ホテルの夜間フロントで働く三十四歳の優子は、ロビーの冷房が苦手だった。昼には大きな窓から日差しが入るため、設定はやや低い。深夜になると人の出入りが減り、床から冷気が上がってくるように感じた。
制服の下に薄い肌着を重ねても、午前三時ごろには肩がこわばった。眠気をごまかすために姿勢を伸ばし、客がいない間だけ手首をさする。夏の終わりは、外より中のほうが寒かった。
長期滞在の客が、いつもその時刻に戻ってきた。三十七歳だと知ったのは、彼が同僚との電話で自分の誕生日を笑って話していたからだった。展示会の設営の仕事で、一か月ほどこの町にいるらしい。
「今日も遅かったですね」
優子が言うと、彼は時計を見て、もう今日になっていたんですねと答えた。疲れた顔で笑う。その短いやり取りが、夜勤の区切りになっていた。
優子が夜勤を選んだのは、昼間に母親の通院へ付き添えるからだった。母親は一人でも行けると言うが、検査結果を一緒に聞いてほしい日もある。昼に用事を済ませ、夕方少し眠ってから出勤する暮らしは、最初に考えたより疲れた。
同僚と食事の予定を合わせにくく、友人の誘いも断ることが増えた。だからといって、仕事を後悔しているわけではない。夜のホテルには、昼の忙しさとは違う静かな役目があった。遅く到着した客に温かい飲み物を案内し、忘れ物を取りに戻った人のために棚を探す。疲れた人が部屋へ帰る前に、少しだけ息をつける場所を守る仕事だった。
彼は戻るたび、ロビーを急いで横切らなかった。フロントに客がいれば話しかけず、会釈だけでエレベーターへ向かった。誰もいない夜には、近くでまだ開いている食堂を聞いた。
優子は自分が夜勤前に寄る店を紹介した。安くて、味噌汁が熱い店だった。翌日、彼は教えてもらった店に行けたと言い、礼を述べた。何を食べたかという話が、一分ほど続いた。
それだけのことが、優子には楽しみだった。相手が客だから親切にしている部分と、自分が話したい部分を、いつもきれいに分けられるわけではなかった。
ある夜、彼が紙袋を差し出した。
「仕事場で余ったものです」
中には薄いカーディガンが入っていた。落ち着いた灰色で、畳まれた袖が袋の縁から見えた。優子は一瞬、肩の冷たさを思った。彼が気づいていたことに、うれしさもあった。
それでも手は出さなかった。
「お気遣いはありがたいんですが、勤務中に個人的な贈りものは受け取れないんです」
彼はすぐに袋を引いた。言い訳を重ねず、すみません、考えが足りませんでした、と答えた。
「寒そうだったので」
「空調は、こちらでも確認します」
優子はいつもの声で言った。そのあと、少し硬すぎただろうかと考えた。相手の親切を退けるのは、慣れていても気持ちのよいことではなかった。
彼はおやすみなさいと言い、袋を持って部屋へ戻った。優子は夜間責任者に空調のことを相談し、客の少ない時間だけ温度を調整できると確認した。困っていることを、誰か一人の気遣いで解決しようとせずに済む方法が、職場にもあった。
次の夜、彼はいつもどおりに会釈をした。気まずさを取り繕うように笑いかけたり、昨日のことを何度も謝ったりしなかった。優子も挨拶を返した。
それから三日ほど、二人は短い挨拶しか交わさなかった。避けられているのかと思ったこともあったが、彼はほかの客がいるときには以前から話しかけなかった。優子は自分の不安を、相手の行動の変化と取り違えないようにした。
金曜の夜、彼が自動販売機の場所を尋ねた。飲み物ではなく、乾電池を売っているかという質問だった。ホテルには置いていなかったので、優子は近くのコンビニの場所を案内した。
「今夜もお仕事ですか」
「明日の確認用です。最後に、いつも一つ足りなくなる」
彼は少し笑った。優子も、宿泊客が帰ったあとに充電器だけ残ることはよくある、と答えた。仕事の失敗を小さく笑える会話が戻った。
断ったから冷たくならない。親切を受け取らなかった相手にも、同じように接してくれる。その変わらなさを、優子は少しずつ好きになった。
休みの日、優子は母親の診察を待ちながら、灰色のカーディガンのことを思い出した。母親は鞄から飴を出し、何を考えているのかと尋ねた。
「仕事のこと」
そう答えると、母親は、また無理をしているんじゃないでしょうねと言った。優子は違うと笑ったが、母親の用事だけで休日を埋めていることには気づいていた。
診察が終わったあと、母親は一人で帰れると言った。優子が送ろうとすると、まだ昼でしょう、好きなところへ行きなさいと手を振った。
優子は駅前の喫茶店に入った。夜勤明けにコーヒーを飲むことはあっても、眠るまでのつなぎではない時間に座るのは久しぶりだった。隣の席では二人連れが、休日の予定を話していた。
誰かと会うために、自分の時間を空けてもいい。そう思うことさえ、いつのまにか大げさになっていた。優子は手帳を開き、次の休みには何も書かないでおこうと決めた。
