夜の余白YORU NO YOHAKU
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長めの短編 38 / 秘密の恋 / 約11分

ブルーグレーのネクタイ

隠すために選んだ色を、自分のために選び直す。

*

三十二歳の春樹は、百貨店の紳士用品売り場で、ブルーグレーのネクタイを手に取った。薄い光沢のある無地だった。小さな柄の入ったものより、贈った人の好みが見えにくいと思った。

誰の目にも普通に見えることを、贈りものの条件にしている。そのことに気づいたのは、店員から、記念日ですかと尋ねられたときだった。

「誕生日で」

そこまでは本当だった。来週、同じ部署の先輩が四十一歳になる。春樹は彼の好む酒を知り、朝の機嫌が悪いことを知り、出張先で眠れない夜には古い落語を聞くことを知っていた。それでも、恋人とは呼ばれていなかった。

彼には妻がいた。春樹はそのことを、最初から知っていた。知らなかったから仕方がないという場所には、自分を置けなかった。

二人が初めて仕事以外の話をしたのは、一年前の出張だった。大雨で列車が止まり、駅の食堂で夕食を取った。春樹が子どものころに住んでいた町を、先輩も知っていた。もう閉店した玩具屋の話で笑い、帰りの列車では互いに眠らずにいた。

その後、残業帰りの食事が増えた。社内では話題にしないでおこうと彼が言ったとき、春樹は、自分たちの関係に特別な名前がついたように感じた。秘密を守ることが、親しさを育てることだと思った。

夜の連絡はいつも短かった。彼が自宅へ帰ると、会話は途中で途切れた。翌朝の挨拶が普段どおりだと、春樹は昨夜の自分だけが少し取り残された気分になった。それでも仕事中に目が合えば、ほかの誰も知らない意味を探した。

一度だけ、僕らは何なのだろうと聞いたことがある。彼は、いまあるものを急いで決めなくてもいいと言った。春樹はその答えに傷つきながら、決められないほど大切なものなのだと考え直した。

考え直すことは得意だった。誘いが急でも、自分に会いたくなったのだと思う。約束が流れれば、忙しいのだと思う。いつしか、相手の都合に自分の願いを合わせる作業が、会っていない時間の大半を占めた。

店員は二本のネクタイを白いシャツに当てた。濃い青なら印象がはっきりし、ブルーグレーなら幅広いスーツに合うという。春樹は後者を見た。奥さんが見ても、仕事で買ったと言える色だった。

「贈りもの用のお箱に入れますか」

春樹は一度うなずき、首を振った。箱を持って帰れば、彼は困るだろう。紙袋も処分しなければならない。渡すときには包装を外し、値札だけ切っておいたほうがいい。そこまで考えて、春樹は手に持った布が急に重くなった。

自分の気持ちを渡すために、渡した証拠を消そうとしている。

「少し、考えてもいいですか」

店員はもちろんですと言い、ネクタイを受け取った。買わない理由を聞かれなかったことがありがたかった。

売り場を出て、休憩用の椅子に座った。隣では若い男性が、父親へ贈る財布の箱を開けて見ていた。春樹はその姿を長く見ないようにした。誰かの分かりやすい幸福を、自分の不幸の証拠に使いたくはなかった。

彼に贈るものを探していたはずなのに、自分が何をもらいたかったのかが見えてきた。部屋に置いておけるもの。なくしたときに一緒に探してもらえるもの。誰にも説明しなくてよい沈黙ではなく、自分の存在を隠すために言葉を選ばなくてよい時間。

春樹は空の手で店を出た。

その夜、彼から食事の誘いがあった。店の名前と、八時なら出られるという短い文だった。春樹はすぐに空いていると打った。指が覚えている返事だった。送信せず、消した。

台所で米を洗った。以前は、夜の誘いが来るかもしれない日は夕飯を作らなかった。予定がないまま待ち、誘われなければ冷凍したパンを食べた。今日は炊飯器の蓋を閉め、自分のための時間を先に決めた。

『仕事以外では、もう会いません』

送ってから、携帯を伏せた。息が浅くなり、椅子に座っても落ち着かなかった。返事は思ったより早かった。

『急にどうした』

急ではない。そう書けば、ここまでの一年を説明できるだろう。誕生日を覚えていたことも、ネクタイを選んだことも言いたかった。寂しいと伝えれば、彼はきっと電話をかけてくる。落ち着いた声で、誤解させたなら悪かったと言うかもしれない。

その優しい声を期待している自分が、まだいた。

春樹は返信しなかった。米の炊ける匂いが部屋に広がった。食べる気にはなれなかったが、小さな茶碗によそった。誰かを待つためではない夕飯は、最初からおいしいわけではなかった。

月曜の朝、彼は廊下で春樹に声をかけた。少し話せるか、と尋ねられ、春樹は手にした資料を持ち直した。担当をすぐに変えることはできない。今週は二人で提出する見積もりがあった。

「見積もりなら、十時の打ち合わせでお願いします」

「その話じゃなくて」

春樹は息を吸った。彼を罰するような言い方はしたくなかった。しかし、相手を困らせないために曖昧にすれば、同じ場所に戻ってしまう。

「送ったとおりです。仕事は、今までどおりにします」

彼は何か言いかけ、近づいてきた同僚に気づいて黙った。その動作を見て、春樹の中の迷いが少し静かになった。自分たちがいつも中断される場所にいたことを、改めて知った。

打ち合わせで春樹は数字の誤りを指摘した。彼は確かめ、助かったと答えた。それだけのやり取りにも胸が揺れた。礼儀正しく仕事をすることは、気持ちが消えたふりをすることではない。消えていなくても、必要な言葉を選ぶことだった。

