六十五歳の文江は、喫茶店の入口で口紅を拭いた。ガラスに映る顔が、家の鏡で見たときより華やかだった。派手に見える気がした。拭いてから、また少し塗った。
窓際で、六十八歳の関が立ち上がった。同じ朗読会に通うようになって半年になる。会場ではいつも折り畳み椅子を運んでいる人が、今日は紺色の上着を着て、小さな丸いテーブルの横にいた。
「きれいな色ですね」
口紅のことか、コートのことか、文江は聞かなかった。ありがとうと言うだけで、椅子に座るまでの動作を全部忘れそうになった。
夫を見送って七年。娘には、男性と会うことをまだ話していなかった。隠したいのか、説明する言葉がないのか、自分でも決められない。出かける前、娘から電話が来たときには、朗読会の人とお茶をすると答えた。それは嘘ではなかったが、伝えたかったことの全部でもなかった。
朗読会に参加したのは、声を出す機会が減ったからだった。一人暮らしでは、朝から夕方まで誰とも話さない日がある。テレビに返事をしている自分に気づき、区民センターの掲示板で見かけた会へ申し込んだ。
初回、文江は短い随筆を読んだ。途中で息が足りなくなり、行の終わりを急いでしまった。関は、文章の人が慌てて帰ってしまいましたね、と笑った。からかわれたと思って顔を上げると、彼は自分も最初は全部駆け足だったと話した。
次の回から、文江は読点のところに小さな印をつけた。関は句点ごとに顔を上げる練習をしていた。互いの読み方を聞くうちに、同じ文章でも違う景色が見えていることが分かった。
関は人物の台詞を大げさに演じない。文江は、誰が話しているか分かる程度には声を変えたい。どちらが正しいかを争うのでなく、一度逆のやり方で読んでみようという話になった。文江が低い声を出したとき、関はうれしそうに笑った。
お茶に誘われたのは、その帰りだった。会の仲間と数人で行くことはあったが、二人だけは初めてだった。文江はその場でうなずいたあと、帰宅してから、本当に行くのだろうかと予定表を何度も見た。
関も妻を亡くしていた。三年前の冬だという。朗読会でその話をしたとき、文江は、自分のほうが四年長く一人でいることに、何か答えを求められるような気がした。けれど彼は、いつごろ寂しくなくなりますかとは聞かなかった。
喫茶店で二人は、亡くなった配偶者のことを少し話した。関の妻は、旅行の荷物を極端に少なくする人だった。文江の夫は、使わない傘まで持っていった。どちらも困ったように話しながら、その手つきを今も覚えていた。
「一緒にいた人の癖って、残りますね」
関が言った。文江はうなずいた。夫がいなくなっても、味噌汁を二人分作ることが一年ほど続いた。残るからと具を減らすと、今度は味が薄くなった。自分一人の分量を覚えるのに、思ったより時間がかかった。
話しているうち、文江は、互いを遺された人という名前だけで呼ばずに済んでいることに気づいた。関はレモンの入った水を少し避け、文江はメニューのケーキに気を取られていた。
「酸っぱいもの、苦手なんです」
「じゃあ、このタルトは駄目ですね」
「見た目では、いつも選びたくなるんですが」
文江は笑った。夫なら好んで食べたものだが、その比較を口にはしなかった。目の前の人の苦手なものを、初めて知っただけでよかった。
映画の話になると、文江は結末を先に知りたいと言った。関は驚いた顔をした。最後が分かっていても面白いのか、と尋ねる。
「安心して見られるでしょう。途中の細かいところも分かるし」
「僕は、分からないから最後まで見るのかと思ってました」
「じゃあ、一緒に見るときは、私だけ先に調べます」
言ってから、文江はカップを持ち上げた。一緒に見るという言葉が、あまりに自然に出た。関は、ネタをばらさないようお願いします、と穏やかに答えた。その返事に、文江の肩から少し力が抜けた。
注文したチーズケーキを半分ずつ分けた。関は酸味が思ったより強いと顔をしかめたが、文江に押しつけず、最後まで食べた。苦手なら残してもいいのに、と彼女が言うと、次は焼き菓子にする、と笑った。
知らなかったことが増えるたび、次に会う理由ができた。次という言葉を口にするたび、文江は自分が年齢を確認するように心の中で数字を数えていることにも気づいた。六十五歳。若くはない。けれど、知りたいと思う人が目の前にいるのに、遅いというだけで帰る理由もなかった。
会計は別々にした。関が払おうとしたが、文江は自分の分を出した。断ることで彼の親切を遠ざけるようにも思えたが、今日はそれが落ち着いた。
「次に、何か頼むことがあったらお願いします」
文江が言うと、関は、重い椅子を運ぶぐらいなら、と答えた。小さな冗談にしてもらえたことがありがたかった。
店を出ると、歩道に秋の光が落ちていた。関が駅まで送ると言った。文江のほうが少し歩くのが遅く、彼は横断歩道の前で足を止めた。待たれていると気づくと急ぎたくなるが、彼は店先の鉢植えを見ているだけだった。
