三十五歳の理央は、恋人の転勤を聞いて、笑顔を作った。
三十八歳の健は、地方に新しく開く資料館で、古い写真を整理する仕事を任された。彼が長くやりたかった仕事だった。求人ではなく、勤務先からの正式な異動で、少なくとも三年はその街に住むという。
「よかったね」
理央が言うと、健は肩の力を抜いた。その顔を見て、寂しいという言葉を出しそびれた。応援したい気持ちは本当だった。寂しさも、それと同じくらい本当だった。
食事のあとで二人は地図を開いた。新幹線から在来線に乗り換え、駅からさらにバスで二十分。地図の上では指一本で行き来できる距離を、理央は何度もなぞった。
「一度、来てみない?」
健が言った。部屋探しと、少しの観光を兼ねてという。理央は仕事の予定を確認し、引っ越しの週末なら手伝えると答えた。旅行という言葉を避けたのは、楽しいことだけを期待したくなかったからだった。
二人は付き合って四年になる。同棲はしていなかったが、金曜の晩はたいてい健の部屋で過ごした。どちらも疲れているときは、弁当を二つ買って、見たことのある映画を流した。
特別な思い出を聞かれると困るような時間だった。けれど理央には、その何でもない金曜が、自分の一週間の終わりとして必要だった。
異動が決まってから、健の話は荷造りや手続きが中心になった。理央も段ボールを分け、要らない食器を引き取った。片づけの手順を考えていれば、急に泣き出さずにいられた。
ある晩、健が二枚の皿を新聞紙で包もうとした。それは理央が選んで買った皿だった。ずっと彼の部屋に置いていたので、健は自分の荷物として持っていくつもりだった。
「それ、一枚こっちに置いていって」
理央が言うと、健は包みかけた手を止めた。
「二枚一緒のほうがいいと思った」
「私も使いたいから」
皿については、それで話が終わった。理央は一枚を自分の鞄へ入れた。離れる前から何でも半分にしているようで嫌だったが、どちらかの家に全部をまとめる必要もない。
帰宅して、その皿に翌朝のパンを載せた。昨日まで恋人の部屋にあったものが、自分の暮らしの中に置かれる。それは、関係がなくなることとは違うのだと思いたかった。
引っ越しの手伝いで、二人は初めてその街へ行った。健は以前、仕事の打ち合わせで訪れていたが、休日の商店街を歩くのは初めてだった。理央の切符だけ、帰りの分があった。
電車で健は窓の外をよく見ていた。理央は仕事の原稿を読むふりをしていたが、同じ段落から先へ進めなかった。彼が指さす建物を見逃し、もう一度説明してもらった。
「疲れてる?」
「少し」
嘘ではなかった。だが、疲れだけではなかった。
新しい駅の階段を下りると、潮の匂いがした。駅前には観光案内所と古い時計台があり、バス停の時刻表は思っていたより空白が多かった。健は乗り継ぎを調べ、理央は近くの店で昼食を買った。
自分たちが買った包みを、地元の人は迷いなく別の出口へ運んでいく。理央には、この街のどこが生活の中心なのかまだ分からなかった。これから健は、分かるようになるのだろう。
新しい部屋には、まだカーテンがなかった。夕方の光が直接入り、床の段ボールを照らした。部屋の真ん中で拍手をすると、少し響いた。
「広いね」
「家賃は前より安い」
健が窓を開けた。遠くで船の汽笛が鳴った。その音を聞いて、彼の顔が明るくなった。理央は好きな人が楽しそうであることを、寂しいと感じる自分に戸惑った。
荷物が届くまで、二人は町を歩いた。健の勤務先になる資料館は、古い倉庫を改修していた。入口には工事用の柵があり、中へは入れなかったが、窓の向こうに新しい展示台が見えた。
健は、ここに昔の港の写真を並べたいと話した。今は更地になっている市場や、地元の人しか知らない祭りの記録がある。名前の分からない人物を、覚えている人が来てくれるかもしれない。
理央は彼の横顔を見た。都内で一緒にいるとき、健は仕事の愚痴を話すことが多かった。今は、まだ起きていないことを楽しそうに話している。
「ここへ来たかったんだね」
「うん」
即答だった。理央はその返事を聞いてから、今日初めて素直に笑った。彼が望んだ場所を、自分の寂しさだけで悪い場所にしたくなかった。
近くの喫茶店で休んだ。店の壁には、改修前の倉庫の写真が掛かっていた。健は立ち上がって見に行き、店主に撮影時期を尋ねた。話が長くなり、理央のコーヒーが半分になるころに戻ってきた。
「ごめん」
「仕事が始まってたね」
冗談のつもりだったが、少し尖った声になった。健は椅子を引く手を止めた。理央は笑って取り消すのをやめた。
「今日だけは、私もここにいること、忘れないで」
健はうなずいて、彼女の席の隣に椅子を寄せ直した。さっきまで二人を隔てていたテーブルの幅が、少し狭くなった。
夕方、荷物が届いた。二人は家具を動かし、窓の寸法を測った。カーテンは健が前の部屋で使っていたものでは足りなかった。今夜は寝室側だけ掛け、居間は明日買いに行くことにした。