昼休み、春樹は同僚の真鍋と食堂へ行った。部署の外ではあまり会わない相手だったが、今週の献立が妙に揚げ物ばかりだという話で笑えた。何を知っているのか、何を察しているのかを気にせずに笑うのは、久しぶりだった。

水曜の夜、春樹は大学時代の友人に電話をした。相手は店の閉店作業中で、洗いものの音が聞こえた。春樹は迷ってから、好きだった人と会わないことにしたと話した。

「付き合ってたの?」

「その言葉を使わせてもらえなかった」

友人はすぐに相手を悪く言わなかった。少し黙って、それはしんどかったな、と答えた。春樹は、既婚者だったと付け加えた。知らないうちに、自分の話を聞いてもらう資格を審査されるのを待っていた。

「そっか。じゃあ、終わらせるのにも、いろいろあるね」

その返事で、春樹はようやく涙が出た。自分にも責任があることと、つらかったことは同時に言ってよかった。

友人は、週末に店の棚を直すから手を貸してほしいと言った。励ますための口実だと分かったが、仕事として手伝えるのはありがたかった。春樹は工具を持っていくと約束した。

土曜、棚板を水平にするために二人で何度も測った。客用のカップを並べると、少しだけ端が低い。やり直して、また並べる。目に見える傾きを直す作業に、春樹は救われた。夕方には友人が余ったスープを温めた。

「次は客で来て。工具はいらない」

春樹はうなずいた。何かを役立てなければ会えないわけではない。その言葉を、忘れないようにした。

彼の誕生日には、部署で小さな菓子が配られた。春樹もほかの人と同じように、おめでとうございますと言った。昼過ぎに私用のメッセージが届いたが、すぐには開かなかった。仕事が終わってから読み、短く返した。

『お気持ちは受け取りました。個人的な連絡は控えてください』

電話番号を消すことはできなかった。業務の連絡にも使うからだ。代わりに、私用の会話の通知を切った。何も感じなくなる仕組みはなくても、何度も傷口を確かめずに済む工夫はできた。

夜、ネクタイを選びかけたときのことを思い出した。買わなかったのは彼への当てつけではない。自分が見えなくなる贈りものを、これ以上増やしたくなかったのだ。

それでも、帰りの電車で彼に似た後ろ姿を見つけると目で追った。好きだったことまで取り消せば楽になるとは限らない。春樹は追っていた視線を窓へ戻し、次の駅の名前を確かめた。

翌週、彼と組んでいた案件の提出日が来た。最後の確認は会議室で、ほかの二人も交えて行った。春樹は変更点を一つずつ説明し、分からない点があれば今確認してほしいと頼んだ。彼は以前と同じように資料を読み、必要な質問をした。仕事が成立することに、春樹は少し驚いた。私的なつながりを手放せば、仕事の信頼まで全部なくなると思っていたのかもしれなかった。

提出が終わると、真鍋が昼飯に誘った。春樹は予定表を見ずに、行こうと答えた。誰かから連絡が来る余地を残しておかなくてもよい昼休みだった。食堂が混んでいたので、二人は駅前まで歩いた。真鍋は新しく買った靴の踵が当たるとこぼした。春樹は途中の薬局で絆創膏を買い、自分の分も鞄に入れた。

特別な話はしなかった。けれど午後に席へ戻ったとき、何を言ってよくて何を隠すべきかを考えずに過ごした時間の軽さが、体に残っていた。

翌月、昇進の辞令が出た。急な抜擢ではなく、半年前から担当していた案件の評価だった。上司は、資料の細かさだけでなく、先方に無理な約束をしなかったことがよかったと言った。

春樹はその言葉を家で思い返した。自分の境界を守ることが、誰かへの誠実さにもなる。仕事では分かっていたことを、暮らしでも少しずつ覚えたいと思った。

新しい役職で初めて取引先に挨拶する日の前、春樹はあの百貨店へ行った。同じ店員がいたが、前のことを覚えているかは分からなかった。ブルーグレーのネクタイは、まだ同じ棚にあった。

鏡の前で胸に当てた。先輩に似合うかを想像したときには気づかなかったが、春樹の濃い色のスーツにもよく合った。

「こちらにします」

「お箱はお付けしますか」

「要りません。明日、僕が着けるので」

店員はうなずき、折り目がつかないよう薄紙で包んだ。春樹は紙袋を受け取り、捨てずにそのまま電車に乗った。

翌朝、結び目を二度やり直した。少し曲がったところを指で直し、鏡を見た。新しいネクタイだけで新しい人になれるわけではない。寂しい夜はまだ来るだろう。それでも、今日身につけるものを、自分の目で選べた。

ブルーグレーは、思っていたより似合った。誰かの家で、言い訳を必要としない色だった。

了Thank you for reading.

もう少し、夜のつづきを。

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ABOUT THIS LIBRARY

恋の、その先の余白。

「夜の余白」は、成人同士の恋愛と日々の心の動きを描く、オリジナル短編の書庫です。再会、秘密、別れ、そして新しい一歩。眠る前のひとときに、ひとつの物語を。

全130篇を無料でお読みいただけます。約10分で楽しめる短編を中心に、さまざまな恋の物語を集めました。作品はAIを用いて制作しています。露骨な性描写は含みません。

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運営名:夜の余白
初版:2026年10月21日
更新:2026年10月23日
収録:恋愛短編130篇(うち読了目安10分以上100篇)