三十五歳の絵美と三十七歳の和也は、遠距離を始めて半年になる。和也の転勤先までは、新幹線と在来線を乗り継いで三時間半かかった。乗車時間だけなら映画を二本見れば済むと、最初は二人で笑った。実際には、休みを合わせ、宿泊先を決め、帰ってからの洗濯を考える時間まで含まれていた。
毎晩十時に電話をする約束をしたのは、絵美だった。会えない日も声を聞けば、離れている感じが薄くなると思った。和也も賛成した。最初の一か月は、町の新しい店や職場で覚えた名前を、互いに面白がって聞いた。
半年たつと、電話は少しずつ報告書に似てきた。何時に帰ったか、何を食べたか、明日は早いか。それ以上を話す気力が、互いに残っていなかった。
「ほかに何かあった?」
絵美は毎晩のように尋ねた。何もなかったと和也が答えると、用意していた話題をもう一つ出した。電話が短くなることを、恋が薄くなることと同じように数えていた。
金曜、絵美は職場の小さな失敗を話そうと思っていた。展示用の案内板を発注する際、納品先を旧住所のままにしてしまったのだ。大きな損害にはならなかったが、新しく入った同僚の前で頭を下げたことが、いつまでも気になっていた。
十時になると、和也から先に電話が来た。背後に水の音がした。夕飯の皿を洗っているという。
「今、忙しい?」
「大丈夫。聞けるよ」
絵美は話し始めた。途中、和也が聞き返した。皿が流しに当たる音と重なったらしい。絵美は最初から言い直し、それが自分でも大げさに聞こえて、急に話す気が失せた。
「もういい。たいしたことじゃないから」
「ごめん、今止める」
水音が消えた。和也は黙って待ったが、絵美は話を続けられなかった。聞いてほしいときに聞いてもらえなかった寂しさと、自分が彼の家事を止めた居心地の悪さが一緒にあった。
電話を切ってから、絵美は案内板のことで泣いているのか、遠距離のことで泣いているのか分からなくなった。画面には四十三分という通話時間が残っていた。長く話したことが、うまく話せた証拠にはならなかった。
翌朝、和也から短い連絡が来た。昨夜はちゃんと聞けずにごめん、とあった。絵美は、私も言い方がきつかった、と返した。それで仲直りはできたが、同じことがまた起こる気がした。
土曜の昼、絵美は一人で買いものへ行った。台所用品の店で、持ち手の大きなマグカップを見つけた。指が三本入る。写真を撮って和也に送ろうとして、夜の話題に取っておこうと携帯をしまった。
その小さな動作に、自分でも疲れた。一日の出来事を、夜の通話が途切れないように貯めている。楽しかったから伝えたいのか、話すものがなくなるのが怖いのか、境目が曖昧だった。
カップを買い、帰宅してすぐにコーヒーを淹れた。和也の部屋には白いマグカップがある。同居していたころ、二人で色違いを買ったものだった。絵美のほうは先月、縁が欠けた。買い替えたことにまで理由をつける必要はないはずだった。
その夜の電話は十五分で終わった。和也が眠そうだったので、絵美が先に切ろうと言った。切ったあとで、優しい恋人を演じたような気がした。自分はまだ話したかったのだ。何を話したかったかは、分からなかった。
日曜の朝、洗濯機が止まったところへ、和也から電話が来た。
「今日、掃除する日なんだけど」
「私も。洗濯、今終わった」
「つないだままにしてみる?」
絵美は笑った。電話が苦しいと思っていたのに、長くつなぐ提案だった。けれど、話をし続けなくてもいいと彼が言うので、携帯を窓辺に置いた。
絵美が洗濯物を干す間、和也の部屋では掃除機の音がした。音が近づき、遠ざかる。彼が家具の脚を避けているのが、なんとなく分かった。絵美はタオルを二度振り、ハンガーの向きをそろえた。
最初の十分、何か言わなければと何度も思った。和也は黙って掃除をしている。沈黙を怒りや退屈の印として読まなくてもよいのか、まだ確信がなかった。
「ごめん、話すことがなくて」
絵美が言うと、掃除機が止まった。
「ないままでも、いい?」
和也は少し息を切らしていた。掃除機を持ち上げ、棚の下に入れたという。それを聞いただけで、絵美は彼の部屋を思い出せた。電話の向こうに恋人だけがいるのではなく、暮らしている人がいる。
「うん。私、これから畳む」
絵美は取り込んであった洗濯物を膝に載せた。和也は窓を開けた。外の車の音が入り、少ししてまた遠くなった。
二人はそれぞれコーヒーを淹れた。湯を沸かす音が少しずれて聞こえた。絵美の湯が先に沸き、和也は豆を挽くのに手間取った。以前の部屋なら、一人が湯を用意している間に、もう一人がフィルターを折っていた。
「そのカップ、新しい?」
絵美が画面を持ち上げたとき、和也が気づいた。昨日買ったと答えると、見せて、と言った。絵美は持ち手を横に向けた。
「指がいっぱい入る」
「冬、両手で持つのによさそう」
話すために集めた話題ではなかった。目に入ったものを、隣にいるように渡しただけだった。
