三十一歳の栞は、恋人へ雨音を送った。ベランダの屋根をたたく、単調な音だった。
夕飯の皿を洗っていると、急に雨が強くなった。窓を閉めようとして立ち止まり、携帯電話の録音を始めた。二十三秒。途中に冷蔵庫の音が入ったが、録り直さなかった。
海外赴任中の三十五歳の亮から、すぐには返事がなかった。時差を知っているのに、送信済みの表示を見る。向こうは仕事の時間で、自分は風呂に入り、眠るまでの一時間を持て余していた。
説明を付けるつもりはなかった。こちらは雨だと伝えるだけなら、天気の情報で済む。聞いてほしかったのは、この部屋で一人で聞いている音だった。
亮が出発して八か月になる。最初のころは互いの食事や部屋の写真を送り合った。見慣れないパン、台所の使いにくい蛇口、窓から見える道路。栞も近所の工事の進み具合や、新しく買った椅子を撮った。
三か月ほどたつと、珍しいものが減った。亮の仕事は忙しくなり、栞も年度末の引き継ぎを抱えた。二人の会話は予定の確認と体調の話が中心になった。
最近、会話の終わりがいつも『頑張って』だった。
頑張っていることは知っていた。それ以外に、渡せる言葉がなかった。疲れている人へ長い話をするのは申し訳ない。自分が寂しいと言えば、亮が仕事を続けるために余計な荷物を背負う気がした。
その結果、栞は元気だという短い報告ばかり送った。亮も大丈夫だと答えた。二人とも大丈夫なはずなのに、電話を切ったあとの部屋は、以前より広く感じられた。
雨音を送った夜、栞は追加の文章を書いた。疲れているなら返事は要らないよ。書き終えてから、それでは何を送っても返事を待てなくなると思い、消した。待つのは自分の自由で、相手へ急がせることとは違う。
携帯電話を充電器へ置き、栞は布団に入った。屋根の雨音は、録音したときより弱くなっていた。
翌朝、録音が返ってきた。鳥の声と、遠い車の音。亮は何も説明しなかった。
栞は歯を磨きながら、それを二回聞いた。鳥の声は知らない種類で、車の音は日本で聞くものと似ていた。最後に鍵を回す小さな音がした。亮が部屋へ戻る途中で録ったのだろう。
『どこ?』
そう送ろうとして、やめた。場所を正確に知らなくても、彼の一日の終わりにそこにあった音だとは分かった。
通勤電車で、もう一度聞いた。隣の人に聞こえないくらい小さな音量で、知らない街の朝か夕方を耳に入れた。励ましの言葉が一つもないのに、亮がいつもより近く感じられた。
昼休み、栞は駅の売店で買ったパンの袋を開けた。かさりと鳴った音を録ろうかと考え、自分でもおかしくなった。何でも届ければよいわけではない。送らないで自分だけで持つ時間もある。
その晩、亮から短いメッセージが来た。昨日の雨、よく聞こえた、とあった。栞は、こちらも鳥がよく聞こえたと返した。二人は音の説明より先に、同じものを聞けたという報告を交わした。
日曜、二人は電話をした。栞の昼食と亮の朝食が重なる時間だった。画面の中で、亮はトーストを焦がしていた。以前なら笑って話題にしたことを、栞は久しぶりに見た気がした。
仕事はどうかと聞くと、亮は忙しいと答えた。栞の口から、いつもの頑張ってが出そうになった。
「最近、励ますのが苦しい」
代わりに、そう言った。
亮が画面を見た。責められたと思わせたかもしれないと、栞は急いで続けた。
「私に頑張れって言われても、休めないでしょ。分かってるのに、ほかのことが言えなくて」
亮は少し黙った。栞は返事を待った。画面の向こうで皿を置く音がした。
「休みたい」
亮が言った。
初めて聞く言葉ではなかった。でも、初めて聞き流さなかった。栞は、あと少しだねとか、帰ってきたら楽しもうとは言わなかった。
「何もしないで、眠りたい?」
亮はうなずいた。仕事が嫌いになったのではなく、何も起きていない時間にも、次に説明する言葉を考えてしまうという。向こうの言葉を使う生活は慣れたが、慣れたから疲れないわけではなかった。
栞はその話を聞き、出発前に亮が不安を話していたことを思い出した。自分は、きっとすぐ慣れるよと励ました。その言葉が間違いだったのではない。ただ、そのあとで彼が慣れるまでに何をしていたか、あまり尋ねていなかった。
来月、亮は一週間だけ帰国する予定だった。栞は有給休暇を取り、二人で温泉へ行く案を作っていた。宿はまだ予約していなかったが、交通の時刻まで調べてあった。
その画面を見せる前に、栞は旅行へ行く元気があるかと聞いた。亮は、行きたいけれど、行って疲れるかもしれないと答えた。
栞は少し残念だった。二人の時間を楽しみにしてきたことまで消したくはなかったので、それも話した。
「でも、旅行に行かないと、一緒にいたことにならないわけじゃないね」
亮は、家で雨音を聞くのもよさそうだと言った。栞は、帰国の日が晴れたらどうするのと笑った。
