三十二歳の編集者、沙耶は、共同オフィスの向かいの人に、毎週ホチキスを借りた。
本当は持っていた。引き出しの奥で、同じものが静かに眠っていた。針も十分に入っている。借りる前に自分のものが壊れていないことを確かめるようになってから、沙耶は少し後ろめたかった。
三十四歳の、製図の仕事をする彼は、毎回、針の残量を確かめて貸した。向かいといっても机は斜めに並んでいて、声をかけるには椅子から一度立たなければならない。
「また借りてもいいですか」
彼がうなずく。沙耶は二十枚ほどの資料を留め、お礼を言って戻す。その間に、一分くらい話をした。今週は遅いですねとか、今日は外が寒いですねとか。たいした内容ではなかった。それでも、彼が手を止めて顔を上げるのがうれしかった。
沙耶は昨年から独立していた。前の会社では、隣の人へ気軽に話しかけることができた。誰かの買ってきた菓子を分け、会議のあとで短い愚痴を言う。仕事に必要ではない会話が、一日のあちこちにあった。
一人で仕事を始めると、その隙間がなくなった。打ち合わせでは用件を話し、電話を切れば部屋が静かになる。共同オフィスを借りたのは、机を広くしたいからでも、通勤する場所が欲しかったからでもあった。
最初の日、沙耶はプリンターの使い方に困った。向かいの彼が操作を教えてくれた。彼も最初は分からなかったと話し、間違えた印刷物を捨てる箱を示した。
その箱に大きな図面が何枚も入っていて、沙耶は仕事を尋ねた。彼は模型を作るための図面を引いていると答えた。沙耶が編集している本とは違う世界だったが、細かな修正が最後まで続くところは似ていた。
それから挨拶をするようになった。だが、机の上にヘッドホンを置いている日は声をかけにくかった。仕事中に雑談をしたくない人かもしれない。沙耶は、その人に合わせる理由を考えているうちに、文房具を借りる方法を見つけた。
自分のホチキスを使えばいい。そう思うたび、今日は借りずに帰ろうと決めた。ところが彼が席を立つ気配を感じると、急いで資料をまとめてしまった。
ある水曜、二人だけが遅くまで残った。窓に外の景色ではなく、机の明かりが映っていた。
彼は大きな紙を広げ、定規を使って線を引いていた。沙耶は原稿を読み、同じ表現が何度出てくるか調べていた。静かな部屋で、紙をめくる音が交互に鳴った。
沙耶が目をこすっていると、彼が給湯室へ行くと言った。何か飲むかと聞かれ、沙耶はお茶を頼んだ。彼はマグカップを持って戻り、机の端へ置いた。
「夜までだと、誰かいると助かりますね」
彼が言った。沙耶は、私も、と答えた。自分だけが彼の存在を気にしているわけではないらしかった。
もう少し話したかったが、彼は仕事へ戻った。沙耶も原稿を開いた。沈黙が嫌になったわけではない。話しかけるとき、仕事の邪魔にならない確かな口実が欲しいだけだった。
帰り際、沙耶はいつものようにホチキスを借りた。彼は残った針を見て、そろそろ補充しなければと言った。自分が毎週使っているせいかと思い、沙耶は針を買って返そうかと尋ねた。
彼は、そんなに減っていないから、と笑った。沙耶も笑いながら、ますます借りづらくなる気がした。
ある晩、彼が帰ったあと、机の上に新品のホチキスが置いてあった。付箋には、『あげます』とだけあった。
沙耶は鞄を置き直して、それを手に取った。彼が持っているものと同じ色だった。文房具店へ行ったついでに買ったのかもしれない。毎週借りに来る人へ、これがあれば困らないだろうと思ったのだろう。
親切だった。十分に親切だったから、沙耶は悲しくなった自分を持て余した。その親切で、話しかける理由を失った。
自分のホチキスと並べると、同じ大きさの道具が二つになった。彼は沙耶が本当に困っていると思っていたのだ。借りているふりをしていたことが、急に相手を騙したように感じられた。
礼を送ろうと連絡先を開いても、共同オフィスの連絡用の一覧しかなかった。そこから私用の話を始めるのは違う気がして、明日直接言うことにした。
帰宅してからも、付箋の短い文字を思い出した。嫌だったのなら、こんなふうに新品を贈るだろうか。親切なだけなら、それ以上を期待するのは迷惑だろうか。考えるほど、本人にしか分からない問いが増えた。
沙耶は翌日の資料を一度だけ自分のホチキスで留めた。小さな音が、いつもより大きく聞こえた。
翌日、思いきって礼を言った。彼は少し困った顔をした。
「嫌でした?」
「助かりました。でも、もう借りに来られない」
言ってしまってから、沙耶は机を見た。言葉の意味を訂正することはできた。借りる手間がなくなって助かった、そう言い直せばよかった。
彼はしばらく何も言わなかった。沙耶は黙ったまま待つのがつらくなり、実は自分でも持っていたと話した。
「持ってるのに、借りてました。すみません」
彼は目を丸くし、それから引き出しを開けた。使わない穴あけパンチが三つ入っていた。
