四十一歳の涼子は、机を処分するため、引き出しを空にしていた。部屋を仕事場に変えることにしたのは、離婚して三年目の秋だった。使っていない部屋を、使っていないままにしておく理由が、ようやくなくなった。
引き出しの底から映画券が二枚出てきた。薄い封筒に入っていたせいで、印刷は思ったより鮮やかだった。有効期限は八年前。結婚する前の恋人と、行けなかった映画だった。
涼子は床に座り、券を膝の上に並べた。券を買った日のことは覚えている。駅前の映画館で、予告編のポスターを指さして、二人とも観たいと言った。そのあと小さな店で餃子を食べ、彼のほうが一つ多く食べた。
思い出したのは、その楽しい夜より、最後に電話で聞いた「疲れてる」という声だった。当時、彼は親の看病をしていた。涼子は、会えない理由は分かると繰り返しながら、分かっている自分に何かを返してほしいと思っていた。
映画の約束が三度延びた夜、涼子は、私と会いたくないならそう言えばいい、と言った。彼はしばらく黙り、疲れてる、と答えた。涼子は自分との関係に疲れたのだと思った。その理解を確かめないまま、電話を切った。
翌日、机を引き取りに来た業者が、最後に引き出しを確認してほしいと言った。涼子は何も入っていない底を見て、これで全部ですと答えた。部屋から机がなくなると、床に四角い日焼けの跡が残った。
映画券は処分できず、台所の小さな引き出しへ移した。何かを捨てるたび、別の場所へ移しているだけのものがある。涼子はそれを自分の弱さと思いかけ、今はまだ決められないのだと考え直した。
仕事の打ち合わせが終わった夕方、彼の連絡先を開いた。番号は残っていたが、今も使っているかは分からなかった。長い文章を三度書き直し、最後は短くした。
『机を片づけていて、昔の映画券が出てきました。あのとき、看病で大変だったあなたを責めたこと、ずっと気になっていました。今さらですが、ごめんなさい。返事は気にしないでください』
送信してから、返事は気にしないでという最後の一文を後悔した。気にしてほしいのに、相手には気にしなくていいと言う。その癖は八年前から変わっていなかった。
涼子は携帯を机の代わりの折り畳み台に置き、夕飯を作った。玉葱を切る途中で画面が光ったが、広告の通知だった。自分で選んだ静かな暮らしの中にも、こんなふうに誰かを待つ時間が戻ってくるのだと、落ち着かない気持ちで思った。
返事は二日後に来た。『連絡をありがとう。あのころは僕も、人に話せなかった。謝ってもらうことばかりじゃないです』。そのあとに、映画券をまだ持っていたことへの驚きが書いてあった。
昼間の喫茶店で会うことになった。涼子は待ち合わせの十五分前に着き、店の前を一度通り過ぎた。昔と同じ服装を選びそうになり、家を出る直前に着替えた。八年前の自分に会いに来てもらうわけではない。
彼は先に座っていた。立ち上がるとき、椅子を少し引きすぎて後ろを振り返った。その不器用な動きに、涼子は覚えのある安心を感じた。
互いの仕事の話から始めた。彼は職場を変え、今は以前より家に近い場所で働いていた。涼子は独立して仕事をしていることを話した。彼は今も独身で、涼子は三年前に離婚していた。それを、再会の意味を決める材料にはしなかった。
「お母さんは」
涼子が尋ねると、彼はカップの取っ手を持ち直した。母親は二年前に亡くなったという。涼子は遅れてお悔やみを言った。彼はうなずき、それから看病をしていたころの話を少しずつした。
病院へ行く日を仕事の予定表には書けず、同僚に代わってもらうたびに理由を説明したこと。母親が急に具合を悪くすると、翌日の予定を全部消さなければならなかったこと。誰かに何かを約束するのが怖くなっていたこと。
「でも、会いたくないとは言ってなかった」
彼がそう言ったとき、涼子はすぐに、分かってる、と答えかけた。分かっていなかったから、今日ここにいる。
「私は、会えないことと、会いたくないことを、一緒にしてた」
「僕も、説明してもどうにもならないと思ってた。説明するだけで、少し違ったかもしれないのに」
二人の間に、長い沈黙があった。店員が空いた皿を下げに来て、涼子は礼を言った。八年前なら、この沈黙を早く埋めたかった。今は、相手が考える時間に自分まで言葉を詰めなくていいと思えた。
映画券を見せると、彼は指先で期限の部分を押さえた。
「これ、結末、知らないままだ」
「私も。配信で見かけたことはあるんだけど」
「僕も、見なかった」
見なかった理由を、二人とも説明しなかった。映画そのものが嫌いになったわけではない。ただ、選ぶときに別の作品へ手が伸びた。その積み重ねで、八年が過ぎた。
彼が携帯で調べると、近所の名画座で来月、その映画が上映されることが分かった。監督の特集だった。涼子は手帳を開き、土曜の昼なら空いていると言った。
「まだ、予約しなくてもいい?」
彼が尋ねた。涼子は一瞬、自分と行くことをためらっているのかと思った。それから、理由を聞いた。