二人は予定を一つずつ減らした。友人との集まりは、亮が本人たちへ連絡する。栞が代わりに断る必要はない。実家へ帰る日は変えず、ほかの日は何も予約しない。家で過ごし、外へ行きたくなったら、その日に決める。
栞は白くなった予定表を見て、少し怖くなった。亮が一日中眠っていたら、自分は寂しくなるかもしれない。そう言うと、亮は、起きている時間に話そう、と答えた。全部の時間を二人で埋める約束ではなかった。
栞も、休暇の一日は一人で本屋へ行くことにした。彼を休ませる係として待っているのではなく、自分の休日を持っていてよかった。
帰国前の金曜、栞は冷蔵庫を片づけた。亮が好きだった調味料の瓶を見つけ、まだ同じものが好きなのか分からないと思った。海外の食事に慣れて、好みが変わっているかもしれない。
写真を送って尋ねると、亮は懐かしいと返した。それから、今は別の味も好きだと、見たことのない瓶の写真を送ってきた。栞は帰ってきたら教えてと答えた。昔の彼に戻ってもらうためだけに迎えるわけではない。知らない八か月を持った人と、また食卓に座るのだ。
自分の変化もあるかと考え、栞は前より早く眠るようになったことを話した。亮が夜更かししても付き合わないかもしれない、と付け加えると、彼は自分で本でも読むと答えた。小さな変更を先に知らせておくだけで、帰国後の時間が少し想像しやすくなった。
部屋を完璧に片づけるのはやめた。普段読んでいる本を机へ戻し、玄関の靴を一足分だけ寄せた。彼が入る場所は作る。そのために、今の自分が暮らしている跡まで消さなくてよかった。
帰国までの三週間、音のやり取りは毎日にはならなかった。
亮から届いたのは、駅の案内、宿舎の廊下を掃除する音、遠くで鳴る鐘だった。栞は洗濯機の終わった合図や、近所の子どもが練習する笛を送った。どちらも、人の会話がはっきり入らない短い部分だけ選んだ。
ある夜、亮の録音の最後にため息が入っていた。栞は、疲れているのかと聞いた。亮は、少しだけ、と答えた。栞はすぐ電話をしようとしたが、今話したいかと先に確かめた。
今日は眠りたい、明日なら話せる。そんな返事をもらうのに、以前ほど落ち込まなくなった。断られたのは自分ではなく、今夜の電話だった。
栞にも、話す元気のない日があった。職場で小さな行き違いが続き、説明をすること自体に疲れた。亮へ、今日は聞くだけにしたいと送った。彼から届いた録音は、やかんが鳴る音だった。
何でも慰めの材料にしなくていい。二人は別々の部屋でお湯を沸かし、別々の飲み物を飲んだ。離れていることは変わらなかった。それでも、元気な自分だけを画面へ出さなくてよくなった。
帰国した日、雨が降った。
亮は予定より遅い電車で着いた。栞は駅まで迎えに行くつもりだったが、彼から家で待っていてと連絡があった。迎えが不要なことを寂しさに結びつけかけ、夕飯の鍋へ目を戻した。
玄関が開くと、亮は大きな鞄を置き、ただいまと言った。栞はおかえりと答えた。画面で何度も見ていた顔なのに、肩の幅や、靴を脱ぐときの体の傾きが、少し懐かしかった。
亮は荷物も開けず、ベランダの前に座った。屋根をたたく雨音に耳を傾けた。
「これだったんだ」
彼が言った。栞も隣へ座り、録音しようとした携帯電話を伏せた。
同じ音を、同じ場所で聞いている。今日は送る必要がない。そのことを二人で、しばらく味わった。
夕飯の前に亮は眠った。栞は一人でスープを温め直し、本を読んだ。寂しさがまったくないわけではなかったが、予定を減らしたことを失敗だとは思わなかった。
夜中に亮が起き、二人で少しだけ食べた。彼は仕事の話をしなかった。栞も帰国の感想を求めなかった。近所のパン屋が店を広げたことや、冷蔵庫の棚が外しにくいことを話した。用意していない話題が、二人の間に戻ってきた。
翌日は晴れた。栞が本屋へ出かけると言うと、亮も途中まで歩きたいと言った。公園の入口で別れ、栞は予定どおり一人で本を選んだ。彼と過ごせる時間が短いからといって、一時間を自分で使うことまで損失にはならなかった。
夕方に帰ると、亮は洗濯物を畳んでいた。何もしていないと落ち着かなくて、と彼は笑った。休むのは苦手なんだね、と栞が言うと、亮はそうみたいだと答えた。
二人は、その苦手さまで一週間で直そうとはしなかった。明日も家にいようか、散歩だけしようか。その程度の相談をした。
最後の夜、また小さな雨が降った。亮が携帯電話を持ち、二十三秒だけ録った。栞は何に使うのか尋ねなかった。送る相手がいない場所でも、残しておきたい音はある。
翌朝の駅で、栞は頑張ってと言いかけた。代わりに、疲れたら疲れたって言ってね、と伝えた。亮はうなずき、そっちも、と答えた。
見送ったあと、栞の携帯電話に前夜の雨音が届いた。途中に二人が笑う小さな声が入っていた。栞は改札の脇で聞き、今度は録り直さなかった理由が分かった気がした。離れた日にも戻れる、二人で聞いた雨だった。