理央は段ボールの底を畳みながら、帰りの電車の時刻を頭の中で確認した。明日は昼過ぎには出なければならない。買いものをして昼食を取れば、時間はほとんど残らなかった。
「やめてって、言われるかと思った」
健が突然言った。
理央はガムテープを切る手を止めた。
「言いたくなるよ。でも、言わないことを、平気だと思わないで」
健は彼女を見た。窓から入る光が弱くなり、部屋の隅が先に暗くなっていた。
「よかったねって言ってくれたから」
「よかったとは思ってる。だから、寂しいって言うと、取り消すみたいで言えなかった」
健は床へ座った。理央も隣に座り、二人の間にカッターを置いた。片づけを続けながら話せることではないと、どちらも分かっていた。
健は、遠くても大丈夫だと思いたかったと言った。理央が賛成してくれれば、不安が一つ減る気がしたのだという。
「私の不安は、減らなかった」
理央が答えると、彼は小さくうなずいた。
一緒に来てほしいと思ったことはあるかと、理央は尋ねた。健はあると答えた。ただ、理央が今の仕事を好きなことを知っていた。言えば負担になると考え、言わなかった。
「聞いてくれてもよかった。断ることも、自分で決めたい」
理央はそう言って、自分も彼の希望を推測して黙っていたことに気づいた。二人とも相手を困らせないつもりで、相談できることを減らしていた。
夕食は、駅前で買った惣菜を床に広げた。小さなテーブルはまだ組み立てていなかった。健が持ってきた一枚の皿に魚を載せ、理央は紙の容器から野菜を食べた。
これからのことを、少しずつ決めた。毎晩の電話は約束しない。疲れて話せない日は、そのことを短く伝える。会いに行く費用は一人だけで抱えず、日程と一緒に相談する。
話している途中で、理央は会議みたいだと笑った。健も笑ったが、決めておかないと、お互い勝手に無理をしそうだと言った。
その通りだった。理央は月に二回は行けると言いかけ、自分の休日を確認し直した。無理をして約束を守り、そのことをあとから愛情の量として数えたくなかった。
翌朝、二人でカーテンを選んだ。健は理央の好みを聞き、彼女は彼がこの部屋で朝を迎えることを思って、明るい色を勧めた。相談されるのはうれしい。けれど最後は、健に選んでもらった。
帰り道のパン屋で、二人は別々の袋を受け取った。一つは健の翌日の朝食に、もう一つは理央が電車で食べるために。店員は二人を旅行客だと思ったのか、よい旅をと言った。
理央は、はい、と答えた。これも旅なのだと思った。行った先に誰かを残し、自分は自分の家へ帰る旅だった。
駅で別れる前に、次に会う日を決めた。大きな約束より、買える切符が必要だった。
最初に健が挙げた週末は、理央に仕事があった。その次は健の資料館の準備が忙しい。カレンダーを見比べているうちに、初めて会える日は一か月以上先になった。
理央は、その遠さに黙った。健も、すぐだよとは言わなかった。
「長いね」
彼が言った。理央はうなずいた。同じ長さだと分かっただけでも、少し楽になった。
改札の前で抱き合った。通り過ぎる人にぶつからないよう、一度離れた。それから理央は、自分からもう一度彼の腕に触れた。別れを上手に終わらせる必要はなかった。
車内で理央は泣いた。健に連絡するか迷い、『今、寂しい』とだけ送った。
『俺も。でも来てくれてうれしかった』
その返事で、涙は止まらなかった。止めてもらうためだけに、気持ちを伝えるのではない。理央は携帯電話を伏せ、窓の外を見た。健がこれから何度も眺める街が、後ろへ流れていった。
日が落ちるころ、健から写真が届いた。新しいカーテンが窓に掛かっていた。長さは合っていて、裾に夕日の色が残っていた。理央は自分の車窓を撮り、暗くなりかけた空を送った。
窓の外がすっかり暗くなったころ、理央はカレンダーを開いた。次に会える週末は、二人の街の中間にある温泉町へ行くことにした。どちらかが相手の生活に訪ねていくのではなく、二人とも旅行鞄を持って出かける。
健と短いやり取りを重ね、帰る日をそろえた。次の切符は、二人で同じ日に帰る旅行のために買った。帰る場所は違っていても、駅で見送る役をいつも一人が引き受ける必要はない。
自宅に着くと、流しの横にあの皿があった。出発前に洗って伏せたものだった。理央はパンを半分載せ、お湯を沸かした。片づけるのは明日にしようと思った荷物が、玄関に置いてある。部屋は出発した朝と同じだったが、帰ってきた自分は少し疲れ、少し違っていた。
健から、夕飯を作ったと連絡があった。彼が選んだ皿には焼きすぎた卵が載っていた。理央は笑い、無事に着いたと返した。
寂しさはまだあった。それをなくす約束は、二人ともしていない。明日の仕事と、その先にある切符を思いながら、理央は自分の部屋の灯りを一つずつ消した。