三十九歳の詩織は、旅行の予定を十五分単位で組んだ。四十二歳の恋人、望は、それを黙って受け取った。
一泊二日で、電車を乗り継いで港町へ行く。詩織は駅から宿までの道を調べ、昼食の店が混む時間を確かめた。名物の菓子を買うなら閉店前に寄らなければならない。夕景を見る場所は宿から歩いて十二分だった。
印刷した紙の端に、雨の場合の予定も書いた。望は丁寧だねと言い、鞄の内側へしまった。詩織はその言葉に安心した。よい旅行を用意できれば、一緒に来てよかったと思ってもらえるはずだった。
二人で遠出するのは初めてだった。付き合って半年、食事や映画ではお互いの機嫌を損ねたことはない。それが、二日間同じ場所で過ごしても続くのか、詩織にはまだ分からなかった。
詩織は小さな会社で総務を担当していた。備品が足りない、客が早く着く、会議の部屋が重なる。誰かが困る前に気づくと助かったと言われた。気づかなかった日は、どうして準備していなかったのかと聞かれた。
頼られるのは嫌ではなかった。ただ、何も問題が起きなかったとき、自分のしたことは見えなくなる。休日まで予定を作るのは、仕事とは違って誰かに喜んでもらえるからだと思っていた。
望は仕事で建物の模型を作っていた。細かい作業を続ける人なのに、休日の予定はあまり決めない。夕方になってから海を見に行こうと言い、着くころには暗くなっていたこともあるらしい。
その話を聞いたとき、詩織はもったいないと思った。望は、暗い海も見られたから、と笑った。その気楽さが好きだった。同時に、自分が何も用意しなければ二人で困るのではないかとも思った。
旅行の前夜、詩織は宿へもう一度道順を問い合わせた。電話を切ると、望から、おやつを買ったという写真が届いた。旅の準備にそういう種類のものもあるのだと、詩織は少し笑った。
駅に着いた途端、望の足が止まった。路地の奥で、猫が寝ていた。
古い木箱の上に体を伸ばし、片耳だけを光の中へ出していた。望は邪魔にならない場所で立ち止まった。詩織も猫を見たが、すぐに腕時計へ目が戻った。
昼食の店は十一時半に開く。まだ十分以上あるが、並ぶかもしれない。ここで時間を使ってから長い列に出会えば、午後の見学が遅くなる。
望は彼女の視線に気づき、すぐに歩き出した。その素早さが、詩織にはなぜか寂しかった。何も言っていないのに、急がせた人になっていた。
「猫、見てていいよ」
「でも、次の店」
望は折り畳んだ地図を手にしていた。詩織が書いた細かな時刻が、紙の折り目の間から見えた。
「並んでもいいと思う」
自分で言って、詩織は驚いた。望も彼女を見た。
「私、誰かに楽しくなかったって思われるのが、怖いんだと思う」
旅の始まりに話すには、重すぎるかもしれなかった。それでも、店へ向かって歩き続ければ、この感じを二日間抱えることになりそうだった。
望は地図を畳んだ。二人は路地の石段に座った。猫は起きず、景色も変わらなかった。
詩織は最初の五分、時計を見続けた。視線を戻すたび、望が気づいている気がした。彼は気づいていたかもしれないが、見るなとは言わなかった。
十分ほどたって、望が父親も予定を組む人だったと話した。子どものころ、旅行には必ず行程表があった。道に迷わず、よい店へ行けたことを、今はありがたく思っているという。
「でも、途中で違うことをしたいって、言いづらかった」
何かを希望すると、それを入れるために誰かが予定を直す。自分がわがままを言ったような気がして、やがて黙るようになった。大人になってから、ようやく寄り道ができるようになったという。
詩織は、計画が苦手だという話ではなかったのかと聞いた。望は、計画する人に決めてもらうのは楽だが、その人ばかり疲れるのも違うと思う、と答えた。
「今回も、任せすぎたね」
詩織は首を振りかけて、手元の紙を見た。頼まれていないのに作ったのだからと、自分だけの責任にするのも違った。
「私も、どんなふうに過ごしたいか、先に聞かなかった」
頼れる人に見られたくて計画していたことを話した。以前付き合っていた相手が、任せると言ったあとで、もっと別の店がよかったと話したことがある。それ以来、調べ足りなかったと思われるのが怖かった。
望は、すべての人が満足する旅を一人で作るのは難しいよ、と言った。詩織はうなずいた。分かっていたことでも、隣に座る人から聞くと、少し違って届いた。
猫は一度だけ耳を動かした。どこかで戸が開き、焼けたパンの匂いがした。
詩織のお腹が鳴った。望は笑わず、自分も空いたと言った。二人は立ち上がり、最初に決めていた店へ行った。入口には短い列ができていた。
予定より二十分遅かった。詩織はその二十分をどこで戻すか考えかけ、今日は戻さないと決めた。入れない場所があっても、今回行かなかった場所になるだけだ。
食事のあと、望が食べたい菓子の店を提案した。詩織の予定にはない店だった。二人で地図を見ると、宿とは反対方向だった。