彼と会いたいという気持ちを、その空白に直結させるつもりはなかった。まだ客と職員だ。けれど、自分にも仕事の外の顔があることを、忘れたくなかった。
展示会が始まると、彼の帰る時刻は少し早くなった。夜中の一時、ロビーの椅子に座って靴紐を結び直していた。優子は引き継ぎ用の書類を整理していたが、視線が合い、会釈した。
「あと三日で終わります」
彼が言った。
「お疲れさまでした、はまだ早いですね」
「撤去があるので、あと少しです」
優子は、仕事が終われば彼がここへ戻ってこなくなることを初めて具体的に考えた。いつも午前三時を過ぎれば来る人、という認識が、期間のあるものだったと思い出した。
「次は、別の町ですか」
「一度帰ります。洗濯物が山になってます」
彼は笑った。優子も、長い滞在でしたからと答えた。その先に、また来ますかと聞くことはしなかった。仕事の質問に混ぜて、自分の願いを確かめたくなかった。
その夜、帰宅してから眠る前に、優子は自分の上着を見た。肩を温めるものは家にもある。それでも、袋を差し出されたときにうれしかったのは、寒さだけの問題ではなかったのだと思った。
最終日の夜、彼は大きなケースを二つ押して帰ってきた。設営に使う道具が入っているという。エレベーターの前でケースの車輪が引っかかり、優子がドアを押さえた。
「ありがとうございます。明日の朝、出ます」
「お気をつけて」
いつもの見送りの言葉を言ったあと、優子は少しだけ寂しくなった。何も始まらないまま終わる出会いは、ホテルでは珍しくない。もう会わない人に丁寧に接することも、仕事の一部だった。
朝六時半、引き継ぎの担当が来た。優子は夜間の出来事を伝え、書類を確認し、制服を着替えた。鏡の前で髪を結び直す。目の下に薄い影があったが、化粧をし直すほどの時間はなかった。
ロビーの外へ出ると、彼がタクシーを待っていた。私服の上着を着て、片手に小さな鞄を持っている。仕事用のケースは先に配送したらしく、いつもより身軽に見えた。
優子は一度通り過ぎようとした。勤務は終わっている。それでも、相手の旅の最後に何を差し出してよいのか分からなかった。
彼が気づき、お疲れさまでした、と言った。客からそう言われることはある。今朝は、自分の一晩を見送ってもらったように聞こえた。
「今なら、仕事の顔じゃないんですけど」
優子は、自分でも意外な言い方をした。言ったあとで、断ってもらっても大丈夫だと思えるよう、両足で地面を踏んだ。
彼は振り向いた。あの紙袋は、もう持っていなかった。
「じゃあ、コーヒーに誘っても?」
優子はうなずいた。彼は駅へ行く前に少し時間があると言い、配車の取り消しを連絡した。優子も、帰って眠る前に一杯ならと答えた。
二人は駅のほうへ歩き出した。街路樹の下には、夜の雨が少し残っていた。朝の空気に、優子は肩をすくめた。彼が上着を貸そうとして、一度手を止めた。
「寒かったら、言ってください」
優子は笑って、借りたいと答えた。
上着はカーディガンより少し重かった。自分で頼んで借りることが、こんなに違うのかと思った。断ったことを、なかったことにせず、それでも近づける相手だった。
駅前の喫茶店は開いたばかりだった。優子は何度も一人で入ったことがある。いつも選ぶ窓際の席を見て、二人なら奥のほうが話しやすいかもしれないと考えた。
名前を改めて名乗ると、彼もフロントで呼ばれていた名字とは別に、下の名前を教えた。仕事で知っている情報と、本人から渡してもらう言葉は、同じものでも感じが違った。
彼は、自分の話ばかりしていた気がすると言った。優子は、勤務中は客の話を聞くことが多いからと答え、それから、今日は何を話そうか考えていると打ち明けた。
「眠い、でもいいんじゃないですか」
彼が言った。優子は笑い、実は少し眠いと答えた。無理に楽しい人にならなくてよいことがうれしかった。
二人は連絡先を交換した。宿泊の手続きで使ったものを転用するのでなく、自分たちの画面を向かい合わせて登録した。彼が次にこの町へ来る予定は、まだなかった。それでも、仕事の予定が決まるまで話せないわけではない。
彼が会計へ立つ間、優子は窓の外を見た。これから出勤する人たちが、明るい歩道を駅へ向かっていた。自分はその反対へ歩いて帰り、昼間に眠る。以前なら少し説明しづらかった暮らしを、今日は隠さず話せた。恋をするために生活の時刻まで変える必要はない。その安心を、温かいカップの底と一緒に、ゆっくり手放した。
駅で別れる前、優子は上着を返した。彼は受け取り、家に着いたら連絡すると言った。優子は、返事は夕方になるかもしれないと伝えた。
「眠っていてください」
その言葉を聞いて、優子は肩の力を抜いた。朝の光の中で別れたあとも、借りた上着の温度をしばらく覚えていた。家へ帰れば眠れる。目が覚めたら、仕事の顔ではない自分から、短い返事を送ろうと思った。