「仕事の当番が、来週決まるんだ」
「じゃあ、来週聞こう」
答えてから、涼子は少し笑った。こんな簡単なやり取りを、昔はできなかった。
「今度は、無理なら無理って言うね」
涼子が言うと、彼もうなずいた。互いに気を遣わないという約束ではない。気を遣った結果、何を考えているか分からなくなることを減らしたかった。
店を出ると、午後の日差しが眩しかった。駅までの短い道で、彼は最近歩くようになったと話した。涼子は新しい仕事部屋のことを話した。別れ際、また連絡すると彼が言い、涼子は待ってると答えた。待たなくていい、とは言わなかった。
上映の一週間前、涼子の仕事に修正が入った。土曜までに仕上げなければならない可能性があった。彼から予約を取ろうという連絡が来たとき、涼子はすぐに大丈夫と返しかけた。もう一度約束を流したくなかった。
けれど、約束を守るために無理を隠せば、八年前の役割が入れ替わるだけだった。涼子は事情を書き、日曜に変えられるか尋ねた。
彼の返事は短かった。『日曜は午前中に用事がある。午後の回なら行ける』。
その簡潔さに、涼子は救われた。責められないことより、彼にも別の予定があると自然に言ってもらえたことがうれしかった。自分の都合を言うために、相手の全部を止めなくてもいい。
日曜、映画館の前には小さな列ができていた。彼は紙のパンフレットを持って待っていた。涼子が少し息を切らして到着すると、走ってきたのかと聞いた。
「乗り換えを間違えた。遅れるかと思った」
「連絡くれれば、先に入ってるよ」
涼子は一度目を丸くし、それからうなずいた。先に入るという言葉は、置いていくという意味ではない。隣の席を空けて待つこともできる。
二人は売店で飲み物を買った。昔、彼は必ず甘い飲み物を選んだが、今は水だった。涼子はコーヒーを買い、上映中に眠らないためだと言った。彼は、眠っても責めないよ、と笑った。
映画の主人公は、最後に故郷を離れなかった。長く離れることを願っていたのに、駅で切符を買ったあと、家へ戻った。涼子はその結末に少し苛立った。彼はエンドロールが始まっても、画面を見ていた。
八年前に二人で観ていたら、どんな感想になっただろう。涼子は考えかけ、目の前の字幕へ視線を戻した。その答えを知る方法はなく、今ここで観たことのほうが確かだった。
映画館で二人は、初めて並んでエンドロールを最後まで見た。照明がついても、すぐには立ち上がらなかった。通路へ出る人を待ち、コートを着た。
帰り道、結末の好みは分かれた。涼子は、主人公には外へ出てほしかったと言った。彼は、戻ると自分で決めたところがよかったと答えた。
「でも、あの町にいたら、同じことの繰り返しじゃない?」
「そうかもしれない。でも、出ていけると知って戻るのは、前と違うと思う」
涼子は黙った。昔なら、自分が間違っていると言われたように感じたかもしれない。彼はただ、映画の中の別の場所を見ていた。
「そこは、私は考えなかった」
涼子が言うと、彼は、涼子の言うことも分かると答えた。賛成するための言葉ではなく、聞いたという返事に聞こえた。
駅へ向かう途中のパン屋で、二人は明日の朝のパンを買った。彼は固いパンを一つ、涼子は丸いパンを二つ選んだ。会計を待つ間、彼が、また別の映画も観ようかと言った。
涼子は、今度はそれぞれ一本候補を出そう、と答えた。同じ好みであることを確かめるためでなく、違うものを持ち寄るために会いたかった。
家へ戻り、古い映画券を封筒へ戻した。新しい半券を重ねることはせず、別の小さな箱に入れた。八年前の約束が、今日の映画で帳消しになったわけではない。あのとき傷つけたことも、彼が言えなかったことも残る。それでも、その続きに別のやり取りを置くことはできた。
翌朝、涼子は新しい机の高さを調整した。前の机は少し低かったが、買い替えるほどではないと思って使い続けていた。脚の下の金具を回すと、肘の位置がわずかに変わった。それだけで、肩が楽になった。
彼から、昨日のパンがおいしかったと連絡が来た。涼子も食べているところだったので、焼くと皮が少し固くなる、と返した。映画の続きを話すためでなくても、連絡していいのだと思った。
昼には仕事の依頼が届いた。納期は少し厳しく、涼子は引き受ける条件を書き出した。無理だと言えば別の人へ回されるかもしれない。それでも全部できますと答えるより、何ができるか伝えたかった。先方から届いた返事は、二日延ばせば大丈夫です、というものだった。
一度の再会で自分が変わったとは思わない。返事を待つ時間には今も落ち着かず、短い文面から勝手な意味を読み取ることもある。ただ、そのたびに尋ねるという方法が、前より手の届く場所にあった。
仕事部屋の新しい机には、まだ傷が一つもなかった。涼子はその上で、彼に短い感想の続きを送った。返事には、自分もあの場面を思い返していたとあった。
今度は、違っても声を荒らげずに話せた。それだけで、また会いたいと思えた。