和也は自分のカップの底を見せた。小さな茶渋が残っていて、洗っても落ちないという。絵美は落とし方を知っていたが、今は言わず、そこだけずっと同じだねと笑った。
昼前になり、和也がそろそろ買いものへ行くと言った。絵美も午後には美容院の予約があった。通話時間は二時間を超えていたが、疲れていなかった。何分話したかを数えていなかったからかもしれない。
電話を切る前に、絵美は金曜の案内板の話をもう一度したいと頼んだ。
「今、聞いてもらってもいい?」
「いいよ。コーヒー飲みながら聞く」
今度は最初から最後まで話せた。和也は、間違えたことより、人の前で謝ったのがつらかったのかもしれないねと言った。絵美は、自分でもよく分からなかった部分を言ってもらった気がした。
その夜、絵美はいつもの十時の電話をやめ、明日の朝の時間を聞いた。和也の出勤は早いが、絵美が起きるころにはまだ家にいる。
「五分だけ、歯を磨く前」
「そのくらいなら」
翌朝、絵美は寝癖のついたまま電話を取った。和也の声もまだ少し低かった。昨日買い忘れた牛乳のことと、今日の天気だけ話した。五分たつ前に、彼の炊飯器が鳴った。
「じゃあ、食べて」
「そっちも、行ってらっしゃい」
電話を切ると、絵美は自分の朝食を作った。短かったことを取り戻すために、夜に長く話す約束はしなかった。
それでも新しいやり方が毎日うまくいったわけではない。和也が寝坊した朝には電話がなく、絵美は少し不安になった。職場へ着いてから謝る連絡が来たとき、彼女は、無理な日は一言でいいから知らせてほしいと頼んだ。
和也も、朝に話せなかったことが一日中気になるのは困ると答えた。二人は、電話できなかった日は昼までに短い連絡を入れる、という程度に約束を緩めた。つながる方法を増やすために、生活を狭くする必要はなかった。
次の週末は会えなかった。絵美の仕事が入り、和也も町内の用事を頼まれた。以前なら、どちらがどれだけ調整しようとしたかを遠回しに確かめていたと思う。
今回は、互いに空いている時間を書き出し、翌月の土曜を選んだ。会うまでの日が増えたことは寂しい。それを埋めるためだけの電話はしない、と絵美は自分に言い聞かせた。
水曜の夜、珍しく和也から長く話したいと連絡があった。新しい職場で、自分だけが事情を知らない会話が続き、疲れたという。絵美は夕飯の鍋を火から下ろし、座った。
「今日は、何も片づけながらにしない」
和也はありがとうと答えた。黙ったまま一緒に家事をする日と、相手の話だけを聞く日があっていい。その区別を、二人は少しずつ言葉にできるようになっていた。
和也の話に、絵美がよい答えを出せたわけではない。知らない同僚の名前を聞き返し、どの席に座っている人か教えてもらった。それだけで、彼の職場の輪郭が以前より見えた。
電話を切ったあと、鍋のスープは冷めていた。絵美は温め直した。その手間を、相手に奪われた時間だとは思わなかった。今夜は聞きたいと、自分で決めたからだった。
日曜の通話は、その後も時々続いた。毎週と決めなかったのが、二人には合っていた。絵美が友人と出かける日は、その写真を一枚送るだけにした。和也が釣りに誘われた日は、帰ってきてから、何も釣れなかったと報告した。相手のいない時間を楽しんだことに、謝らなくてもよかった。
ある朝、絵美は駅へ向かう途中で電話をかけた。歩道の工事が終わり、遠回りしなくてよくなったことを伝えたかった。和也は、あの角の花屋はまだあるかと尋ねた。絵美があると答えると、今度そこを通りたいと言った。会う日のための立派な計画ではなく、覚えている道を一緒に歩く話だった。
絵美は携帯をしまい、花屋の前で少し足を緩めた。離れている人に話すことで、自分の毎日が少し見え直すこともある。電話は一日を採点するためのものではなく、気づいたものを渡すために使えた。
会う日の前夜、絵美は部屋を片づけすぎた。ソファの雑誌を棚にしまい、冷蔵庫に料理を詰めた。久しぶりなのだから、楽しい二日間にしなければと思った。
朝、駅へ迎えに行く前に和也から連絡が来た。仕事の終わりが遅く、少し寝不足だという。絵美は予定していた美術館の予約を見た。変更できる券だった。
『着いたら、家で休もう』
送ってから、カップを二つ並べた。新しい大きな持ち手のカップと、来客用の白いカップ。揃っていなくても、二人で飲めた。
和也は駅で手を振り、絵美の鞄を持とうとした。中には何も入っていないと彼女が言うと、二人で笑った。電車の中で話すことを考えてきた、と彼は言ったが、家に着くころには半分忘れていた。
ソファに並んで座ると、和也は靴下のつま先を伸ばした。絵美はその隣で膝を抱えた。窓から入る光が少しずつ床を動いた。最初の一時間、二人はほとんど何もしなかった。
和也が先に、黙っていても不安じゃなくなったと言った。
絵美は、沈黙がなくなったのではなく、その中にも相手がいると分かるようになったのだと思った。返事の代わりに、彼の肩へ頭を預けた。和也は少し体を傾け、座りやすい場所を空けた。