帰り際、関が手を差し出した。
文江は周囲を見てしまった。知り合いがいるかもしれない。娘の友人に見られたら何と言われるだろう。自分でも驚くほど早く、ほかの人の目が頭に浮かんだ。
関は手を引っ込めず、ただ待った。
「慣れていなくて」
「僕もです」
文江は手を取った。少し乾いて、温かかった。若いころのように胸が高鳴るというより、握った手をどのくらいの強さで返せばいいか分からなかった。関も同じように指を動かし、二人で小さく笑った。
改札で別れたあと、文江はホームの椅子に座った。手袋を出しかけ、まだ必要ないと思って鞄へ戻した。手のひらに残る温度を、もう少しそのままにしておきたかった。
家に帰ると、夫の写真の前に置いた花の水を替えた。今日のことを報告しなければいけない気がして、しばらく写真を見た。しかし、許しをもらうための言葉は出てこなかった。
文江は、今日おいしいケーキを食べた、と声にした。夫がいたころにも、外で食べたものの話をよくしていた。それ以上の説明を急いで足さず、花瓶を戻した。
娘へ電話する前に、何を言うか紙に書いた。お付き合いしている人がいます、と書くと、まだそう呼んでよいのか分からない。友達ができました、では、自分の気持ちが小さくなる。文江は紙を裏返した。
娘が驚くことはあるだろう。亡くなった父親のことを思うかもしれない。それを何も感じないでほしいと望むことはできない。ただ、自分の一日を最初から否定されると決めつけて、話さないのも違う気がした。
電話は二度目の呼び出しでつながった。娘は夕飯の準備中だった。文江は、今いいかと尋ね、少しだけ話したいと言った。
「この前の朗読会の人なんだけど」
「今日、お茶した人?」
「そう。今度、一緒にお茶を飲んでほしい人がいるの」
向こうで鍋の蓋を置く音がした。娘はしばらく黙った。文江は、心配するようなことじゃないと先回りして言いそうになり、待った。
「お母さん、その人のこと、好きなの?」
文江は膝の上の手を見た。
「まだ、知らないことがたくさんある。でも、また会いたいと思ってる」
娘は、そう、と言った。明るく祝福する声ではなかったが、拒む声でもなかった。文江はその間を、急いで良い返事に変えようとしなかった。
「会うなら、私だけでいい? 子どもたちは、別の日にして」
「ええ。急がなくていいの」
「うん。私もちょっと、びっくりしたから」
驚いたと言ってもらえたことで、文江も隠さずに済んだ。自分も驚いていると答えると、娘が初めて少し笑った。
電話を切ったあと、関に今日のお礼を送った。娘に話したことも添えた。ただし、会う日を勝手に決めたわけではないと書いた。
返事には、自分にも息子がいて、近いうちに話してみたいとあった。文江は、家族へ伝えることまで二人の速度をそろえなくていいと思った。自分が話したから、彼も同じ日に話さなければならないわけではない。
翌週の朗読会で、二人はいつもどおりに椅子を並べた。周囲に何か宣言する必要はなかった。文江が一脚持ち上げると、関がもう一方の端を持った。重さが半分になることに、以前とは違う親しさを感じた。
その日の随筆には、庭の木を植え替える場面があった。根を傷めないよう時間をかけ、新しい土へ移す。文江は途中で息を継ぎ、最後まで急がずに読んだ。読み終えると、関が小さくうなずいた。
帰り道、二人は次に見る映画を決めた。文江は題名を手帳に書き、結末を調べるのは内緒にしておくと言った。関は、知っている顔をしないでください、と笑った。
その夜、文江は口紅を小さな引き出しへ戻した。何年か前に娘と買いに行った色だった。華やかすぎると言った文江に、毎日つけなくてもいいでしょうと娘が選んでくれた。今日、男性に会うために使ったと知ったら、娘はどんな顔をするだろう。文江は、いつか笑って話せる気がした。
翌朝はいつもどおり、植木に水をやり、新聞を読んだ。関から連絡がないことを、不安に思わずに済んだわけではない。それでも自分の朝を全部待つ時間にはしなかった。昼に届いた短い挨拶へ、自分も短く返した。
次の約束があるからこそ、今日一日を別々に過ごせる。その感覚を、文江は久しぶりに思い出した。
娘から、来月なら日曜の午後が空いていると連絡が来た。文江は関の予定を聞いてから返すことにした。日取りを決める前に、娘がもう一つ尋ねた。
「そういえば、お名前、何ていうの」
文江はいつものように関さんと答えかけた。会の名簿では知っていたのに、名前で呼んだことはまだなかった。先日、別れ際に本人から、どうぞ名前で、と言われたことを思い出した。
「正彦さん」
口に出すと、相手が少し近くなった。娘は電話の向こうで、初めて会う人のように、その名を繰り返した。
文江は窓の外を見た。夕方の洗濯物が、風にゆっくり揺れていた。これからの暮らしを全部決めたわけではない。次の日曜に誰とお茶を飲みたいか、そのことだけを、今日は自分の言葉で言えた。