようで、頬が熱くなった。
紘子は、役に立ちたかったのだと言おうとした。それは嘘ではなかった。でも、役に立ちたいという自分の気持ちが、和臣の疲れより先に来ていたかもしれない。
「仕事だと、間違いを残したら困るから」
「仕事では助かるよ。俺、君のそういうところ、尊敬してる」
「ここでも同じこと、してたんだね」
彼は少し考えたあと、いつもじゃない、と答えた。その留保を、紘子は訂正や慰めとして受け取らないようにした。
惣菜のかぼちゃを口に運ぶと、もう冷めていた。二人とも謝るために集まったのに、何に謝ればいいか、まだ全部は分かっていなかった。
和臣は内装会社で工程管理をしていた。紘子には、現場の人が時間どおりに動くよう調整する仕事、という程度の理解しかなかった。その夜、彼は初めて、若い作業員の失敗を元請けへどう説明したか、順を追って話した。
「俺が決めた順番で作業して、それで傷がついたんだ。でも本人は、自分の注意が足りなかったって言う」
紘子の頭には、責任の区分や記録の取り方が浮かんだ。どれも彼女の専門ではない。浮かんだというだけで、言う義務があるわけではなかった。
「その人を、かばいたかった?」
「かばうっていうか、俺の指示までなかったことになるのが嫌だった」
「うん」
「だけど、説明すると言い訳みたいになってさ」
紘子は、悔しかったね、と言った。
和臣の肩が少し下がった。返事はそれだけでよかったのか、と拍子抜けするほどだった。彼はお茶を飲み、若い作業員が最後に使った道具を全部拭いて帰った話を続けた。失敗の話の中に、誰かを好きでいる理由まで入っていた。
帰り際、紘子は玄関で振り返った。
「私も、仕事の愚痴を言うとき、解決してほしいとは限らないかも」
「そうだろうね」
「分かってた?」
「だいたい。でも、分からないときは聞く」
和臣は靴べらを戻した。紘子は、自分だけが不器用だったという話にもしたくなかった。二人とも、分かったつもりで省いてきた部分があったのだ。
それから一週間、紘子は不自然なほど相槌だけを打った。和臣が、風呂場の棚の寸法を測り間違えた、と言っても、困ったね、と答えた。彼はしばらく黙り、それから笑いをこらえきれないように口元を押さえた。
「これは相談。返品できるか、一緒に見てほしい」
紘子は耳まで熱くなった。
「全部、聞くだけにすればいいと思った」
「急に正解を一個にしなくても」
二人で購入履歴を開いた。返品条件を確認する作業は、紘子には得意だった。和臣は感心して礼を言い、彼女も少し安心した。直すこと自体が間違いだったのではない。求められているかを確かめる一言が抜けていた。
その次の金曜、今度は紘子が電話をかけた。担当した本の奥付に、校了後に入った誤りが見つかったのだ。紘子の見た版にはなかった。それでも、もっと確認を申し出ていればという考えが離れない。
「聞くほう? 一緒に考えるほう?」
和臣が尋ねた。
紘子は、まず聞いて、と答えた。なぜなら、考えることなら一日中やっていたからだ。悔しいこと、不安なこと、誰の責任かを口にする自分が嫌なこと。話すうちに、胸の中で一塊だったものが、少しずつ別の形になった。
和臣は専門用語を知らなかった。だから途中で、校了とは何かを聞いた。紘子は説明した。相手に分からせようとして説明しているうちに、自分の仕事の範囲も見えてきた。
「明日、編集者に経緯だけ聞いてみる」
「うん」
彼は、その結論を自分の手柄にしなかった。
その週末、紘子は母へ電話をした。子どものころから、母は答案の間違いを一緒に探してくれる人だった。満点を取るとうれしそうにして、紘子もその顔を見るのが好きだった。今まで、それを窮屈な記憶だと思ったことはない。
「お母さんって、私が相談すると、いつも方法を考えてくれたね」
「そうね。ほかに何をしてあげればいいか、分からなかったから」
意外な返事だった。母は自信を持って教えていたのだと、紘子は思っていた。
「ただ聞いてほしいときも、あった?」
「たぶん。でも、助かったこともいっぱいあるよ」
受話器の向こうで、母が湯飲みを置く音がした。紘子は母を責めるために電話したのではなかった。自分が覚えた愛情の形を確かめ、それ以外も選べると知りたかった。
母は最近、町内会の役を引き受けたという。誰もやらないので仕方なく、と言いながら、配りものの仕分けに工夫をした話は楽しそうだった。紘子は、断ればよかったのにとは言わず、どんなふうに分けたの、と尋ねた。
電話を切るころには、予定より二十分長く話していた。疲れてはいなかった。相手の話を、自分の答えへ運ばなくても会話は進む。そのことが、少し面白かった。
夜、和臣にその話をすると、彼は母親の工夫を詳しく聞いた。現場の書類にも使えそうだという。紘子は笑いながら、今度、本人に聞いてあげて、と言った。三人で食事をする日は決めていなかったが、その先の場面を、以前より自然に思い浮かべられた。
一か月後、和臣が棚を組み立てに来た。紘子の仕事部屋には、読みかけのゲラと本が積まれていた。手伝いの礼に夕飯を作ると約束していたが、仕事が長引き、冷蔵庫には卵としなびた小松菜しかなかった。
「段取りが悪かった」
紘子が言うと、和臣は床に座ったまま、今日は棚が完成したから十分、と答えた。
二人で小松菜を選り分け、卵を焼いた。和臣の卵焼きは端が少し破れた。紘子は巻き直し方を言いかけ、それより先に、自分が皿を用意すればいいと気づいた。
食後、新しい棚へ本を移していると、灰色の封筒が落ちた。和臣は拾って、まだ持ってるのか、と照れた顔をした。
「書き直すよ。ちゃんとしたの」
「これは、これでいい」
「でも、誕生日の手紙なのに」
紘子は便箋を広げた。問題の一行は、まだ同じ位置にあった。正しい文字を書き足すことも、線を引くこともしなかった。
「間違いがあるのが好きなんじゃないよ」
彼女は言った。
「この話をできたことを、残しておきたい」
和臣は黙ってうなずいた。紘子も、その沈黙に適切な説明を足そうとはしなかった。
窓の外は暗くなり、向かいの建物の廊下に灯りがついた。二人の夕飯は簡単で、新しい棚にはまだ空きがあった。紘子は手紙を封筒へ戻し、いちばん取り出しやすい場所に置いた。
誤字を直した日ではなく、互いの疲れ方を知った日を、忘れたくなかった。和臣が帰るまであと三十分あった。今度は早く寝たほうがいいと言わず、もう少しここにいて、と頼んだ。