「遠回りになるけど、行きたい」
望ははっきり言った。詩織も、昼食の店は自分が行きたかったのだから、次は望の希望を聞きたいと思った。
ところが菓子は売り切れだった。入口の紙を見て、詩織は思わず営業時間を調べたか聞きそうになった。望は残念そうに肩を落とし、店の前にあった別の焼き菓子を二つ買った。
「残念だったね」
詩織が言うと、望はうなずいた。それだけだった。失敗の理由を誰かに説明し、責任を決める時間は始まらなかった。
二人は川沿いで菓子を食べた。詩織は、予定にないことを楽しむには、何もかもうまくいく必要はないのだと思った。
昼下がり、望が細い坂道へ入ろうとした。詩織は少し足が痛かった。歩きやすい靴を選んだつもりでも、朝からの距離は思ったより長かった。
いつもなら、あと少しなら平気だとついていっただろう。途中で不機嫌になれば、相手は理由が分からないまま気を遣うことになる。詩織は坂の入口で、先に座りたいと伝えた。
望はすぐに道を戻りかけた。詩織は、坂が嫌なのではなく、休んでからなら行きたい、と言い直した。彼も、上に何があるか気になるだけで、必ず行きたい場所ではないと話した。二人で知らないものを、どちらかの義務にしなくてよかった。
近くの喫茶店で二十分休んだ。詩織が靴紐を結び直している間、望は窓から坂を眺めた。店を出るころには雨雲が広がり、二人はそのまま宿へ向かうことにした。見なかった坂の上を、惜しいと話しながら歩けた。
夕方、宿へ着くと、楽しみにしていた窓からの景色は隣の建物で半分隠れていた。詩織は予約した自分が謝るべきか迷った。
望は窓を開け、風が通ると言った。景色について何も感じないわけではないらしく、写真より近かったね、とも言った。その両方を、詩織は受け取った。
荷物を置いたあと、二人は翌日の予定表を広げた。詩織は美術館へ行きたかった。望は朝の港を歩きたかった。どちらも入れると、出発が早くなる。
「別々でもいい?」
望が尋ねた。詩織は少し驚いた。せっかくの旅行なのに、という気持ちが先に出た。だが、彼が港を歩く間に自分はゆっくり朝食を取れる。
二人は昼前に待ち合わせることにした。そして、そのあとの予定に大きな空欄を作った。帰りの電車に間に合えば、何をしてもよい時間だった。
空欄を作るのに、詩織は一本の線で済ませず、何度も紙の上で手を止めた。望は急かさなかった。好きな場所を全部消すのではなく、行くかどうかを明日の二人へ渡すのだと考えると、ようやくペンを動かせた。
夕飯のあと、何もすることがなくなった。詩織が困っていると、望は荷物から本を出した。彼女も持ってきた本を開いた。廊下を歩く人の足音が、遠ざかっていった。二人で一冊を読む必要はなかった。部屋の同じ明かりの中で、別々のページをめくった。
翌朝、望が出かけたあと、詩織は二度寝をした。目が覚めると予定より三十分遅かった。いつもなら飛び起きるところだったが、朝食の時間にはまだ間に合う。
一人で食堂へ下りると、窓際の席が空いていた。詩織は普段あまり飲まない紅茶を頼んだ。望に合わせなくていい時間があることを、寂しいとは思わなかった。
待ち合わせた駅前で、望は港の写真を見せた。詩織は美術館の売店で買った葉書を見せた。別々にいた時間が、話す材料になった。
午後は、看板を見つけた小さな資料室へ入った。受付の人の話が長く、出るころには雨が降り出していた。詩織は鞄に入れていた折り畳み傘を出した。望は持っていなかった。
「準備しておいてよかった」
彼が言った。詩織は笑った。計画をやめることが今回の目的ではない。自分の得意なことを使いながら、全部を引き受けないやり方を見つけたかった。
二人は一つの傘に入るには狭かったので、駅前の店でもう一本買った。肩が濡れたことも、余計な買いものも、旅の失敗として数えなかった。
帰りの電車で、詩織は一番よかった場所を聞いた。望はあの石段を挙げた。
詩織も同じだった。写真はなかったが、猫の耳が一度だけ動いたことを、二人とも覚えていた。観光案内には載せようのない、十分ほどの時間だった。
「でも、美術館もよかったよ」
詩織が言うと、望は、港も、と答えた。二人でいた場所と、一人で行った場所を、順位に並べる必要はなかった。
予定表は折り目で少し破れ、余白に菓子の店の名前が書き足されていた。詩織は捨てずに鞄へ戻した。細かく決めた最初の自分も、途中で予定を変えた自分も、どちらもこの旅行へ来ていた。
帰宅した翌日、望から、次は自分が宿を調べると連絡があった。詩織は頼んだあと、美術館のある町ならうれしいと希望を添えた。彼は、港も近いといいね、と返した。
次の予定表にも、空欄を作ろうと思った。何もしない時間を、何かをしてもいい時間として持っておく。その余白の中でどんな話が始まるか、今は少し楽しみにできた。