「実は、こっちから貸してもらう理由を探して、失敗してました」
沙耶はその意味を考え、並んだ三つの道具を見た。同じような形なのに色が全部違った。彼は買うたびに、この人は持っているだろうかと考えていたという。
「借りる理由なのに、買ってしまって」
彼が言った。沙耶はとうとう声を上げて笑った。彼も笑った。共同オフィスなので小さな声にしようと、二人同時に周囲を見た。
受付の人がこちらを見て、何も言わず笑った。沙耶は恥ずかしくなったが、笑ったことまで取り消したくはなかった。
その日の夕方、二人は食事へ行く約束をした。
仕事が終わる時刻を確かめ、近くの店を二つ挙げた。彼は苦手なものを聞き、沙耶は量の多すぎない店がよいと答えた。仕事中には一度も話さなかった種類の相談だった。
約束をしたあとも、すぐに仕事は終わらなかった。沙耶には急ぎの確認が届き、彼にも修正の電話が入った。二人は一度予定を遅らせ、九時までかかるなら別の日にしようと決めた。
沙耶は焦った。今日を逃すと、また文房具の話しかできなくなる気がした。だが彼は、今日は無理なら金曜が空いていると、先に次の日を出してくれた。
借り物を返すための一回きりの約束ではないのだと思うと、肩の力が抜けた。沙耶は原稿へ戻り、必要な確認を終わらせた。彼も電話を切り、片づけ始めた。
オフィスを出るとき、沙耶は新しいホチキスを自分の鞄に入れた。彼は穴あけパンチを一つしまった。どちらも、その夜の食事には要らなかった。
店まで歩く間、二人は店を知らずに通り過ぎたことや、駅の階段の位置について話した。会話を続けるための立派な話題は、なくてもよかった。
店でメニューを開くと、二人ともすぐには注文を決められなかった。沙耶は彼が選ぶのを待ち、彼も沙耶の好みを聞こうとしていた。
「自分の食べたいもの、言いますね」
沙耶が言うと、彼はほっとしたように笑った。二人は一皿ずつ選び、分けてもよいか確かめた。全部を同じにしなくても、並んで食べられた。
仕事以外の話は、思っていたより少しぎこちなかった。彼は古い橋を見るのが好きで、沙耶は休日に長い散歩をするのが苦手だった。反対に、二人とも同じラジオ番組を聞いていた。
「向かいで、それぞれ聞いてたんですね」
沙耶が言うと、彼はヘッドホンを指さす真似をした。仕事へ集中するためだけではなかったのだ。沙耶が話しかけないよう気にしていた物の意味が、少し変わった。
彼は、黙っている人だと思われることが多いと話した。話したくないのではなく、相手が忙しいと思うと、最初の一言が出にくいという。沙耶も、用事のない話を始めるのが難しかったと答えた。
道具を借りなくても、誘ってよかった。仕事の話をしなくても、隣に座ってよかった。その簡単なことを、二人とも、店のメニューを閉じるころにようやく信じた。
食事を終えた帰り道で、二人は私用の連絡先を交換した。オフィスの一覧にある仕事の番号ではなく、それぞれが選んで画面を差し出した。彼は何時ごろなら連絡してよいか尋ねた。沙耶は夜でも構わないが、返事が翌日になることもあると答えた。彼も同じだと言った。その返事に、二人でうなずいた。
駅で別れたあと、沙耶は電車の中で短い礼を送った。彼からは、自分も楽しかったと返ってきた。次の約束をすぐ決めなければと思ったが、その日はそれで画面を閉じた。楽しかったという返事を、そのまま受け取るだけの夜があってもよかった。
家へ帰ると、鞄から新しいホチキスを出した。付箋はまだ付いたままだった。沙耶はそれを手帳の裏へ貼り直した。借りる用事がなくなった日が、話すための用事を探さなくなった日でもあった。短い文字の意味は、渡されたときとは少し変わっていた。
翌週、沙耶は一度もホチキスを借りなかった。自分のものを使い、新しいものは予備として鞄に入れた。理由がなくても、昼休みに一緒にお茶を飲まないかと声をかけた。
彼はその日は打ち合わせがあると答え、明日ならと言った。沙耶は分かったと返した。断られたあとに気まずくならず、原稿へ戻れたことがうれしかった。
次の日、二人は給湯室の小さな台でお茶を飲んだ。彼の机の引き出しから穴あけパンチが減っていたので、沙耶が尋ねると、オフィスの共用に二つ置いたという。
「一つは残したんですね」
「仕事で使うので」
彼は真面目に答え、それから自分でも笑った。沙耶も笑った。何かの象徴にしなくても、道具は道具として役に立つ。
帰りの約束をする前に、二人はそれぞれ仕事の予定を確認した。机の向こうに気になる人がいても、ずっと相手の様子を見ていなくてよかった。会いたい時間は、言葉にして決められる。
沙耶の引き出しには、最初から持っていたホチキスが残っていた。新しいものと並べると、同じ形の道具が二つある。そのどちらを使っても、もう彼に話しかける理由を失うことはなかった。